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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2006/06/26

卑弥呼は王か最高祭司か

弥生時代の遺跡吉野ヶ里で、まつりごとが行われていたクニの最重要であったという「北内郭」と名付けられた区域を見学した。
主祭殿はほかのどの建物よりも立派で、高床式の下の階で王(男)を交えた会議が行われ、上の階では最高祭司(女)が祖先の霊にお告げを聞く祈りを行っている様子が表されていた。
ということは最高祭司は王ではないと言うことを示している。

その後、新たな発見があったということで、発掘現場が公開されていたので足を伸ばした。そこには2列に縦に整然と並べられた甕棺の列に逆らうような方向に置かれた小さな甕棺があった。
「小さな女の子が埋葬されていた。貝の腕輪がたくさん付けられていて、2列に並んだ甕棺に葬られた一般人とは違った特徴を示している。おそらく、大人になったら卑弥呼のような最高祭司になる家柄の女の子だった」との説明があった。最高祭司の家柄であって、王家の家柄ではないのだ。そのように吉野ヶ里遺跡では考えられているようだ。
卑弥呼は邪馬台国の王ではなかったのか?
吉野ヶ里遺跡で買った冊子は漢字の並んだ封筒に入れてくれた。冊子ばかり見ていたが、ある時この封筒を見ると『魏志倭人伝』を印刷したものであることに気がついた。裏にはその読み下し文があった。

其の国、本亦男子を以て王と為し、住まるること7、80年。倭国乱れ、相攻伐すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王と為す。名付けて卑弥呼と曰う。鬼道に事え、能く衆を惑わす。以下略 とあるのは、最高祭司が王になったことを示すものなのだろうか? というよりこの文を基にして主祭殿のシーンが作られたのだろう。
発掘現場の人は「邪馬台国が九州にあったのか、畿内にあったのかはわかりません。しかし、吉野ヶ里遺跡が邪馬台国の一部だったことは確かです」と言っていた。