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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/01/10

中国最古騎馬像は


『図説中国文明史4秦漢』(2005年刊)は面白い本だった。秦がどこから来て、どのようにして中国を統一する程の力を蓄えるようになったかを読んでいて、秦人(しんひと)が漢民族でないことがわかった。元々世界史の知識ほぼゼロから始めた美術史なので、何故初めて中国を統一した秦ではなく、次の時代の漢の名をとって漢民族というのかと不思議だったのだ。
そして、遊牧段階のところでこれまで発見されたなかで、もっとも古い秦人の騎馬する姿をかたどっている。また、人物が着ているのは現在知られているなかでは最古の「胡服」である。「胡服」とは、西北部の遊牧民が着ていた騎馬での戦闘に適した身軽な服装。
まだ鞍とあぶみは発明されていない。秦人の乗っていた馬は、黄河流域で生存するのに適した種類で、現在の河曲馬に近いと思われる。の体は丸みを帯びてたくましく、足は短くて太い
という解説のある「騎馬俑」の図版があった。時代は春秋戦国期とされている。それと同じのものが「始皇帝と兵馬俑展」(2006年)で展観されていた。ところが、解説を見ると、
戦国時代・秦国の最古の騎兵俑。秦の都・咸陽東北郊の下級武士のものと思われる墓から出土。

この頃は足をかける鐙はまだなく、裸馬や鞍を置いた馬に足をぶらさげてまたがる乗馬が行われていた。
「史記」には戦国後期に趙国の武霊王(在位前326-299年)が「胡服騎射」を採用したとの記事があるが、この頃から趙や秦をはじめとする華北の各国が騎馬軍団を増強しはじめた。

当時は胡服を着て馬に乗り弓を射るのは、夷狄の習俗であったという。
こちらでは時代が限定されて、戦国時代の秦国であるとし、しかもただの騎馬ではなく、騎兵として遊牧民の新しい兵法が採用された時代だったという。また、所蔵も上図は陝西省文物考古学研究所、下図は咸陽博物館と異なっている。しかし、細部までそっくりな上に左側の人物の足に継いだ跡があるので、同一のものと思って間違いないと思う。これらの本が刊行される間に所蔵所と年代判定が変わったのだろう。

時が流れて始皇帝が中国を統一したのが前221年、前210年に亡くなり咸陽より東方の驪山始皇帝陵に葬られた。その兵馬俑はあまりにも数が多く、日本ではいろんな展覧会でこの兵馬俑が出品されてきたが、せいぜい2から3体で、近くから細部を見ることができるとはいうものの、群像としてのすごさが伝わってこない。下図のように整然と並んだ俑というのは迫力がある。左右と奥の通路に見学者が並んでいるので比較するとわかりやすい。しかし、秦の時代の兵馬俑には馬を引いたものや、車馬、あるいは戦車(現場にはない)を引く馬と御者などはあるのだが、騎馬俑はお目にかかったことがない。鞍を付けた馬と引く騎兵の俑は別の陳列ケースに入れられていた。『図説中国文明史4秦漢』には、当時、鞍はあったが、あぶみはまだ発明されておらず、騎兵の両足は宙ぶらりんであったため、騎上でのふんばりがきかず、戦闘力には限界があった。
戦国時代の各国では一様に軍馬の高さは1.33m、騎兵の身長は1.73m以上であることが求められたという。秦の兵馬俑は軍馬の高さが1.33m、騎兵の身長が1.8m以上で、完全にこの基準に適合している。
と、騎兵の限界が記されているが、夷狄の騎馬兵は馬に乗る技術が上だったのだろうか。それでも秦では騎兵の装備に大きな改革をおこない、騎兵専用の軽量型の鎧を発明しました。これによって、秦の騎兵は攻撃と防御の両面で優位にたちました。このような鎧の出現は、いっそう戦車兵の衰退と騎兵の隆盛という大きな転換に拍車をかけましたと、騎兵を重視したことがわかるのに、騎兵俑がないのだった。しかし、前漢になると兵馬俑には騎兵隊が登場する。後漢にも車馬・戦車と並んで騎兵が登場する。この時代になっても鐙はないようだ。
※参考文献
「中国美の十字路展図録」 2005年 大広
「図説中国文明史4 秦漢」 2005年 創元社
「始皇帝と彩色兵馬俑展図録」 2006年 TBSテレビ・博報堂