2007/02/28

地上の鎮墓獣は


前回の犀を原型とした鎮墓獣はで16「陶製の犀」に前足の付け根に翼があるのを見て、南朝の石獣が頭に浮かんだので、忘れへんうちに書いておこう。
『図説中国文明史5魏晋南北朝』という小さな本を読んでいて、麒麟・神獣・石獣といった石像の図版を見つけ、こんな巨大なものが今でも農地のあちこちにある南朝だった地域に関心を持ち、また、それらの石獣には翼があることが記憶に残っていた。
図版が大きいので『世界美術大全集東洋編3三国南北朝』から石獣を見ていくことにする。引用文は同書より。

19 左麒麟(左右一対の内左側) 石造 高280㎝長296㎝ 宋、永初3(422)年 江蘇省南京市麒麟門外麒麟鋪
東晋恭帝の禅譲を受けて宋の王朝を建て、永初3年に崩じた武帝劉裕の参道石獣に比定される。石獣の名称については、文帝長寧陵の石獣が『南斉書』予章文献王巍伝に「麒麟」と記されているので麒麟とする。南朝帝陵最古の麒麟石獣として斉・梁・陳と続く石獣の先鞭をつけたものである。
両麒麟はほぼ東西に向き合って置かれているが、風化と破壊による損傷がかなりひどく ・略・ 顎の下に髭を垂らして肩に翼をつけ、頭を上に向けて口を大きく開け、奥の前肢を前に出して胸を反らしている。頭頂に太い角が頭の輪郭に沿ってはっきり2本あるのが認められる。
またこの石獣の前肢の肘につく三角形の毛は長毛と呼ばれる獅子特有のものであり、たてがみこそないけれども獅子を意識しているのは注目される
という。
角というのは耳と目の間の小さな物だが、頭頂のモヒカンのようなものはたてがみだろうか。翼は小さいながら、はっきりと表されている。20 左石獣 石造 高151㎝長200㎝ 南斉、建武元年(494)  江蘇省丹陽市水経山村
無角でたてがみをもった獅子形石獣がおかれているが、皇帝に即位しながら廃位され、王に降封された後廃帝蕭昭文(海陵王)の石獣と比定した。王であるからには麒麟に作ることは許されなかったのである。
躍動的な動きを強調しすぎたりしてややバランスを失したといえる
という。
麒麟は皇帝でないと使えなかったことがわかる。
皇帝の陵と諸王の墓とでは厳然たる形式上の区別が存在し、皇帝の場合は頭頂に角を1本あるいは2本もつ石獣、諸王の場合は舌を垂らしたてがみをもつ石獣であるという。
翼があることはわかるが、前肢の筋肉を表しているのか、3本の盛り上がった筋が翼と繋がっている。大きな口を開いて、胸に垂れているのはヒゲかと思ったら、舌だったのだ。21 右麒麟 石造 高200㎝長305㎝ 梁、天監元年(502) 江蘇省丹陽市荊林三城巷建陵  
梁の文帝蕭順之の建陵の石獣である。『梁書』武帝紀には、中大同元年(546)に建陵の石麒麟が動いたとの記事があり、麒麟と呼ばれていたことが知れる。
基本的には斉帝陵の石獣の形式を引き継いでいるが、頭部の引き方、胸の突き出し方、腰の上げ方などすべてにおいて、表現がよりおとなしくなり躍動感も減じている。そのうえ頭部が小さく胴が長くなり、鎮墓獣としては一種間延びした感じがしないでもない
という。

このように、石獣、石柱や石碑などが参道の左右に一対ずつ並んでいた。ということは、この先が墓室ですよと墓泥棒に教えているようなものではないのだろうか。そのせいか、発掘された皇帝の陵墓は11ヵ所ですが、ほぼすべてが盗掘によってひどく破壊されており、遺物はほとんど残っていませんと『図説中国文明史5魏晋南北朝』にある。この石獣は麒麟なので、舌ではなくヒゲを垂らしているようだ。22 左石獣 石造 高350㎝長380㎝ 梁、普通4(523)年 江蘇省南京市甘家巷蕭景墓
蕭景は21の梁の文帝蕭順之の弟蕭崇之の子。帝陵の麒麟石獣と同じく有翼で、頭を引いて胸を反らし、さらに顔面を獣面に作って口を大きく開けるのは共通するが、角がなくてかわりにたてがみが表され、明らかに獅子型に作られていろところが大きく異なる。
獅子は中国では比較的後発の神獣で、西域との交渉により文様が流入したり獅子自体も献上されたりして、前漢のころから各種青銅器などの文様として使われ始め、しだいに中国固有の文様のなかに溶け込んで、後漢に入ると墓前参道の鎮墓獣としても使われるようになった。獅子は「虎豹をも食らう」という威猛さが信仰されて、南朝の陵墓でも辟邪の目的に使われるようになったのである
という。
なんと、後漢から参道の鎮墓獣があったのだ。また、神戸山手大学のウェブサイトに河上邦彦連載コラム「中国に見る日本文化の源流」に『舌だし鬼面図』というページがあり、戦国時代、曾の鎮墓獣俑は妙なものだったの12「彩漆鎮墓獣」についても記述があります。 

中国と言えば西安から西の方にばかり興味があったので、江南という土地にはなじみがなかった。しかし、このような石獣がある大地を見てみたいなあ。

※参考文献
「図説中国文明史5 魏晋南北朝」 羅宗真 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編3 三国南北朝」 2000年 小学館

2007/02/26

犀を原型とした鎮墓獣は


鎮墓獣は一角獣?で『中国 美の十字路展』図録の一角獣の説明文を引用した中に「後漢になると陝西勉県や山東諸城などでも一角獣が登場する。しかしそれらは犀を原型としたもの」という箇所があった。あれこれ本を開いていると思い当たるものがあったのだが、あらためてみると、後漢のものはなく、南朝のものばかりだった。それなりに面白いので、見ていくと、

15 陶製の犀 南朝(229から589年) 河南省洛陽澗西県出土 洛陽市博物館蔵
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、この種の犀に似た陶製の神獣の多くは、墓室内の祭壇の前や甬道(墓室をつなぐ通路)に置かれ、頭は墓の入口に向けられている。おそらくは墓を守る神獣だったのだろう。「窮奇」ともいう。頭部に伸びた1本の角以外に、背中にも4本の角があり、体つきは犀に似ているというが、犀と限定していない。
北魏の鎮墓獣では、8(鎮墓獣は一角獣?の番号です。以下同様)には5つ、9には3つ背筋に穴があり、たてがみのようなものがはめ込まれていたらしいが、この犀は4つの角になっている。確かにサイは顔中央に角があるが、この神獣のように頭部にあるわけではない。サイに近いが、やはり一角獣の流れにあるように思う。 16 陶製の犀 西晋時代(265-316年) 江蘇省南京砂石山出土 南京博物院蔵
角は3つになっている。背中の5つの房のようなものはなんだろうか。前足の付け根に翼があり、神獣であることがわかる。17 鎮墓獣 灰陶加彩 西晋時代(265-316年) 出土地不明 個人蔵
『中国古代の暮らしと夢展』図録は、鎮墓獣は墓を邪鬼から守る想像上の獣であるるが、この形のものを犀獣と呼ぶこともある。古代中国では、死者の肉体が邪鬼に損なわれると仙人として再生できないと考えられたため、邪鬼を追い払って墓を守るの神獣が副葬された。鎮墓獣の副葬は戦国時代後半期の楚国(長江流域)で始まり、漢代には中原(黄河流域)に広がった。西晋頃から盛んとなり、北朝、隋を経て唐代に大流行した。本作品は、頭に3本の角をもち、尾を高くもちあげた姿の鎮墓獣で、河南地域の西晋墓からの出土例が多い。素焼きの灰陶の上に、白色の絵具で彩色しているという。

こちらは前足の付け根に翼がない。18 錯金銀雲紋銅犀尊 青銅 前漢(前206-後8年)陝西省興平県豆馬村出土 中国歴史博物館蔵
『世界四大文明 中国文明展』図録は、動物を象った尊は、殷(商)周時代の長江流域で多く出土しているが、漢代の出土は稀である。犀の背には蓋があり、口の右側には管状の注ぎ口がある。腹のひだと背中の蓋を、鞍と腹帯に見立てている。全身に金銀の象嵌で雲流文が施され、両目には黒光りするガラス玉がはめ込まれている。アジアに生息する二角犀は、スマトラ犀であろう。繊維質の犀の角は薬用に、皮は鎧に利用されたという。
これは鎮墓獣ではなく、「尊」つまり酒器なので、上の3点の鎮墓獣と比較するのもあまり意味はないが、角の位置は正確だ。このように見ていると、15-17の鎮墓獣は、体はサイやウシのような重量級の動物に似ているが、時代を考えると、10や11のような、後漢(後23-225年)の一角獣から、7から9の北魏の頭部の角が退化した鎮墓獣、この2つの時代を埋める資料になるのではないだろうか。

※参考文献
「図説中国文明史5魏晋南北朝」 羅宗真 2005年 創元社
「中国古代の暮らしと夢展図録」 2005年 発行は様々な美術館
「世界四大文明 中国文明展図録」 2000年 NHK

2007/02/23

戦国時代、楚の鎮墓獣俑は妙なものだった


『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』に八木春生氏が墓中に埋納された鎮墓獣俑の早期の例としては、木胎漆器ではあるが戦国時代の楚墓より出土する、鹿の角をもち、舌を出したものが有名であると述べていたものが気になった。
今まで見た記憶がなかったが、探してみると『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』に挿図があった。

12 彩漆鎮墓獣 戦国中~後期(前4-3世紀) 湖北省江陵県雨台山出土 武漢、湖北省考古研究所蔵
しかし、これでは2本の鹿の角と長い舌を出し、背中合わせになっているものが何かわからない。

舌を出して蛇を食べる怪獣全身像や鹿角を挿した双鹿角器は鎮墓獣の原型であるが、前代には見られなかった神像であるという。
鹿の角が魔除けの効能があると考えられていたのだろうか。 MIHO MUSEUMの彩漆木彫双身双首鎮墓獣は12とよく似た鎮墓獣である。様々な角度から写した写真や解説もある。この強く様式化されたS字型の霊獣が背中合わせに方形の器座上に立ち、各々実物の鹿角を方形の頭につけている。矩形の断面に面取りされた体躯には黒漆地に赤い漆で雲気、方形の結節部には菱文が描かれ、体側の両脇にはその体躯の屈曲に合わせS字型に体をくねらせ長い舌を吐く三組の龍が各々描かれている。おそらくこの霊獣は龍を表現したものではないかと想像される。あるいは死者の昇天を導き護る鹿の働きを、龍が荷うようになって行ったことを示しているのかもしれない。古来、龍は吐舌する形象に作られているが、特にこれは平たい大きな舌を垂らし、邪鬼を威嚇する意味を持たされたものであろうという。
鹿は「死者の昇天を導き護る」働きがあるとされていたことがわかった。そして、角と舌を出したものが龍の頭部で、死者を護る役割が鹿から龍に移行したのだろうと解釈している。
また、鹿の全身像も12よりも早い時期のものが同書で見つかった。

13 彩漆鹿 戦国前期(前433年頃) 湖北省随州市曾侯乙墓出土 武漢市、湖北省博物館蔵
同書に漆鹿が2体出土したことがわかっている。こちらも挿図のため解説がないが、MIHO MUSEUMの上記の説明文により「死者の昇天を導き護る鹿」であることがわかる。 14 金象嵌霊鳥 銅製 戦国前期(前433年頃) 湖北省随州市曾侯乙墓出土 武漢市、湖北省博物館蔵
頭から鹿角のような角が生えた鳥を青銅で作ったものである。戦国時代の湖北省地域(曾国と楚国)では霊力をもつものと考えこられたようで、鹿角をつけた彫塑作品が多く作られた。
この作品は分解、組み立てができるように作られている。 ・略・ 想像にすぎないが、曾侯が旅行するときには分解して持ち運び、滞在地で組み立てる、というようなことが行われたのかもしれない。
嘴の右側面に「曾侯乙作持用終」という凹線による銘文がある
という。
鹿角は鎮墓獣にもつけられたが、普段の生活にも辟邪としてそばに置く物にも付けられていたようだ。鹿と言えば、毎年角が落ちては生えるので、それが輪廻転生や豊作のシンボルとなったというようなことを何かで読んだ気がするのだが、中国の、中でも曾や楚では鹿が死者の昇天を導き護る動物と考えられていたらしい。
そして、死者を護る鹿が、鹿の角は魔除けとなり、鹿の角を龍に付けて龍に死者を護り、昇天に導く動物というイメージが移行していったとするMIHO MUSEUMの解説者の説は面白い。
 
※参考文献
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館

2007/02/20

鎮墓獣は一角獣?


武人俑ばかり探していたので、うっかりと見過ごしていたが、北魏時代にも鎮墓獣俑があった。遡っていくと、あれ?と思うようなものに辿り着いた。文中の1から6の数字は武人が鎮墓獣に?の画像の番号です。

7 鎮墓獣俑 灰陶加彩 北魏、建義元年(528) 河南省洛陽市元邵墓出土 洛陽市博物館蔵 
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、人面と獣面のものが一対となった、蹲踞した鎮墓獣が見られるようになったことも新しい。おそらく墓門付近に置かれた鎮墓武人俑が、目や口を大きく開いた恐ろしい形相であるという。
3のように、唐時代にはあちこちから出る羽状突起は、この時代には羽状とは見えず、背筋に並んでいる。元々2本だったのか、何本か並んでいたのかはわからない。
容貌は1・2に近いが、尖った頭頂部は頭の形なのか、帽子なのかもわからない。8 鎮墓獣俑 褐緑釉加彩  北魏、太和8(484)年 山西省大同市司馬金龍墓出土 大同市博物館蔵
頭頂部には角の痕跡があり、また頭部から背中にかけて長方形の穴が5つ開かれ、本来そこにたてがみが差し込まれていたと思われる。墓中に埋納された鎮墓獣俑の早期の例としては、木胎漆器ではあるが戦国時代の楚墓より出土する、鹿の角をもち、舌を出したものが有名である。しかし、後漢時代以降は、一角獣や有翼獣といった形式の鎮墓獣俑が主流となった。また漢代や西晋時代の陶俑で施釉されたものも少なくない。それゆえ司馬金龍墓出土の鎮墓獣俑は、後漢以降の伝統を継承したことが知られる。ただし蹲踞の姿勢をとり、しかも人面である点は、これまでにほとんど見られなかった新しい形式である。 ・略・ また鎮墓武人俑らしきものも大破した状態で見つかっているという。
また、反対側には小札のような鱗がびっしり描かれているのだそうだ。私には墓を守っているというよりも、瞑想でもしているように見える。顔は鼻が高く、柔然人と思えない。
7の尖った頭頂部が、半世紀ほど前には角の痕跡であることがはっきりとわかる表現だった。また、背筋にあったのがたてがみであり、数も5本ということがはっきりした。
それにしても「木胎漆器で戦国時代の楚墓より出土する、鹿の角をもち舌を出したもの」というのはどんなものだろう。そんなに有名なものなのに、私は知らない。9 鎮墓獣 加彩陶 北魏、太和元年(477) 山西省大同市燕北師院宋紹祖墓出土 大同市考古研究所蔵 
『中国 美の十字路展』図録は、1体は犬型の獣面鎮墓獣、1体は馬型の人面鎮墓獣である。
獣面鎮墓獣は背中に四つの切り込みがある。鬣(たてがみ)のようなものが挿入されていたのだろうか。足が欠損しているものの、本来は蹲踞して墓室の入口付近におかれていた。
人面鎮墓獣は深目高鼻の形相で、視線を前方下に投じる。体には後漢の一角獣にもみられるウロコのような装飾がある。鬣には三つの切り込みがあり、角や槍のような突起物を挿入していたのだろう。とくに先端部の切り込みは前方にむけて穿たれており、ここに長い角が挿入されていたとすれば、その姿は漢代一角獣からの伝統を想起させるものである
という。
ウロコ状のものは一角獣だったのだ。人面鎮墓獣の額の黒い瘤のようなものが、8の頭部に共通するものかと思っていたが、瘤の後方にある切り込みに長い角があっただろうということだ。10 一角獣 加彩木 後漢(25-220年) 甘粛省武威市嘴子出土 甘粛省博物館蔵
角を前方に突き出して目を大きく見開き、外敵を威嚇するようである。主に朱と墨とで模様を描く。体躯は一見すると犬のようでもあるが、頭に描かれた波打つ縞模様は鬣のようであり、足先は蹄状につくる。肩のあたりは翼を表現する。このような創造上の動物は枚挙にいとまなく ・略・ しかし、それらが立体造形物として墓に納められることは殆どなかった。数ある神獣のなかでも、とくに本例のような一角獣が、墓や死後の世界と密接に関わる存在であったことがうかがえるという。
9の人面鎮墓獣の尾もこのような幅が広くて上に振り上げたようなものだったのだろうか?11 一角獣 銅 後漢 甘粛省酒泉市下河清18号墓出土 甘粛省博物館蔵
頭を下に向け、頭頂に生えた長く、鋭く尖った1本の角を前に突き出している。4本の足で踏ん張り、全身の力を一角に集中させているかのようである。地下の墓の前室に、頭を入口に向けて置かれていた。このような一角獣は、甘粛の河西地方の後漢墓から多く出土し ・略・ 体に鱗文を施して大きな尾を振り上げ、敵に対する猛烈な威嚇を示していた。当時、墓を悪霊から守るためにさまざまな鎮墓獣が編み出されたが、角はとりわけ悪霊を突く力があると信じられ、戦国時代の楚の墓では鹿の角を使った鎮墓獣が多く作られ、後漢になると陝西勉県や山東諸城などでも一角獣が登場する。しかしそれらは犀を原型としたものであり、これほど角が長く精悍な一角獣は河西地方独特といえるという。
一角だが、枝分かれしていて、戦国時代の鹿の角の名残のようだ。10・11が頭をできるだけ下げているのは、角を正面に向けるためであることがわかるが、9になると角で威嚇するような表情ではなくなり、8に至ってはその角さえも痕跡でしかなくなってしまう。
※参考文献
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館

2007/02/15

武人が鎮墓獣に?



前にも書いたかも知れないが、2006年にMIHO MUSEUMで開催された「中国 美の十字路展」はそれまで見たことのないような俑がたくさん展観されていた。その中でも特異なのが次の武士俑の顔だった。

1 武士俑 加彩陶 北魏(386-534年) 蒙古自治区フフホト市北魏墓出土 内蒙古自治区博物館蔵
同展図録は、目鼻を大きく作り、口に牙をのぞかせて見る者を威圧しつつも、どこか愛嬌がただよう。 ・略・ 同墓からは、同形の俑がもう1体出土している。この俑は単なる武士俑としてではなく、墓あるいは墓主を守護する鎮墓俑として作られた。甲冑をまとう鎮墓俑は西晋以降に多く見られる。 当初は一つの墓につき1体のみの副葬であったが、北魏以降は1対での副葬が慣例化する。本例はその先駆けともいえる。出土状況は判然としない。おそらくは墓室の入口付近に置かれていたのであろうという。

同展には稚拙な造形の俑も見受けられたが、このように表情を誇張したものはない。魔除けのためにこんな顔にしたのだろうか。 残念なことに西晋時代の武人俑の図版がないのだが、『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』には陶俑を機能面から分類していて、武士俑と鎮墓俑がどう違うのかを知ることができる。

1)墓を悪鬼から守る役目のもの(鎮墓武人俑、鎮墓獣俑)
2)墓主の出行儀仗に関するもの(騎馬俑、武人俑 ・略・)
 以下略

先程の俑に似たものを『図説中国文明史5魏晋南北朝』でも見つけた。

2 陵墓を守る北方異民族の俑 北魏 山西省大同平城鮮卑貴族墓出土 大同博物館蔵
副葬された陶俑のなかで最大(高さ80cm)のものである。顔立ちは兵士の勇猛さを誇張したものとなっている。鮮卑軍のなかには多くの北方異民族がいた。墓を守護する俑を北方異民族のものにするのは、北朝時代から始まったものである。隋唐時代には、北方異民族の顔に獣のイメージを加えるようになったという。

鮮卑そのものが北方異民族なのだが、中原が鮮卑族に支配されていたこの時代の北方異民族とは、柔然か?
なんと、柔然の武士は、隋唐になると次のような鎮墓獣になってしまうのか。

3 鎮墓獣 塑造彩色・木 唐時代(8世紀) トルファン市アスターナ216号墳出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
『シルクロード 絹と黄金の道展図録』は、鎮墓獣は、中国において、古来、悪霊などから墓を守るために設置された獣形の神像のこと。
頭が獅子、体が豹、蹄が牛、尾が狐のそれのような形に表され、頭頂と背中に1本ずつ、左右の肩上に2本ずつの羽状の突起が挿入されている
という。

もともと獣形の鎮墓獣があったような書き方だ。
では、柔然人の顔をした武人俑はこちらの鎮墓獣になってしまったのだろうか。

4 鎮墓獣 塑造彩色・木 唐時代(8世紀) トルファン市アスターナ224号墳出土 新疆ウイグル自治区博物館蔵
人頭になり、体躯は豹のようで、長い尾を備える。上図が開口して威嚇するかのような表情を示すのに比べ、こちらは静的で威厳をたたえた顔立ちを見せ、人頭獣身という奇怪な姿ながら、強い実在感を与えるという。

1・2の武人俑の顔が唐になるとこのように整ってしまうのだろうか?
出土地のアスターナは麹氏高昌国時代から漢民族の墓地だった。同じトルファンに、唐時代に交河郡(県)の官署を置いたのが、かつて車師前国があった交河故城。車師人はイラン系だったと言われている。柔然人よりは深目高鼻の車師人に似ているように思う。
口の開閉について記述があるが、阿吽のことを言っているのだろうか。4・5の鎮墓獣はそれぞれ別の墓より出土したもので、大阪歴史博物館でみた時には、別々のもの、あるいは1対で出土したものの1点ずつと思っていた。
ところが、トルファンの博物館にも3と4に似たものが1点展示してあり、ガイドの丁さんが、「墓室の前に、獣面のものと人面のものが1つずつ置いてあります」と説明してくれた。この時阿吽についての説明があったかどうかは覚えていないが、そんな並べ方をするとは思わなかった。

次にこれらの像を繋ぐものはないか探してみた。

5 鎮墓武人俑 灰陶加彩 北魏、正光元年(520) 陝西省西安市任家口M229号墓出土 陝西省歴史博物館蔵
 1・2の詳しい製作年代がわからないので、どちらが先に作られたのかわからないが、この俑の方が表現が控えめだ。ここで気がついた。1・2もこの像も、歯が見えていても、口は閉じている。吽形という点では4の方に通じる。
6 鎮墓武士俑 加彩陶 北周、天和4(569)年 寧夏回族自治区固原県李賢墓出土 固原博物館蔵
北周政権下の俑は総じて小型であり、ほかより大きく作られる鎮墓俑でさえ20cmに満たない。目をむき出しにして開口する様は、いかなる鎮墓俑にも共通の表現である。しかし、腹を出して体をくねらせた造形は西魏・北周鎮墓俑の特徴であり、直立姿勢が常の北斉鎮墓俑と好対照をなしている。着ている甲冑は、筆描きによって小札が入念に描き込まれる。正面部は型作りし、背面は板状の粘土をあてがう。そのため、堂々と迫力のある正面にくらべ、側面からは頼りなさが漂うほどであるという。

こちらの像は阿形だった。口の開閉では決められないようだ。

※参考・引用文献
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」 2002年 NHK
「図説中国文明5 魏晋南北朝」 羅宗真 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館

2007/02/13

中国最古騎馬像はどっち?


うっかりと中国最古騎馬像はで下図を中国最古の騎馬像と決めてしまったが、これは最も古い秦人の騎馬する姿の間違いだった。陝西省咸陽出土ということなので、下図が記載されていた『図説中国文明史4秦漢』に秦人が咸陽原に遷都した前350年から始皇帝が秦を打ち立てた前221年までの間につくられたものということができると思う。もっとうっかりしていたのだが、以前に金粒細工について調べていた時(金粒を探しながら中国の金工品をふらふら2)に、既に下図が騎馬像であることに気がついていたのだった。

『世界美術大全集東洋編1先史・殷・周』 は、虎と闘う戦士は右手に剣を握り左手で手綱をとっている。2本の棒状の飾りのついた頭巾のようなものをかぶり、ズボンをはき、腿までの上着を身につけている。両膝を曲げた格好で表されるが、これは乗馬の姿勢としては不自然で、あるいは闘うために馬から下りようとしているのであろうか。馬は面繋(おもがい)をつけ、胸繋(むながい)や尻繋(しりがい)らしいものも見える。背中には鞍が見えるという。
妙な馬の乗り方である。当時はこの金の点1つ1つが粒金細工なのではないかと思っていたが、これを金象嵌と認めたとしてもすごい技術である。その上、他の文様の線や面が戦国時代に特徴的な細い金線を象嵌するというきわめて精密な技法なのに、この騎馬像は変である。虎と闘うために馬から下りようとした瞬間を捕らえた図というのが一番自然な説明のように思う。この鏡は戦国時代(前5-3世紀)と、時代に幅があり、その分秦人の騎馬俑よりも古い可能性がある、としか言えない。

※参考文献
「図説中国文明史4 秦漢」 劉煒編著 2005年 創元社
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館

2007/02/10

騎馬が先か戦車が先か


騎馬像を探して遡る2に書いたように「前12-9世紀に乗用の馬をもつ遊牧民の活動が開始され、前9-8世紀には馬のもつ機動力を利用して、多数の羊、山羊、馬を飼育する遊牧社会の成立がみられた」ということで、騎馬の上限がこのあたりだと思っていた。そして、騎馬よりも馬車あるいは馬に牽かせた戦車で移動や戦闘をおこなう方が先だとも思っていた。それは、私の知っている範囲では、馬に牽引させた馬車(荷車または戦車)を表したものが騎馬像よりも早くから現れていたからだった。

44 馬車模型 青銅 イラク、テル・アグラブ出土 前3千年紀前半 バグダード、イラク博物館蔵
残念ながら、この像からは、物資を運ぶ車両を後ろにつけていたのか、戦車の一部なのかわからない。45 ウルのスタンダードより戦車図 イラク、ウル王墓出土 ウル第1王朝時代(前2500年頃) 大英博蔵 
ウルのスタンダードにはこれ以外にも戦車が数台表されている。私はこの図を見るたびに、ウマの背中に乗っているネジは何だろうと不思議だった。『ウマ駆ける古代アジア』でこれが「手綱とおし環」というもので、ながえの上につくものであることがわかった。4頭のウマの手綱をまとめるためのもののように見える。ウルの墓より銀製のものが出土しているらしい。このように馬車が前3千年紀に出現し、騎馬像はずっと時代が下がるので、牽引する馬車の方が、馬に乗るよりも、馬を使いこなす上では容易なのだろうと思っていたのだった。
ところが、『ウマ駆ける古代アジア』は、ウクライナのデレイフカから前4000年頃の骨や鹿の角製のハミ留が出土した。特別に埋葬された馬は臼歯にハミ使用の痕跡らしいものがあるらしい。そして川又氏は銜留が出土するのに銜が出土しないのは、腱とか革とかの有機物であったからという。
また、この銜の使用は、牽引か騎乗か駄載か。この設問には騎乗と推定する人が多い。橇や犂や車両が発見されていないということと、ウマ家畜化を考えるとウマやウシのような足の速い大型獣の大群を放牧(柵でかこった牧場を使うのではない)するには、騎馬が必要だからである。またウマを狩る、あるいは捕獲するにも、ウマに騎るほうがつごうがよいと、馬車よりも騎馬の方が早かったと考えられているようだ。
車輪というものを造る、あるいは発明するのは容易なことではなかったのだ。なるほど、44・45共に車輪はスポーク(輻式)ではなく、円盤状にした板(板車輪)だ。より原始的なものにはこしきがなく、車輪と車軸が一体で回転するものさえあったということだ。馬車がそんなに大変なものなら、簡単なハミやハミ留があれば、ウマに騎って駆ける方が簡単かなとも思った。 

しかしながら、松川節(大谷大学文学部助教授)氏の「モンゴル草原の祈り」第2回(テーマ1のその2)10月3日:遊牧のしくみは、しかし近年,デレイフカ遺跡の年代決定にはさまざまな疑問が提起されており,この遺跡だけをもってウマ利用を紀元前4000年に遡らせるには無理があるというのが最近の学界動向という。川又氏の『ウマ駆ける古代アジア』だが、現在は絶版になっていて、復刊ドットコムで復刊リクエスト投票が行われているようだ。しかし、出版されて13年ともなると、発掘や研究はかなり進んでいるだろうし、その上記のように当時とは見解が異なってくることもあるだろう。
『ウマ駆ける古代アジア』の続編が出ることを願っている。

※参考・引用文献
「ウマ駆ける古代アジア」 川又正智著 1994年 講談社選書メチエ11
「世界美術大全集16西アジア」 2000年 小学館

2007/02/08

一大決心して新薬師寺に行く



新薬師寺に行くのにどの駐車場に車を置こうかと言っているうちに、高畑町交差点を左折して県営高畑観光駐車場(地図は再び頭塔を見に行ったら の一番下にあります)を通り過ぎてしまった。とりあえず新薬師寺まで行くことにしたが、狭い道をあっち曲がりこっち曲がりし、いったいどこにあるのだろうと迷い込んだのが、新薬師寺の東門の筋だった。

この門も良かったが、寺の土塀もなかなかのものだった。

『週刊古寺をゆく6新薬師寺と春日野の名刹』は、寺の東土塀の北端にある1間1戸の切妻造りの門。四脚門のようにみえるが、創建当初は2本柱の簡素な建物であり、平安・鎌倉時代に流行した、貴族や武家住宅の棟門(むなもん)の姿をとどめ、そうした遺構の最古のものとされる。両側の土塀が門を支えており、塀に接する本柱は平らに削られているという。
塀が門(の土壁や屋根)を支えているというのは、見ただけでは気がつかないものだ。ロマネスク様式の教会が、天井の重みを支えるために、分厚い壁や扶壁が必要だったというのと同じことなのだろうか。引き返した空き地のようなところが新薬師寺の駐車場だった。 境内にはこれも鎌倉時代で重文の南門から入る。
5本のすじをみせた土塀を従えて、乱積み石の基壇の上に建つ。切妻造り、本瓦葺きの四脚門。正面中央虹梁(こうりょう)上にある両端が巻き上がった板蟇股(いたかえるまた)が珍しい。似たものが東大寺転害門(てがいもん)にある。創建年代は不明だが、様式から、鎌倉中期以後とみられるという。

残念ながら出入りするときは全く気付かなかった。下の写真は境内から撮った写真ですが、虹梁(門上部の横木)の上に板蟇股があることが、拡大するとかろうじてわかります。 南門をはいると両側に草や木が生えていて、奥に燈籠(室町時代)と簡素な本堂とがあった。それほど大きな建物ではなかったが、全体を入れて撮ることができなかった。えっ、これが本堂? と思うくらいシンプルなのは、天平19(747)年の創建当初の建築だからだ。
桁行(けたゆき)7間、梁間(はりま)5間。単層、入母屋(いりもや)造り。
本瓦葺きの屋根はゆったりと流れおち、屋根の反りは気づかないほどゆるやかである
という。
なるほど、ややこしい組み物や極端な軒先の反り返りがないので眼にも静かで、軽やかだ。
「屋根の鬼瓦も、奈良時代当初の特色として、角が生えていない鬼瓦があがっている」と同書にある。鬼面鬼瓦だとは気がついたが、角がないことまでは見ていなかった。ザルのような眼である。建物の簡素さに加えて、 丸地垂木(まるじたるき)も気に入った。垂木についてはホームページ「古都奈良の名刹寺院の紹介、仏教文化財の解説など」の垂木のお話が分かり易いです。 下の画像は拡大できません。本堂には西側から入る。中は撮影不可。天井がなく、白い化粧屋根裏が外からでも見えた。入ってすぐのところにある柱も、傷んだ部分に別の材を使って埋めてあるのだが、その形がそれぞれ面白かったので、仏像はともかく、それだけでも写させてほしかったなあ。
東大寺の戒壇院や二月堂に行くのを阻んだのは大仏っつぁんだったが、新薬師寺に行く気がおきなかったのは本尊のせいだった。今でこそ奈良後期や平安前期の仏像の時代づけが変わってきたので、ある程度許容範囲は広がったが、若い頃は平安前期、いわゆる貞観仏と呼ばれる塊量感のある作行きが嫌いだった上に、この本尊の気持ちの悪い顔立ちがなんとも言えずいやで、塑像の十二神将像を見たい気持ちよりも上回っていたので、新薬師寺に行く気がおきなかったのだった。
その上、奈良時代創建の寺の本尊が平安前期、眷属の十二神将よりも新しいというのがどうも変だ。当時の坊さんが売り飛ばしてしまったのだろうか?下の画像は拡大できません。
さて、内部に入ると化粧屋根裏が白いので明るく感じた。そして、等間隔にならぶ屋根裏の丸垂木が堂内の雰囲気を軽くしているように感じた。本尊はどっしりとしているし、他の像よりも高いのだが、その周囲の十二神将を見ながら一周できる配置だったので、本尊をあまり見ずに済んだ。
内部はまわり1間通りが外陣(げじん)で、中央は柱間(はしらま)3間分の直径をもつ白漆喰塗りの円形須弥壇(しゅみだん)がある。その中央に本尊薬師如来坐像が安置され、周囲を眷属(けんぞく)の十二神将立像が取りまいている。
十二神将はほぼ等身の塑像で、近くにあった岩淵寺(いわぶちじ)から移されたと縁起は伝える。
因達羅(いんだら)像の台座の墨書から天平年間(729から749)に制作されたことがわかる。宮毘羅(くびら)像のみが安政の大地震(1854年)で損壊したため、昭和の作に代わり国宝から外れている
という。

あれま、もともと新薬師寺にあったのではなかったのだ。この岩淵寺は、白毫寺のところに建造され、いつの頃にか廃絶したお寺のようだ。何時頃から新薬師寺にあるのだろう。
一番壊れやすいと言われている塑造の十二神将立像が、他の寺から移されてよくここまで残ったものだ。迷企羅(めきら、下写真左前)像が、名前はともかく顔が一番知られていると思う。それぞれの像は動きは過激ではないが、迫力がある。しかし思ったよりも小さな像だった。もっと小さなお堂に配されるように造られたのではないだろうか。


そして、この国宝の本堂が、かつて七堂伽藍を誇った新薬師寺の、どの位置を占める建築であったのかは、明らかではない。金堂でなかったのは確かである。衆僧の修行と生活の場である食堂(じきどう)とか、修法をおこなう壇場であったとの説があるという。
このお堂は金堂でもなかったのだった。 新薬師寺は数回火災に遭い、その度に建て直されてきたが、現在本堂と呼ばれるこの建物は、創建以来、立て替えられることなく、当時の建築様式を今に伝えているわけだ。手前の2本の柱には彩色が微かに残っている。 最後に、同書から新薬師寺の創建についての説明をあげておきます。
この新薬師寺は、聖武天皇の眼病平癒を祈願して光明皇后が9間の仏堂を建立。七仏薬師像を安置し、その胎内に仏舎利5粒、 ・略・ を納めた。新薬師寺の「新」とは「新しい」ではなく、「あらたかな」の意味である。
いつも奈良博や旅のついでのようにしかこの辺りのお寺に行っていないので、一度じっくりと白毫寺、新薬師寺、東大寺の二月堂・三月堂・戒壇院、続いて正倉院までゆっくりと見て歩くということをしてみたいなあ。
小さなリュックを背に、元気に歩き回っている中高年の人たちがたくさんいて、その人達よりは少し若い我々が車で回っているのはちょっと情けない。中高年が歩くのは山だけではないのです。

※参考文献

「週刊古寺をゆく 別冊6 新薬師寺と春日野の名刹」 2002年 小学館
岡本茂男氏以外の写真は小川光三氏のものです。
また、十二神将の名称は文化庁の指定名称に従いました。お寺では違った名前になっているようです。

2007/02/05

再び頭塔を見に行ったら


数年後新薬師寺を拝観に行った後、割合近くにあるので、その後頭塔はどうなっているだろうと行ってみた。前回は福田さんに鍵を開けてもらったが、この時は仲村表具店の方が現地管理人になっていた。昔の風情を遺した狭い通りにも今時のお店が進出していた。
仲村さんに鍵を開けてもらい、狭い通路を通っていくと、見えてきたのは土留めと雑草で、その先にはやたら新しい瓦と石が整然と並んでいた。復原というのはこんな風にすることだったのか。頂上には五輪塔が据えられている。
東面の説明板など、親切なのは良いのだが・・・
北面には屋根付きのデッキがあり、そこからは全体を見渡すのが難しい。 このようなパネルがあるので、どこにどんなものがあるか分かり易いかというと、はっきり言って上の方は段が邪魔して見えないし、見えたとしても遠いので何かわからない。 北西の角から見るとこんな感じ。遺跡というより公園みたいで、通路に手すりがなかったら登っていたと思う。これでは上の方の仏像は見えへんやんけ。双眼鏡を持って行っても見えへんやん。
「これから頭塔を見学する方には、潜望鏡か空飛ぶ絨毯を持って行かれることをお勧めします」と、あまりにもきれいになりすぎて切れまくった私でした。
 どうどう by夫
仏像はんもなんやらうそっぽい。右下は19 浮彫如来及両脇侍二侍者像(番号は上のパネル通りです。以下同じ)南面はまだ木が残って未整備だが、このままの方がよいと思う。 9 浮彫如来及両脇侍二侍者像 前回も見ました。2 浮彫如来及両脇侍二侍者像 15 浮彫如来坐像 これは前回見たものと同じはずだが、色が違う。きれいに洗ったのだろう。ところでこれらの浮彫仏像の製作年代について、パンフレットは、往時の頭塔は、第1・3・5・7の奇数段4面に各11基ずつ総数44基の石仏が整然と配置されていたと考えられています。そのうち28基が現在までに確認され、25基の表面には浮彫や線彫で仏菩薩が表されています。そのうち当初から露出していた13基が昭和52(1977)年6月11日に国の重要文化財に指定され、また1基が郡山城の石垣に転用されています。その後の発掘調査で平成11(1999)年までに新たに14基の石仏が発見され、うち9基が平成14(2002)年6月26日に国の重要文化財に追加指定されました。
石仏の図像は、A上方に宝相華の天蓋があり、下方に供養菩薩を配した如来三尊仏を刻むもの。B楼閣を背にして三尊仏を配し、菩薩・比丘を加えた3ないし5体の群像を表すもの。C如来坐像1体の周囲に小仏を多数配置したものなどがあります。
これらは、数少ない奈良時代後期の石仏として美術史上きわめて貴重なものといえるでしょう

という。 

何に書いてあったか定かではないが、東大寺の八角燈籠の菩薩に作風が似ているらしいので、参考までに『芸術新潮 1993年4月号』より音声菩薩です。 新たにもらったパンフレットより、手前が北、森のある方が南です。それにしても、頂上に五輪塔があるのは何故だろう。奈良時代に五輪塔はなかったはず。Wikipediaにも「日本において五輪塔の造立がはじまったのは平安時代後半頃と考えられている」とある。 今回は奈良教育大の東にある新薬師寺に先に行き、その駐車場に1時間なら車を置いても良いということなので、頭塔まで歩いていった。

関連項目
頭塔を見に行ったら
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続)


※参考
「芸術新潮 秘蔵拓本が語る新・奈良古寺巡礼」(1993年4月号 新潮社)

2007/02/02

頭塔を見に行ったら


頭塔(ずとう)を知ったのは、10年ほど前のことだった。シリア・ヨルダンで、パルミラ・ペトラを初めあちこちで石造りの遺跡を見たので、日本の石造のものを見てみたくなり、当尾の里や春日山で磨崖仏や石仏を見に行ったついでだった。ガイドブックの地図で奈良の町中に面白いものがないか探していたら、奈良国立博物館の南方に「頭塔」という文字が目に止まった。最初は読み方さえわからず「とうとう」と読んでいた。 
「向かいの福田家に見学を申し込むと入口の錠を開けてもらえます」ということなので、高畑町交差点の一筋南を西に入ろうとすると道が狭く、駐車場もなさそうで、見学時間も10分ということだったので、通りの入口にあった狭い空き地に車を置かせてもらった。
 
そして、通り南側で福田さんを見つけ、声を掛けると(というより、大声で呼ぶと)、かなりたって奥からおばあさんが出てきた。車のことが気にかかっていたのであせった。お婆さんが頭塔への扉の錠を開けてくれ、パンフレットをくれて、帰りは自分で閉じるように言われた。

中へ入ると民家の間の道を歩いていくと、頭塔は調査や復原作業中らしく、屋根がかけられてどれが何やらよく見えなかった。その中にポツポツ小さな浮彫の仏・菩薩像があった。 
1段東・中央 浮彫如来三尊像 頭塔の南側は小さな森のように木が生えていた。その下にも何かあるようだった。石の大きさからすると三尊ではないようなので、浮彫如来及侍者像(1段南・西寄り)だと思う。 2段南・東寄り 如来坐像 苦労して撮ったが、頭光のある頭部が2つやっと見える程度だった。このように、仏像もほとんど見ることができなかったが、それでも、日本に、このような階段状石造物があり、それもかなり古いものらしいことがわかった。

ところでこの頭塔は何時頃造られたのだろうか。「史跡頭塔」のパンフレットは、頭塔は、東大寺の南方に造られた方形7壇の土塔です。頭塔の名の由来は、奈良時代の僧玄昉(げんぼう)の首を埋めた塚だという伝説によるものですが、本来の土塔がなまって頭塔と呼ばれるようになったようです。
記録的には、神護景雲元年(767)に東大寺の僧実忠が東大寺の寺域南端に土塔を築いたとあります。この土塔が頭塔であり、頭塔はお寺の塔と同じように仏舎利を納めるストゥーパなのです。頭塔の規模は基壇最下段の1辺が32m、高さは約10mあります。
頭塔においては、北側半分で発掘調査が行われており、南側のものも含め現在までに26基の石仏が確認されています。発掘調査成果から復原すると、石仏は各面の第1段に5体、3段に3体、5段に2体、7段に1体の総数44体が配置されていたと推定されています。また各石仏は基壇面から袖石1石分だけ奥まったところに据え付け瓦屋根で保護されていました
という。
同パンフレットに頭塔を上から見た写真があった。森のある方が南です。長野県在住の夫婦・姫河童と加茂鹿道さんの信州考古学探検隊頭塔のページは、国立奈良文化財研究所(当時)の史跡整備のための発掘調査で、頭塔の下位に、横穴式石室の古墳があり、頭塔の上に六角形の多層塔が建てられていたことが判明した。古墳から仏教関連施設への移り変わりがはっきりわかる好例といえるだろう。なお頭塔の上から発掘された六角多層塔は塔の森塔と似ていて、奈良時代とされるので、頭塔建設直後に建立されたものと推定されている。という。この遺構も熊山遺跡同様に仏教以前のものの上に造立されたものらしい。
また、奈良町観光の奈良町その15に、奈良教育大学内の「吉備塚」は、バス停「破石町」からバス道路を南下すると、次のバス停が「高畑町」で、左(東)側が奈良教育大学、校内の北側に「吉備塚古墳」が在ります。吉備眞備のお墓と伝えられ、眞備は、695年(持統9年)3月28日岡山で生まれ、若き日、一度目は遣唐留学生、二度目は遣唐副使に選ばれ、在唐17年、長安の都においても、その学識が高く評価されました。帰国後、春日大夫として皇太子の教育にあたり、大学寮の整備や、東大寺の造営につくし、天平文化の一翼を担いました。また、塚は、鬼界ケ島に流された俊寛の塚とも云われ、塚に触ると祟りが有り。なお、塚から神仙を象眼したものでは国内初の鉄製大刀が出土しましたという。
吉備真備という名が、熊山遺跡と頭塔に何か関連があるのではという空想を増幅させる。パンフレットにあった地図です。頭塔の近くに吉備真備の墓があるという奈良教育大があるのがわかるでしょうか。

※説明及び地図・鳥瞰写真は「史跡頭塔」のパンフレットより


関連項目
再び頭塔を見に行ったら
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた
世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続)