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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/03/26

鋪首の饕餮文は変化して北魏にも



辟邪としての饕餮文が墓室に限らず、いろんな建物に鋪首として使われたが、当書庫にはその後の時代の図版がなかった。 やっと見つけたのが北魏時代(386から534年)のものだった。遺物として残っていなくても、連綿と続いてきたからこそ鮮卑という北方遊牧民の統治した北朝にも表されたのだろう。

15 透彫鋪首と環 銅 高18.7cm 北魏時代(5世紀後半) 寧夏回族自治区固原県西郊出土 固原博物館蔵
中国 美の十字路展図録』は、方形の鋪首の下に、環状の取っ手を付けた青銅製の飾りである。鋪首は丸い大きな眼と三角形の高い鼻の獣面をしており、2本の角の間には ・略・ 左右2頭の龍と中央の人物からなり、 ・略・ 龍の上に立っている。下部の取っ手部分は、2頭の龍によって環状に作られ、 ・略・ 環の中央に立つ人物は、鋪首の人物とほぼ同じ姿態であるが、高髻の頭部、豊満な顔立ち、着衣の様子などがよくわかり、仏像の表現であると考えられるという。
饕餮と思われる獣面文に人物が入り込んで、複雑な形状となっている。上の人物は両側に龍を従えたような気配がある。
饕餮文を探していて、いつの間にか仏教時代に入っていた。
16 磚室の墓室 北魏時代 出土場所不明
『図説中国文明史5魏晋南北朝』は、墓の内部構造は中国風であるが、石刻には西域の趣が見られるという。

西域の趣は私には感じられないが、「漢民族の宮殿をまねた石造りの柱」というのはわかる。法隆寺金堂天蓋から 3中原の石窟には の鮮卑墓より出土の模型のフェルト製テントや550年没の鄰和公主の墓室から見ても、この磚室の墓室は中国色の強いものである。
そして鋪首の数の多いことには驚かされる。出入口が多いのか、辟邪として壁面のあちこちに付けられたのだろうか。
17 獣と戦う戦士をかたどった鋪首 16の部分
同書は、鋪首とは、ドアにとりつけられたノッカーにあたる獣面の装飾のことである。戦士は鮮卑人の姿をしており、獣の角をつかみたいへんな勇敢さを見せている。墓室と墓主の平安を守る意味を具象化したものであるという。

鮮卑風の力持ちの戦士が、中国風の饕餮文あるいは獣面文と組み合わさったことがわかる。
18 獣を馴らす北方民族の文様が入った金の飾牌 北魏時代 内モンゴル哲里木盟出土 内モンゴル哲里木盟博物院蔵
同書は、北方民族はつねに馬に乗っており、革帯を着けていなければならなかった。飾牌は腰帯につけていた装飾品である。この金の飾牌は、獣を飼い馴らす様子をテーマにしているという。

野生の馬を飼い馴らしているにしては尾が馬とは異なる。この獣はたてがみのあるライオンのような肉食獣のようだ。このようなモティーフは、南ロシアのスキタイなど、イラン系の北方民族にはなかったように思う。鮮卑独特のものかも知れない。
このように、かなり空白の期間があるが、鋪首には饕餮文、あるいは饕餮文から派生した獣面文が作られ続けた。そして、北魏時代になると、鮮卑独特の獣を飼い馴らす人物と組み合わさり、仏像までがその中に組み込まれることもあったようだ。

※参考文献
「中国 美の十字路展図録」 2005年 大広
「図説中国文明史4秦漢」 劉煒 2005年 創元社