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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/04/09

鬼瓦と鬼面



饕餮が瓦当に表され、それが辟邪であるという『中国古代の暮らしと夢』展図録の解説(
饕餮文は瓦当や鋪首に)があったが、中国では仏教の伝来と共に、瓦の文様は蓮華が主流となっていったことや、鬼瓦にわざわざ鬼面をつけて呼ぶ場合があるため、日本では鬼瓦の最初は鬼面ではなかったのだろうと考えていた。たぶん大きな瓦を大瓦と呼び、やがて鬼瓦となっていったのだろうと勝手に思っていた。 何故大きな瓦を載せるのかというとやっぱり、雷除けや魔除けという役目があるのだろうと想像していた。
ところが『日本の美術391 鬼瓦』には全く異なることが書かれていた(引用はすべて同書)。
鬼瓦というと、多くの人はお寺の屋根の上から形相するどく見おろす大型の瓦を思い起こすはずだ。そして魔よけであるとか、外敵に対する守護神といった役割を想定するであろう。たしかに鎌倉時代後期(14世紀)以降の鬼瓦は、手づくりによる立体的な造形で、角を生やし、大きく口をあけて牙をむきだし、いかにも「鬼瓦」と呼ぶにふさわしい奇怪なつらがまえをしている。そしてこの頃までに「鬼瓦」と呼ぶようになったことも確かである。しかしながら、鎌倉前期までの鬼瓦は、笵という雌型に粘土を詰めて抜き出し、半肉彫りの紋様を表した、薄い板状の焼物であった。

では「薄い板状の焼物」の最初期のものはどのようなものだったのだろうか。

1 蓮華紋鬼瓦(法隆寺鬼瓦1) 法隆寺若草伽藍出土 7世紀前半 残存高20.3cm 最大厚4.4cm
3分の1ほどの破片であるが、幅広で上辺がゆるくアーチ型に粘土なし、3個3列の蓮華紋を配した形に復原できる。 ・略・ 
日本ではじめて建立された瓦葺建物は、崇峻元年(588)に着工した飛鳥寺の伽藍であった。しかし、飛鳥寺からは創建時の鬼瓦は見つかっておらず、今のところ「わが国最古の鬼瓦」の呼び名は法隆寺出土の蓮華紋鬼瓦にふさわしい。
裏面には取りつけ用の刳りがあり、塔の隅棟用と考えられている。朝鮮半島では、百済の寺院跡などからよく似た紋様の手彫りの石製鬼瓦が出土しており(扶余扶蘇山廃寺など)、本例が百済文化の系譜下にあるのは間違いない
という。
日本の最初期の仏像と同様、鬼瓦もまた半島からもたらされたものだった。蓮華文というよりも、幾何学文に見える。線を引き、手彫りしたことが現在でもわかる。
2 蓮華紋鬼瓦 奈良県明日香村平吉(ひきち)遺跡出土 7世紀中頃 厚2cm内外 奈良国立文化財研究所蔵
高さ37cm、幅35cmのやや縦長な方形に復原でき、下辺中央に半円形の抉り(えぐり)がある。弁端が天地を向くよう配置、まわりに連珠紋を28個めぐらせる。 ・略・ 岡山県都窪郡末ノ奥窯から出土した破片は同笵であるという。
驚いたとこに、日本における瓦屋根建築の草創期とも言えるこの時期に、遠く離れた岡山県で瓦が焼かれ、明日香村まで運ばれていたのだ。同じ岡山県下の熊山遺跡(世界ふしぎ発見を見て熊山遺跡に行ってみた(続) )から吉井川を越えた万富には東大寺の瓦窯跡があるが、末ノ奥窯の方がもっと古い。
やや蓮華らしくなってきたがまだまだぎこちない。文様としての蓮華は将来されているが、当時の日本人は蓮華の花を見たことがなかったのだろうか。
3 蓮華紋鬼瓦(山田寺1式) 山田寺跡出土 641年前後 高36.5cm 幅40.3cm 厚約5cm 奈良国立文化財研究所蔵
舒明18(641)年に造営をはじめた山田寺でも、「山田寺式」軒丸瓦に似た、蓮弁中央に子葉を1枚重ねた単弁蓮華紋を飾った鬼瓦を使用している。 ・略・
大棟には鴟尾がのるので、降棟ないし隅棟用である。
上端はごく緩い弧線を描き、左右下端に半円形の刳り込みをもつ。蓮弁は重弁。中房にはまず十字に割り付け線を入れ ・略・ 蓮弁は笵で起こした後、ヘラで弁の輪郭や反りを整え、弁央の鎬(しのぎ)を強調してある
という。
2とあまり変わらない頃に制作された瓦だが、だいぶ蓮華らしく表されているのは、5cmという厚みがあるからだろうか。5cm近くの厚いものが焼ける瓦窯だったのだろうか。
4 鬼面紋鬼瓦 太宰府政庁東北台地出土 7世紀末-8世紀初 高47.1cm幅43cm厚15.5cm
顔面のみを表すが、下顎・下歯の表現を欠き、鬼面全体が高く盛り上がる。外形は円頭梯形で、外縁にそって大粒の珠紋を巡らす。
畿内における獣身紋鬼瓦の登場とほぼ軌を一にして、北部九州では太宰府政庁を中心にしたいわゆる「太宰府式」の鬼面紋鬼瓦を用いはじめた。平城宮よりわずかに先んじており、鬼面紋鬼瓦としてはわが国最古のものといえる。 ・略・
太宰府式の鬼面紋鬼瓦は、太宰府政庁地域のほか、その付帯施設である水城、豊前国分寺、大分県弥勒寺跡、肥前国分寺、薩摩国分寺 ・略・ などから出土しており、その広がりはほぼ九州全域に及んでいる。 ・略・
一般に7世紀後半代の統一新羅に源流を求めることができるとされる。たしかに、円頭台形の外形、外区の珠紋、鬼面の全体的なあり方は類似する。しかしながら、太宰府式は角を生やしておらず ・略・ 下顎を欠く点からも、新羅の鬼瓦とは異なる。むしろ中国あるいは渤海からの影響を考慮すべきであろう。
という。
鬼面鬼瓦は半島よりも中国の可能性が示唆されている。やっぱり饕餮と関係があるのだろうか。
では、中国ではどうだったのだろうか。

今までに判明している限りでは、鬼瓦の使用は北魏代になってからである(北魏洛陽城など)。そして唐代になってからも長安城などからの出土例がないことはない。ところが、これらはいずれも鬼面紋タイプなのである。『唐令』は「宮殿皆四阿、施鴟尾」と述べており、大棟には鴟尾を飾ったと思われる。したがって、鬼瓦はあったとしても降棟ないし隅棟用であろう。 ・略・ということで、 鬼面鬼瓦らしいことしかわからない。鬼面と饕餮文の関係はなおさらわからない。あまり拘らないほうが良いのかも知れない。

※参考文献
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂