高昌故城はトルファンの東40㎞、火焔山の前平原にある。海抜-40mで夏になると蒸し暑く、火州と呼ばれたと小冊子『高昌故城』にある。
海抜以下というのは確かなようだが、何mかは書物によって異なる。トルファンの暑さについては「バケツの水をかぶってもすぐに乾いてしまうほど」と表現する人もいる。我々が行った時は40度だったが、日本の夏のように汗がだらだら出るようなことはなかった。
版築の周壁が見えてきた。地面も壁も同じ色だ。前日は大雨が降り、遺跡が崩れたということだったが、建物でさえ同じ色なので、どこが崩れたのか見当がつかなかった。畑の隣が遺跡というのは、高昌国の時からだろうと勝手に想像している。

443年に北涼王族沮渠氏が兵士部隊を率いて、東から高昌城に入った。柔然が沮渠氏を攻めたりした後、499年に麹嘉が登場、「麹氏高昌」の歴史に(499-640)。
640年に唐朝の軍隊が高昌に入って、西州都御府を設立。9世紀中後期に回鶻人が高昌に入って高昌回鶻汗国を建てたという。
匈奴やウイグル族などの北方民族の侵入はあったが、ペルシア人がトルファンまで侵攻したという事実はない。何故漢族の麹(きく)氏の時代に高昌国の建物がペルシア風だったのだろう。
高昌故城の大きさは早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページの高昌故城によると東西1600m、南北1500mもある。


上の地図で「可汗堡」というところだろうか。ヴォールトらしきものが見えてきた。






蛇足だが、NHKの『探検世界遺産』という番組の万里の長城後半編で、版築の頂上を私財を投じて修復している人が数人でリズムよく土を突いている場面があり、どのように突き固めるかがよくわかった。その中国の伝統的な工法でペルシア風の建物を造ったというのは面白い。

しかし、数年前NHKスペシャルで『文明の道』というシリーズが放映された。その第5集に「シルクロードの謎 隊商の民ソグド」というのがあり、以前はペルシアだと思っていた事柄が、実はソグドだったという画期的な内容に驚愕した。番組では、シルクロードの交易を仕切っていたのは同じイラン系のソグド人だという。
同書は、周囲を城壁で囲まれたペンジケントは、13ヘクタールという小さな都市と、その周囲の農耕地が領土のすべてだった。城壁のなかには、土でつくられた小さな家々がびっしりと建てられていた。当初、ペンジケントは家々が整然と並ぶ町だったが、人口の増加によって、2階、3階と建て増しされ、通りの上にまで家がつくられた。 ・・略・・ 建て増しの際の強度を保つため、天井はアーチ型という。
また、2000年に西安郊外で見つかったソグド人の墓の墓碑銘について、北京大学歴史系教授の栄新江氏は、・・略・・ 商業を目的に中国にやってきた多くのソグド人たちが、交易に便利な場所を選んで集落を築き、定住していたことが、明らかになってきたと説明する。
ペルシア人が高昌国にペルシア風の建物を伝えたのではなく、高昌国に住んでいた隊商の民ソグド人が、中央アジアの故地の建物を造ったのではないだろうか。
ところが、一緒に出土した数枚の石のパネルに描かれたレリーフが彼らの生活を現代に伝えている。 ・・略・・ 『墓主夫婦図』には中国式の館のなかで暮らす、主人とその妻の姿が描かれていると、取材班の文が続いていた。「高昌国はペルシア風の建物ばかり」と玄奘三蔵の見たものは、麹氏の趣味だったのか。
※参考文献
「シルクロード第5巻 天山南路の旅」 1981年 日本放送出版協会
「文明の道3 海と陸のシルクロード」 2003年 日本放送出版協会
「高昌故城 シルクロードの名城の1400年の歴史を総観する」 2001年 新疆美術撮影出版社
※参考ウェブサイト
早稲田大学シルクロード調査隊トルファンホームページ高昌故城