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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/09/14

高昌故城の講堂の起源



高昌故城β寺院講堂はこの角度からみると長方形の建物に円形の屋根が載っているように見える。それは2段になっていて、下段の各隅にわずかにでっぱりがある。
日傘が見えるアーチ形のところが入口である。

入口から入ると実際には焼成レンガで造られている。外から見るとわずかだったでっぱりが、中から見ると思ったよりも大きな凹みだった。 焼成レンガで積み上げて、上から土を塗って仕上げるということは、メソポタミアのころから行われていたという。
上が屋根になっているわけではなく、丸い壁面となっていて屋根がない。 そして、このように写真を見直すと、自分の記憶が変形していることに気づいた。4隅の持ち送りは、外観ほどでないにしても、正方形の1辺の残り(中央部)と比べると、ずっと小さなものだと思っていたが、持ち送りの一番下の2点の長さとあまり変わらないようにも見える。つまり、正方形から正八角形へと移行させて、持ち送りの頂点が円の弧を作り上げている。玄奘三蔵が講義を行ったとされている講堂がペルシア風あるいはイラン風と言われているからには、イランに原型のような建物が現存しているはずである。
『季刊文化遺産13古代イラン世界2』にサーサーン朝の創始者アルダシール1世の宮殿の写真があった。かなり巨大な建物のようで、正面から見て2つ講堂と同じ円筒形の屋根がある。 同書、岡田保良氏の「サーサーン朝の都市と建築」は、サーサーン朝の建築造形について語るには、まず王朝の開祖アルダシール1世(位226-241)の居城から始めるのが適当のようだ。彼は今日のフィールーザーバードに宮殿を築いたが、それ以前、まだアルサケス朝の諸侯だったとき、近傍の山頂に城を構えていた。ドームやヴォールトといったサーサーン朝建築を特徴づける造形要素をはじめて確かめることができるのが、カラエ・ドフタルと呼ばれるその城なのである。王位に就いたアルダシールは、山城を出て新都「アルダシール・フワッラ(アルダシールの栄光)」の経営を始めることになる。アルサケス朝以来、ハトラやクテシフォンで馴染みの幾何学的な円形に市壁をめぐらせて都の輪郭とし、宮殿はその中央に配置された。
宮殿の主要な建築材料はやや小ぶりに粗く切り出した石材で、石灰モルタルをたっぷり用いて壁を築いた。建物の中でも主要な部屋は正方形につくって丸屋根のドームを架け、その他の細長い部屋はかまぼこ形のヴォールト天井で覆った。それぞれ木材を渡さないで屋根を架けようという工夫から生まれた建築術だ
という。
正方形の平面に頂部の切れたドームを載せたものは、サーサーン朝ペルシアに特徴的な建物と考えて良いようだ。
講堂との違いは円形の開口部が小さいこと、「天窓」という表現をされている。そして、4隅が講堂ほどはっきりとしていないことくらいのものである。
講堂も当初は円筒形の壁面がもう少し高くて、フィルザバード宮殿のように天窓程度のものだったかも知れないなあ。

※参考文献
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団