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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2007/11/16

半跏像は弥勒菩薩とは限らない



インドやガンダーラに菩薩半跏像はなかった。
『カラー版日本仏像史』は、朝鮮半島や日本の作例は、造形的にも中国6世紀代の河北や山東で隆盛した半跏思惟像との共通性が強く、こんにち安易に弥勒菩薩と称している半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれていると思われるという。
中国の仏像をみてみよう。

菩薩半跏思惟像 北斉時代(550-577) 石灰石・彩色・金箔 清州市龍華寺遺跡出土 清州市博物館蔵
菩薩としか解説にない。弥勒菩薩と特定しないようになってきているのだろうか。
如来半跏像 河北省邯鄲市北響堂山石窟北洞中心柱北面 北斉 石造
『世界美術大全集東洋編3三国・南北朝』は、北面龕中尊像は通肩に袈裟をまとい、蓮華座から右足を組み上げて坐る姿で、如来像が片足踏み下げの姿をとるのは珍しい表現であるという。

私も仏半跏像は初めて見た。
敦煌莫高窟にはもう少し遡る菩薩半跏像がある。

敦煌莫高窟第257窟菩薩半跏像 北魏(439-535) 塑造
上の方を見上げて撮影された写真なので、台座がなくても右膝下の布の出っ張りがある。このように膝の形がわかるようにぴったりで、その下に余り布が出るような服装があったのだろうか。『中国石窟 敦煌莫高窟1』の解説(中国語のため意訳)には、闕形の下に帷幔が出る龕内に弥勒菩薩が半跏に坐すとのみ書かれている。
敦煌莫高窟第275窟菩薩半跏像 北涼(420-439) 塑造
敦煌莫高窟で現存最古の北涼時代の石窟にも菩薩半跏像が1体ある。275窟は小さな窟で、入ると正面に獅子を両側に従えた大きな菩薩交脚像がある。石窟の左右壁の上段に各3つの龕があるが、ほとんどが闕形龕と呼ばれる中国建築となっていて、中には菩薩交脚像が置かれている。そして、この写真の菩薩のみが半跏像で、双菩提樹龕に坐している。同書によると、
闕形龕にはひとしく交脚菩薩があり、弥勒が兜率天宮にいることを表現している。双菩提樹龕には半跏坐思惟菩薩像が造られていて釈迦の後に弥勒が下生し、仏道を修行する姿である
という。私はこの窟を見学していて、日本にも留学したことのある莫高窟専門ガイドの丁さんが「弥勒菩薩」と説明してくれたように思うし、私自身もそれに何の疑問も感じなかった。敦煌では半跏思惟像は弥勒菩薩であるとみなしているようだ。これが、『カラー版日本仏像史』で石松日奈子氏がいうところの、野中寺の菩薩半跏像の銘文に「弥勒御像」の文字が刻まれていることから、「半跏思惟像=弥勒菩薩」説が有力となり、日本や朝鮮半島にとどまらず中国や欧米所在の作品にまで及んで定説化しつつあるということなのだろうか。敦煌よりも西、天山南路中央に位置するキジル石窟の壁画をみてみると、

キジル石窟第110窟正壁仏伝図「宮中娯楽図」 6-7世紀
『中国新疆壁画全集 克孜爾2』の解説(中国語のため意訳)は、太子はその座に坐しという。

これが半跏像かどうか確かではないが、交脚か結跏趺坐が一般的なキジル石窟では、半跏像に近いと思われる。そして、半跏で坐しているのは弥勒ではなく、シッダールタ太子である。
キジル石窟第114窟「一切施王本生図」壁画 4世紀中-5世紀末 
『中国新疆壁画全集 克孜爾1』は、隣国国王が台座の上に坐っているという。

これが半跏像か確かではないが、半跏像に近い坐り方をしてるのは、国王だった。
このように、キジル石窟では弥勒半跏像はなく、半跏に近い坐り方をしているのは、国王あるいは太子などの世俗の人々だった。このことは、石松日奈子氏のいう、半跏思惟像のなかには、多くの太子像や尊格不詳の思惟菩薩像が含まれているということなのだろう。

※参考文献
「カラー版日本仏像史」 水野敬三郎監修 2001年 美術出版社
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」 2000年 小学館
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所編著 1999年 文物出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾1」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾2」 段文傑主編 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国・山東省の仏像-飛鳥仏の面影-」 2007年 MIHO MUSEUM