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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/11/05

高句麗古墳の三角隅持送り天井(ラテルネンデッケ)は


八幡山5号墳(5-6世紀)は、説明パネルに「三角持送式天井」は高句麗(朝鮮)の古墳にみられる構築法で、日本では能登半島の蝦夷穴古墳が知られているというように、それが特徴とされている。しかし、それは私の知っているラテルネンデッケ(三角隅持ち送り天井)とは異なるものだった。また、蝦夷穴古墳は7世紀中葉のものなので、八幡山5号墳の参考にはならない。(蝦夷穴古墳については末尾に参考サイトを記します)
八幡山5号墳の石室が自然石をほぼそのまま使っている中では、三角持送りと見なされた石が加工され板にしたように思えなくもない。しかし、一番奥の頂石の大きさが足りなくて、両隅から斜めに石の板を張り出して、その上に置いたという印象を受ける。  では、高句麗古墳の三角隅持ち送り天井はどういうものか。『高句麗壁画古墳展図録』の図版でみてみると、

双楹塚(そうえいづか)奧室天井南側 平安南道南浦市龍岡郡龍岡邑 5世紀末築造
この石室は壁面から3段に平行に持ち送って(①・②・③)、その上に2段の三角隅持ち送り(▲1・▲2)が重なっている。このように、水平方向に持ち送ることによって頂部が段々に狭くなっていく。 双楹塚奧室天井
そして、八幡山5号墳との一番の違いは、高句麗古墳で三角隅持送り天井の場合、石室は平面が正方形である。その正方形の内側に正方形を90度回転させながらはめこんでいくので、見上げると三角形が4つずつ見えながら高い箇所のものは小さくなっていくのを三角隅持送り天井の定義だとこれまで思ってきた。極端にいうと半球形のドームを平面の組み合わせで構成したものと見えなくもない。安岳3号墳 黄海南道安岳郡五菊里 4世紀後半築造 
『高句麗の歴史と遺跡』で高句麗石室墳の変遷の図解(249-251頁)をみていると、三角隅持送り天井を持つ古墳の最古のものがこの安岳3号墳である。外観は円墳のようだが、『高句麗壁画古墳展図録』は、丘陵上に立地する墳丘は方台形で南北33m、東西30m、高さ6mをはかる。横穴式石室は古墳の中央に位置し、正南から西に5度寄った方向に入口が開く。石室は羨道・羨室・前室・奧室・回廊の各部よりなり、羨室・前室(西側室と東側室が付属)・奧室の天井は隅三角持ち送り天井構造である。高句麗古墳のなかでは最も複雑な石室構造の1つであるという。  安岳3号墳奧室天井
もとの図版が北壁と天井部分を撮影したものなので、天井が正方形であることがわかりにくい。こちらも壁面から3段に平行に持ち送ってその上に2段の三角隅持送りのある天井である。双楹塚と比べると各層が薄い。
徳興里古墳 平安南道南浦市江西区域徳興洞 409年
高句麗の持ち送り天井は三角隅だけでなく、数段の平行持ち送りだけで構成されているものもある。しかし、平行持ち送りにしろ、持ち送り天井というのは、高句麗では安岳3号墳が最初のものである。
そうなると、三角隅持送り天井の古墳は高句麗で始まった古墳なのかという疑問がわいてくる。
安岳3号墳西側室の入口左側の人物の頭上には、この墓の主人公の墓誌が768字にわたり墨で書かれる。これによれば、357年に没した中国遼寧省蓋平県出身の冬壽の墓であることがわかる。
室の数が多いことと回廊をもつ石室、壁画人物の服装は、中国遼寧省遼陽近郊の石室墓に類似する。そのことは、墓誌に書かれた遼寧省出身の冬壽がこの墓の主人公であることを裏付けしてくれる
という。
また、初期には、『三国志』魏書東夷伝の高句麗の条に、「石を積んで墳丘を作り」と見えるように、積石塚が築かれ、竪穴式や横穴式の石室を埋葬施設とした。その後4世紀末から5世紀初のころを境として、土を積んで墳丘とした封土墳へと変遷した。そして、埋葬施設は横穴式石室となった。その横穴式石室に壁画が描かれたのであるということなので、高句麗で亡くなった遼寧省出身の人物が、故郷の石室墓をまねて自分の墓を造営したのが高句麗での三角隅持送り天井の墓室の出現となったのかも。


※参考文献
「高句麗壁画古墳展図録」(監修早乙女雅博 2005年 社団法人共同通信社)
「高句麗の歴史と遺跡」(監修森浩一 1995年 中央公論社)

※参考サイト
石川県史蹟整備市町協議会の須曽蝦夷穴古墳
能登の古墳(続き)
七尾市役所の七尾おでかけガイド