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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/11/21

中国の古墓にもラテルネンデッケはなかった


高句麗の安岳3号墳の墓主冬壽(357年没)の出身地は中国遼寧省蓋平県という(「高句麗壁画古墳展図録」より)ので、中国の古墓にラテルネンデッケ(三角隅持送り天井)が用いられているか調べてみたが、見つけることはできなかった。

当時の中国の墳墓はどのようなものだったのだろうか。
『魏晋南北朝壁画墓の世界』は、後漢末、激しい盗掘が、伝統的な倫理観だけでなく、社会上層の厚葬風習にも大きな影響を与えた。しかも、長い戦争の中で、国の財政は疲弊し、首都洛陽中心にした中原地域では、壁画墓の造営がほぼ停止状態となった。
建安10年(205)11月に、天下統一を志した曹操が厚葬を禁止する命令を発布。建安25年(220)に曹操が死んだ時には平服で斂葬され
たと、『三国志』の主人公の1人、曹操について述べている。そして、220年、曹操の息子操丕(そうひ)が禅譲の形で後漢王朝を滅ぼし、黄河流域を支配した曹魏王朝の初代皇帝、魏の文帝となった。曹丕は、父の遺志に従い、厳しく薄葬政策を採り続けた。確かに、漢時代の古墓と比べて、曹魏時代には贅沢な墓葬の例は殆どなかった。それは曹氏父子の提唱した薄葬の結果ではないかという。
265年に魏は権臣司馬氏に滅ぼされたが、薄葬の伝統は次の晋王朝にも受け継がれたようである。『晋書』巻83江逌伝(こうゆうでん)によれば、東晋の康帝まで、山陵には瓦器しか副葬しなかったようだという。
魏晋の薄葬風習の中で、中原と関中地域では壁画墓が衰退し、陵墓の造営を管理する役所や工房に所属した工人たちは、戦乱で都から離れた地域へ避難した。それにより、遼東地域や河西地域では、壁画墓の造営が後漢より盛んになったという。
このような時代に、中原はともかく冬壽の故郷の遼東地域でもラテルネンデッケの古墓はない。 では、安岳3号墳は高句麗の流れをくむのだろうか。安岳3号墳の墓室構造図を見ると、天井がラテルネンデッケ(三角隅持送り天井)というだけでなく、回廊が巡っていたり、列柱があったりと、高句麗のそれまでの古墳にはない特徴がある。
『高句麗の歴史と遺跡』 は、遼河流域における漢から北魏にかけての墓制を類型化している。それによると、列柱は後漢にはすでに現れている。同時期には槨室の前に前廊があるが、列柱は前廊から直角に出ている(第1類型)が、それが中国起源のものか、シルクロードを経由して伝わったものかわからない。
その後、後漢後半には前廊の片側に列柱が並ぶようになる(第3類型)。あいにく遼東地域の同時期の古墓の平面図がないので、河南省の南陽漢墓で墓室の回廊を見ると、

馮君孺久墓 河南省南陽市唐河県(湖北省に隣接) 王莽代の始建国天鳳5年(後18)没  
地域性のためか、列柱がないなど様式は異なるが、馮君の棺が安置された後室の周りを回廊がまわっている。葬儀が内部で行われたのだろうか。 他にも安岳3号墳と共通するものを見つけた。

打虎亭漢墓 河南省密県(黄河の40㎞ほど南、嵩山の20㎞東) 後漢末期(2世紀末~3世紀初)
『世界の大遺跡9古代中国の遺産』は、中室天井に描かれた蓮華文。蓮華は仏教との関係が強く、この文様も西域からの仏教伝来とともに採用された可能性がなくもないが、むしろ中国に伝統的に存在した文様と考えるのが妥当であろう。すなわち花を上からみたモチーフは殷代から存在し、漢代にはさまざまな器物に応用されたのである。とくに光の象徴として四葉文が鏡の鈕座や乳などに用いられることからすれば、この蓮華文も墓室を明るくする意図から天井に描かれたと考えられるという。
ヴォールト(円筒)天井に表された蓮華は、4世紀後半の安岳3号墳奧室や5世紀末の双楹塚奧室のラテルネンデッケ天井の頂石にも描かれている。
話はそれるが、四葉文が光の象徴とは知らなかった。四葉文というのは、柿蔕文(していもん)の変形かと思っていた。『中国古代の暮らしと夢展図録』は、柿蔕は中国語の発音「事」や「世」と似ており、吉祥の意味を持つため、漢代またそれ以降もよく装飾に用いられたというので、四葉文の方がずっと古くからあった文様だったのだ。  では、中国で一般的な墳墓の天井はどんな形か。

和林格爾(ホリンゴール)漢墓 内蒙古自治区和林格爾県新店子 後漢末(後160年前後)
『世界の大遺跡9古代中国の遺産』は、甬道・前室・中室・後室が一直線に並び、前室に2室、中室に1室の耳室が付くという。各室は伏斗式という、中国の斗(ます)を伏せたような形で、頂部は四角くなっている。そして、各室をつなぐ甬道はヴォールト(円筒)天井となっている。  敦煌郊外の墓地で見学した西晋墓(265-316年)もこんなに立派ではなかったが、やっぱり伏斗式の天井だった。また、トルファン郊外のアスターナ古墓群で見学した唐時代の墓室はもっと質素なものだったが、やっぱり伏斗式天井だった。
いったい安岳3号墳のラテルネンデッケ天井はどこからきたものなのだろう。

※柿蔕文・四葉文についてはこちら

※参考文献
「高句麗の歴史と遺跡」(監修森浩一 1995年 中央公論社)
「高句麗壁画古墳展図録」(監修早乙女雅博 2005年 社団法人共同通信社)
「魏晋南北朝壁画墓の世界」(蘇哲 2007年 白帝社)
「世界の大遺跡9 古代中国の遺産」(監修江上波夫1988年 講談社) 
「中国古代の暮らしと夢展図録」(2005-2006年 岡山市立オリエント美術館他)