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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2008/12/12

京都大学の博物館で雲崗石窟仏像の目の正体を知る

 
京都大学総合博物館の『シルクロード発掘70年 雲岡石窟からガンダーラまで展』に行った。第二次大戦中に日本軍が大同を占領している時に、雲崗石窟の調査が行われたことは知っていたので、その頃の収集品や写真などが見られるかもと期待した。

大同から武州川沿いに西へと進んで、だだっ広いところで車を降りた。その後崖に向かってかなり歩いたように記憶している。
雲崗石窟付近の航空写真には、我々が歩いたと思われるところには窰洞(やおとん)の住宅街が整然と並んでいる。その北側には、同展図録は、往時の雲岡石窟寺は、石窟の前面や台地上に、木造の仏殿や僧房がならんでいたという。北魏以来絶えることなくお寺があったのだろうか。
雲崗石窟が東西の崖に広がっているのを前にして、いったいこの崖はどこまでまっすぐ続いているのだろうと思ったものだが、武州川がこの先でS字形に蛇行しているのが見える。雲崗石窟の近くに明代の長城が通っているらしいが、崖の下からは見えなかった。この写真でもわからないので、もっと北にあるのかも。  収集遺物としては、北魏時代の瓦などがあり、別に遼金時代の陶磁器のコーナーがあった。その中にキノコのような形で上半分が黒いものが目にとまった。遼は907-1115年、遊牧民の契丹族が宋の北側に建てた国。仏教徒で、大同には遼時代創建の下華厳寺が残っている。金は1115-1234年、同じく遊牧民で仏教徒の女真族が建てた国。大同には遼時代創建、金時代再建の上華厳寺が残っている。

解説から、それが仏像の目であることがわかった。なんと、雲崗石窟を見学しているときに、不思議に思ったあの目ではないか。展覧会には行ってみるものだとつくづく思う。どこに解答が待ち受けているかわからない。
この目自体はそんなに大きなものではないが、それでも数mの仏像にはめ込むつもりで作られたのだろう。
最大の第20窟の釈迦如来の目は、下の足場を組んでいるひとの頭くらいありそうだ。隠れている部分もあるだろうから、人頭よりも大きかったのかも。
一時は、どの時代かの泥棒がよじ登っていって、仏像の目を盗もうとして目のまわりを掘ったが、取り出すことができなかったのかなとも思ったこともあった。  雲岡石窟の調査は、東方文化研究所の水野清一・長廣俊雄らによって、1938年から1944年まで7次にわたりおこなわれたという。戦争中にこんな写真を撮る余裕があったんや(大仏と人の大きさの比較は左下を歩いている人でわかります)。おそらく今は水野氏が座っている岩は残ってないやろなあ。

黒い目については、雲崗曇曜五窟の仏像の目雲崗石窟の中・後期窟では黒石象嵌の目は懸空寺にもをどうぞ

※参考文献
「シルクロード発掘70年 雲岡石窟からガンダーラまで展図録」(京都大学人文科学研究所編 2008年 臨川書店)