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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2009/09/18

鹿石の帯に吊り下げられた武器と新羅古墳出土の腰偑

 
モンゴル、オーラン・オーシグの今でも立っている鹿石(前2千年紀末-前1千年紀初)は下の方に帯状のものがあり、それにいろんな道具がぶら下がっている。剣のような武器らしい。帯の上部には弓矢がある。 

鹿石に描かれた図 オーラン・オーシグ出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石に表されたシカにも2種類ある。1つはモンゴル高原の鹿石によく見られるもので、鼻面が嘴のように突出し、背中には三角形の突起があり、枝角が背中に沿ってたなびき、肢は細い線で表されるものである。
これらの鹿石にしばしば刻まれている武器などは、中国の商代(殷代ともいう)後期に、中国北辺の牧畜民によって用いられたものに似ている
という。
こちらの鹿は肢は折り曲げていないが、極端に短い。
『世界美術大全集東洋編1』は、鹿石の表面には鹿を主としてさまざまな文様が刻まれているが、多くのものには耳飾りのような文様、首輪のような線、真ん中から少し下には帯のような文様、そこから吊り下げられているような形で、短剣、刀子、弓などの図が刻まれている。短剣には、その図からある程度型式が推定できるものがある。たとえば柄の先に動物の頭がつけられているものがあるが、それは柄が剣身に対して曲がっており、中国殷代の北方青銅器の短剣とひじょうによく似ている。鞘には、夏家店上層文化の短剣の鞘にときおり見られるように末端が少し広がったものや、三角形の透かし文様を表したものが見られる。
これらの例から鹿石の年代は殷代から春秋時代の初めごろに相当すると考えられる
という。
時代的にイラン系スキタイ以前である。この顔から類推すると、当時この辺りに住んでいたのは、日本人同様に目が細く鼻が低いモンゴロイド系というよりは、このように深目高鼻のイラン系(東方アーリア系)やなあ。スキタイ以前からイラン系の人々がモンゴル高原に住んでいたらしい。
2つの説を合わせると、殷代後期から春秋時代初期(前12-8世紀前半頃)だが、これだけの長期間に、モンゴル高原に住む人々はずっとイラン系だったのだろうか。それともモンゴル系に代わっても鹿石は作り続けられたのだろうか。 鹿石破片 前822-791年以前 アルジャン古墳出土
『騎馬遊牧民の黄金文化』は、鹿石は元来、人の姿を表したものだと考えられている。確かに真ん中より少し下のあたりには帯が表され、帯からは、短剣や戦斧などが吊されているのが見える。
シカは幾分写実的に見えるスキタイ様式のシカである
という。
どうも鹿石は、北方騎馬遊牧民の狩猟の時の姿を表しているようだ。
アルジャンの位置はこちら 帯にいろいろと吊り下げられているのを見ていると、新羅の積石木槨墳より出土した銙帯と腰偑が気になる。

銙帯(かたい)と腰偑  金製 後5-6世紀 慶州金冠塚出土 長109.0㎝ 慶州国立博物館蔵(現在はソウルの国立中央博物館蔵)
『ユーラシアの風新羅へ展図録』は、新羅の典型的な帯金具で、何条にも下がる腰佩が特徴的である。 腰佩には魚形飾りをはじめ、様々な品物が吊されるという。
『黄金の国・新羅展図録』は、銙板の下部に勾玉・魚・刀子・砥石・薬筒・針筒・ガラス瓶・香嚢・鑵子などの腰偑が垂らされている。腰佩は、北方騎馬民族が旅行や戦争時に必要な各種の日常道具を腰につけていた風習に起源を見い出すことができる。このような風習が、鮮卑族や高句麗を経て新羅に流入して徐々に新羅化していく中でその実用性は失われ、非実用的な華麗な装飾品として製作されるようになった。腰偑装飾のうち、砥石と鑵子は鉄器製作に用いられた道具であり、薬筒は疾病治療のための薬が詰められた容器、勾玉は生命を、魚は食糧を表象したものとみなされる。すなわち銙帯の腰偑には、当時の王や祭司長が管掌した様々な職掌が象徴的に表現されているようであるという。 
やっぱり鹿石の帯に吊り下げられたものと関連があったんや。
腰偑は一番下に吊り下げられているものも含めるのか、その上の円形と四角形を何段か組み合わせたものだけをいうのか、解釈はいろいろだ。いずれにしても騎馬遊牧民にとっては、そのような長い腰偑は邪魔だっただろう。
鮮卑族は鹿角馬頭形歩揺飾を作ったとされる慕容部かも。慕容氏は五胡十六国時代には前燕(307-370年、都は鄴)、北魏が建国した後も、後燕(384-407年、都は中山)・南燕(398-410年、都は広固)などの国を建てた(『中国歴代帝王系譜』より)。 博物館で実際に見ると、金製の歩揺冠も腰偑もあまりにも重そうで、実用品ではなく、儀式や祭儀など特別なときに身につけたのだろうとは思った。時代と様々な民族を経ると、騎馬遊牧民の実用品はこのようなものになってしまうのか。
しかし、鹿石の下限の春秋時代初期(前8世紀前半)から、歩揺飾の制作年である後3-5世紀まで1000年以上の空白がある。このように形が変わっても、よくここまで伝えられたものだなあ。
オーラン・オーシグと新羅の位置関係です。天馬塚出土の腰偑はこちら、その説明はこちら
鹿角馬頭形歩揺飾についてはこちらそして新羅との関連についてはこちら

※参考文献
「季刊文化遺産12 騎馬遊牧民の黄金文化」 2001年 (財)島根県並河万里写真財団
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社
「ユーラシアの風 新羅へ展図録」 2009年 山川出版社
「世界美術大全集東洋編1 先史・殷・周」 2000年 小学館
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 1999年 小学館
「黄金の国・新羅-王陵の至宝展図録」 2004年 奈良国立博物館
「中国歴代帝王系譜」 稲畑耕一郎監修 2000年 (株)インタープラン