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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2010/01/05

中国の瓦にも連珠文



うっかりしていた。中国では連珠円文の錦ばかり探していて、瓦は全く念頭になかった。探してみると、直接韓半島や日本の瓦に影響したものかどうかわからないが、連珠文のめぐる瓦はあった。

複弁蓮花文鐙瓦 陝西省咸陽市唐・太宗陵出土 7世紀半ば 東京国立博物館蔵
『日本の美術66古代の瓦』は、複弁蓮花文は中国では既に北魏に出現するが、花弁の端尖形を呈している。
弁端が丸く、切れ込みのある形は唐の太宗陵や長安大明宮址の瓦塼にみられるが、その初現の時期は南北朝末から初唐にかけての瓦が不明であるために、時期的にみて初唐様式と想定されているのである。ただし唐の鐙瓦は蓮花文のまわりに連珠文をめぐらし、周縁は広く無文に作るのが普通であり、しかも粗雑で創造的意欲に欠けるものが多い。つまり中国では当時の最高の宮殿や皇陵の瓦さえ、総て造瓦工の手にゆだねられる段階へ進んでい
たという。
連珠円文の中に蓮華があるのは唐時代の特徴とされているようだ。
周縁部が広いため、中房が小さくても連弁が短く幅が広く見える。
慶州雁鴨池出土の軒丸瓦(7-8世紀)もこのような短い蓮弁が二重になっている。中房も小さく蓮子の数は今見ると同じだ。蓮子がたくさんあると思っていたら、中心に1つ、その周りに6つ蓮子があるだけで、中房と蓮弁の間にも連珠円文があった。狭い周縁部に連珠文がめぐっていた。
日本では、本薬師寺跡出土軒丸瓦(7世紀末)が似ているような気がするが、中房はこの瓦よりも大きく、蓮子の数が多い。この瓦よりも狭い周縁部には鋸歯文がめぐっている。
それぞれに共通点と相違点があって、どこからの影響とは言い難いなあ。 獣面の屋根瓦(鬼瓦) 陝西省西安市大明宮遺跡出土 唐時代(618-907年) 中国社会科学院考古研究所蔵
『図説中国文明史6隋唐』は、宮殿の屋根の飾り。紋様の構図が全面に施され、線刻とレリーフと立体彫刻の技巧を用いてゆったりとして雄大な感じを与えているという。
開いた口の両側には前足が見え、威嚇的だ。屋根のどの部分に使われたのだろう、鬼瓦にしては刳りがない。上にカールしたたてがみが3対並び、その上には眉の端がカールして並ぶ。額の両側に渦巻いているのもたてがみのようだ。龍でも鬼でもなく、獅子のような獣だろうか。
慶州皇龍寺出土の鬼面瓦(7-8世紀)もこのように大きく口を開き、たてがみが上にカールしている。
方形の狭い周縁部の内側にぎっしりと連珠がつまっている。 獣面紋瓦当 永寧寺塔跡出土 北魏時代(519-534年) 中国社会科学院考古研究所蔵
『龍門石窟展図録』は、太和18年(494)、28歳の孝文帝は、北魏の都を100年続いた平城(大同)から洛陽へと移した。
平城に甍を誇った永寧寺の七重塔の洛陽移転も計画され、ようやく神亀2年(519)に、以前にも増す九重塔が天にそびえた。しかしこの塔は永熙3年(534)に落雷のために焼失し、以後再建されることはなかったのである
という。
北魏後半にはすでに周縁部が広いが、周縁部の広いのは戦国燕(前403-222年)の半瓦当にすでに見られ、中国の伝統のようだ。
大きめの連珠が密に並ぶのも中国の伝統だろうか。
獣面というが、頭部に蓮華状のものを頂いた鬼面に見える。皇龍寺出土の鬼面瓦も頭上に蓮華があった。
永寧寺塔跡はこちら また、永寧寺のあった北魏後半の都洛陽跡(現在の洛陽と鄭州の中間にある。白馬寺付近)はグーグルマップでこちら 蓮華化生瓦当 永寧寺塔跡出土 北魏時代(519-534年) 中国社会科学院考古研究所蔵 
複弁は左右に3つずつ配置され、上に向かって小さくなっていく。7つ目の頂部の蓮弁は化生菩薩の頭光になっている。
連珠は上の獣面紋瓦当に比べると小さく、しかも頂部が小さく左右対称ではない。笵を使って作られたにしては仕上がりがよくない。
類似の図様にホータン地方出土の如来坐像(ストゥッコ、6世紀頃)があるが、それは14の複弁の内側に連珠がめぐっている。 蓮華は複弁で、蓮華文として完成した表現となっている。中央に中房のある蓮華が変化したものだろう。これ以前にも連珠蓮華文瓦当がすでにあったことを思わせる瓦である。
しかし、現在のところ北魏後期より前の連珠蓮華文瓦は見つからない。
北魏前半の都、平城にあった頃の永寧寺にはどんな瓦が葺かれていたのだろう。このように連珠がめぐっていたのだろうか。

※参考文献
「日本の美術66 古代の瓦」(稲垣晋也編 1971年 至文堂)
「図説中国文明史6 隋唐」(稲畑耕一郎監修 2006年 創元社)
「龍門石窟展図録」(2001年 MIHO MUSEUM)