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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/01/06

第63回正倉院展6 唐の写経と奈良写経

正倉院展に行くといつも感心するのは奈良時代のお経の文字の素晴らしさだ。どちらかというと横長の文字が縦横に整然と並んでいるのを見るのも楽しみの一つだ。
横の線が太く、縦の線が細いのが奈良時代の文字の特徴だが、長年見ていると、個性がないようで、それぞれに違いがあるのがわかってきた。
今回写経のコーナーに来て、今までの写経とは別の緊張感の漂った経典があった。何か異質なものを感じて解説文に目を向けると、それは日本人が書き写したものではなく、唐人が書いたものだった。

顕揚聖教論 けんようしょうきょうろん 巻第十三(唐経) 聖語蔵 
縦26.7長792.1
同展図録は、聖語蔵とは、もと東大寺尊勝院の経蔵であった校倉造の蔵である。
本巻は、幅48㎝前後の料紙を17枚継ぎ、黒漆撥型軸を付す。料紙は、上質の麻紙もしくは楮紙である。淡墨で界線を引き(界高約19.5㎝、界幅1.8㎝前後)、経文を墨書する。1紙26行、1行17文字。
著者は無著とされるが、頌が無著、釈が世親との見解が出されている。唐の玄奘が漢訳したという。
いつも不思議だった謎が一つ解けた。写経には細い鉛筆で引いたような線が等間隔にある。鉛筆などない時代に、一体何を用いて線を引いていたのだろうと思っていたら、墨だった。しかし、筆でこのように均一で肥痩のない線を引くことができるのだろうか。それとも、定規のような細い板に墨をつけて、紙に当てるとこのような線が印刷されるのだろうか。
その後に見た(確かに経典は見ていて読んではいない)ものもすばらしかったが、唐経とは雰囲気が異なっていた。

最無比経 さいむひきょう (光明皇后御願経) 聖語蔵 
縦26.5長615.1
光明皇后が亡き父母(藤原不比等・橘三千代)のために書写させた一切経、「五月一日経」のうちの1巻。この一切経は、玄昉が唐から請来したばかりの五千余巻を底本とし、天平8年(736)皇后宮識の写経所で書写が始められた。巻尾に光明皇后の願文が書き加えられることになり、その日付が天平12年5月1日であったため「五月一日経」と称される。書写事業は一時中断するが、天平勝宝8歳(756)まで続いたという。
光明子が両親のために書かせたものなので、写経所の中でも一番達筆の者たちが書き写したに違いない。
中断期間は不明だが、20年の歳月を要したのだ。
市の歴史講座「仏教の信仰と美術」の12月は「奈良写経」だった。講師の西山厚氏は、写経というものは、最新に唐からもたらされた経典を書き写す。当時の唐で流行していた字体を真似て書き写すため、日本の写経の字体も、その時その時で異なる。そのお経を持ち帰ったのは遣唐使の人たちですと言っていた。なるほど玄昉も遣唐使の一人だった。
巻首一行目に「三蔵法師玄奘奉」とある。
『最無比経』は、仏が阿難に三帰依の功徳が最上無比であることを説いたもの。唐の玄奘が漢訳した。なお巻首には、皇帝の太宗が玄奘を讃えて撰述した新訳経典序文「聖教序」と皇太子(後の高宗)の「聖教序記」も書写されているという。 
Wikipediaで調べると、玄奘三蔵は645年1月に657部の経典を長安に持ち帰り、2月に翻訳を開始している。太宗は649年没なので、日本では写経に20年かかった経典の翻訳を玄奘は4年以内に完了していたのだ。
約1世紀後の735年(天平7年)玄昉は、『最無比経』の、おそらく盛唐期の最新の写経を携えて帰国し、翌年から日本で写経が始まった。
西山氏によると、唐の経典を見ながら書き写すので、写経というものは、その時に参考にした経典の文字を真似ることにもなる。奈良時代の中でも時期によって文字が少しずつ違うのだそうだ。
玄奘が4年以内に漢訳した経典の中断もあったとはいえ20年もかかったとは。

※参考文献
「第63回正倉院展図録」(奈良国立博物館編集 2011年 財団法人仏教美術協会)