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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/06/19

傾斜のある木棺2



契丹展で出品されていた木棺に傾斜があった。『契丹展図録』は、古くは三燕や北魏時代のものなど、鮮卑貴族の棺にも例があるという。
北魏時の棺にはゆるい傾斜がある。しかし、石製で細かい線刻画が施されていた。

石棺 仙人騎龍・騎虎図 北魏(6世紀前半) 河南省洛陽市出土 高68.0㎝長224.0㎝ 洛陽古代芸術館蔵
『世界美術大全集東洋編3』は、1977年発見当時、墓室等はすでに破壊されていたが、墓道は南向き、棺の頭部は西向きの当初の状態を保っていた。蓋、底材、四方の周壁の6材でできているという。
蓋がどんなものかわからないが、敦煌莫高窟の壁画に描かれた棺同様、棺側板は枕元が足元よりも高くなっている。
平たい蓋がのせられていたのだろうかか、それとも丸みのある蓋だったのだろうか。
石棺 孝子図 北魏、正光5年(524) 高約67.5㎝長約223㎝ ミネアポリス美術館蔵
こちらの方が側板の傾斜がきつい。
石棺の枕元側と足元側がやや丸く盛り上がっている。唐時代の舎利容器ほどではないが、わずかに丸みのある蓋が載せられていたことが推測される。
蓋は一枚石か、契丹の棺蓋のように数枚の長い石板を並べたのだろう。
五胡十六国時代の北燕(鮮卑化した漢族)でも片流れ型の棺があった。

木棺 馮素弗墓出土 遼寧省北票市西官営子 北燕、太平7年(415)
『三燕文物精粋』は、十六国時期の北燕の官僚貴族である馮素弗とその妻の墓で、年代が明らかな北燕の墓である。馮素弗は北燕の天王である馮跋の弟で、本人もまた大司馬で、地位はきわめて高く、墓から出土した遺物は豊富で、三燕時期のきわめて重要な墓のひとつである。
槨室の内壁には一面に石灰を塗り、その上に壁画を描く。埋葬具は柏材を用いた彩色画のある棺で、すでに腐朽して完全ではないが、もとは槨室の中央に置いてあり、形と構造は前が高く広く、後が低く狭い。棺両側の下部には、それぞれ2個の鉄製柿蔕形舗首の遊環が付いており、遊環と舗首板はともに金貼である。棺の表面には赤漆を塗って、彩色画を施すという。
馮素弗墓から出土したものはたくさんあったと記憶しているが、今まで採り上げたものは金糸金粒嵌玉蝉文飾だけだった。
こちらも棺の側板自体に高低差があり、正光5年銘の石棺と同じくらいの角度だ。屋根は失われているらしく、平たかったか丸かったかを知ることができない。
その前の西晋時代(280-316年)の木棺はどうだろう。

女性墓主葬具 敦煌仏爺廟湾M37号墓出土 
『敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓』は簡体中国語のため本文は全く分からないが、「傾斜」とか「高低」というような文字は見当たらない。
側板は一枚板ではなく、数枚を組み合わせて作られていて、傾斜はなさそうだ。棺の蓋が棺自体よりも出っ張っていて不思議な形をしている。
下部の方が上部よりも広く、台形になっているが、傾斜はないようだ。
雲気文木棺 楼蘭故城北方地区古墓出土 漢~晋時代(2-4世紀) 新疆文物考古研究所蔵
『シルクロード絹と黄金の道展図録』は、被葬者を特定する資料に欠けるが、漢文化の系譜に連なる棺の作風からみると、当時、この地に進出していた漢人を埋葬したのかも知れないという。
傾斜もなく、平たい、形としては簡素な木棺で、他には見られない足がついている。
傾斜のある棺の起源がインドだというが、インドからシルクロードのメインルートには見られない。草原の道を通って北燕にこのような棺の形が伝播したのだろうか。
つづく

「草原の王朝 契丹展図録」2011年 九州国立博物館
「シルクロード 絹と黄金の道展図録」2002年 NHK
「三燕文物精粋」2004年 奈良文化財研究所
「世界美術大全集東洋編3 三国・南北朝」2000年 小学館
「敦煌仏爺廟湾西晋画像磚墓」甘粛省文物考古研究所 戴春陽編 1998年 文物出版社