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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/07/24

四神6 唐の恵陵の四神図は離ればなれ



唐時代の四神のうち、青龍と白虎が墓道の入口両側の壁面に描かれていたので、忘れへんうちに補足しておこう。
『大唐皇帝陵展図録』の説明を掻い摘むと、唐の太宗は父李淵のために、かつて漢王朝を打ち立てた漢高祖劉邦の陵にならい、方形の墳丘をもつ「献陵」を造営した。しかし、自分と皇后の合葬陵は九嵕山に築いた、というより、山全体を陵とした。
「山に因って陵を為す」という山陵制度の理念は、それ以降、唐の歴代皇帝に採用されたという。
しかし、公主墓や追諡皇帝陵などは方形の墳丘墓だったらしい。
譲皇帝李憲は、第5代睿宗の長子。唐隆元年(710)、李隆基によるクーデターが成功し、50歳になる睿宗が26年ぶりに皇帝位に返り咲くと、李憲は自ら皇太子の位を辞退し、果敢に兵を挙げて政権の奪還に功のあった弟隆基に譲った。
開元29年(741)、李憲が63歳で亡くなると、玄宗は「譲皇帝」の諡号を贈り、その葬儀を皇帝に準じて取り扱わせ、妃元氏と新たに造営された恵陵に合葬された。
恵陵は陝西省蒲城県の北西、睿宗橋陵の陪葬墓区の一角にある。陵園は東西217.5m、南北252.5mの方形で、四隅に角闕があり、南に門を開く。封土は陵園内の中央やや北寄りにあって、一辺60m、高さ14mの方形である。
南門の南側には神道に沿って門闕、石刻列がある。石刻は大半が失われているが、記録によればかつては華表1対、翼馬1対、儀仗馬5対、石人10対、獅子1対が存在した。
こうした陵園の構造・規模、石刻列の構成などは、いずれも墳丘形式の皇帝陵に準じており、「皇帝の礼」による造営を裏付けるものであるという。弟の隆基が後の玄宗皇帝。
東西の壁に青龍と白虎、さらにそれぞれの入り口側に飛人図、墓室側に出行儀仗図が左右対称になるように配されているという。
青龍と白虎は魔除けのために入口付近に描かれたのだろうか、それとも儀仗隊を先導しているのだろうか。
青龍図 長さ700㎝幅330㎝ 龍体長590㎝ 陝西省考古研究院蔵
恵陵の墓道には、壁面に漆喰を塗りその上に壁画が描かれている。
青龍は、胴部からS字形に胸、頸を立ち上げていて、右向きの頭部の額の上は欠けているが、口を大きく開けた上顎に黒い両目が見える。口からは赤い舌を出し、瑞気を吐く表現である。頸には、珠文で縁取った帯状の飾りを巻き、その後ろに火焔状のものが付くという。
模写図の方が分かり易い。
恵陵の青龍と白虎は、周囲に雲文と飛人を配して天空を飛翔する姿に描かれているという。
今までに見てきた青龍は地面に接しているようだったが、この青龍は確かに宙を駆ける躍動感が感じられる。
飛人がどこに描かれているのかわからないが、北魏・北斉の神人の影響がまだ残っているようだ。
白虎 長さ700㎝幅330㎝ 虎体長600㎝ 陝西省考古研究院蔵
白虎の体長は6m、長い胴の前に胸から頸をS字状に立ち上げて、それに続く頭部は目を見開き、大きく開けた口から赤い舌を出し、瑞気を吐いているのが見える。頸の後ろから胴の背面にかけて火焔状のたてがみが連なり、前肢の付け根に赤い色の双翅があるのは青龍と同じで、聖獣らしさを特徴づけているという。
白虎の方は背中が真っ直ぐに描かれているせいか、空を飛ぶような軽やかさがない。
前肢の付け根にあるヒレのようなものは双翅というのか。前漢後期(前1世紀)の辟邪にもついている。
墓道両壁の前半部には巨大な青龍・白虎、墓室南北壁には朱雀・玄武の四神を描いているという。
四神は墓室や棺の四面に描かれるのではなく、離れて描かれるということもあったようだ。これが盛唐期の四神の特徴だろうか。
墓室から出てきて儀仗隊を先導しているのかな。
つづく

※参考文献
平城遷都1300年記念春季特別展 大唐皇帝陵展図録」 2010年 橿原考古学研究所附属博物館