お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2012/02/28

ウラルトゥの美術2 青銅の鋳造品

ウラルトゥの青銅製品には鋳物もある。

牛頭装飾付き大鍋 前8世紀末~7世紀 トルコ、アルトゥンテペ出土 青銅高20㎝口径26㎝ 神奈川県、シルクロード研究所蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、二つの牛頭把手の大鍋はウラルトゥ美術を代表する作品である。大鍋の口縁は外側に反り返っている。
このような丸底の把手付きの鍋は西アジアの調理用鍋の典型的な形で、古くから土製のものが使用されていた。その形をまねて金属で大型に製作し、牡牛の装飾把手をつけたのは、特別な儀式に用いられたためと考えられるという。
英語では大鍋はCauldron、スキタイの胴長の(ふく)もCauldronと同じだが、双方とも土器の形から青銅器が作られるようになっただけで、関係はないのだろうか。
『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、本来は牛の脚をかたどった三脚の上に据えられ、径1mに達する大きなものもある。口縁のところには雄牛や鳥、神像などの形をした把手が付けられている。このような青銅鍋はフリュギアやエトルリアでも出土しており、ウラルトゥの文化的影響を示しているという。
ウラルトゥの大鍋の特徴は把手に動物や神像を取り付けていることで、これはスキタイには見られない。
牛頭はおそらく蠟型技法によって製作され、細かい線刻を加えて額の毛並みや後頭部の毛の流れが表現されている。T字形の基部は三つの鋲で留められ、鳥の翼と尾を表し、線刻で羽根の一筋一筋が刻まれている。力強い牡牛の表情がしっかりとした角、ぴんと張った耳、はっきりと刻んだ目や、鼻の皺からうかがわれる。これは牡牛のもつ力への畏れの現れで、魔除けとしてつけられたのであろうという。
アンカラのアナトリア文明博物館では、チャタルフユックの前6千年紀の部屋が再現されていたが、部屋の壁面にはたくさんの牛の頭が掛けられていた。その当時から大きな角を持った牛を畏れ、魔除けとするということが、アナトリアでは広く行われていたのだろう。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、トプラックカレ出土と伝えられる品々が、19世紀後半に骨董市場を大いににぎわせた。もともと大型の家具を構成していたものが解体されて個別に売りに出されたため、こうした品々は欧米の主要な博物館に分散されて収められる結果となった。そして、その一部は日本にも請来されているという。
それはどんなものだったのだろう。

有翼スフィンクス像 前7世紀 トルコ、トプラックカレ出土 青銅、顔は石 高16㎝ エルミタージュ美術館蔵
同書は、もとは家具を飾っていた部品であった。大きさや頭上の部分が平らであることなどから玉座の装飾品であったと考えられている。
ライオンと人間の上半身が組み合わされたもので、さらに胴には翼がつけられている。顔は前方を向き、腕も前に組まれている。頭部には角があり、髪はカールして肩まで垂れている。翼も羽のようすが一枚一枚細かく表現されている。ライオンの胴の部分には鱗状の装飾で毛が表現され、脚の部分の装飾はかなり様式化されたものとなっているという。
玉座の装飾品でも、4本の足が立ち止まった位置ではなく、後ろ足は右が1歩出て、前足も右を出そうとつま先をあげて動きがある。足の先はライオンではなく人間のようだ。
人物像 前7世紀 トプラックカレ出土 青銅、顔は石 高37.5㎝ ベルリン国立博物館西アジア美術館蔵
比較的大型のものであるが、単独の像ではなく、やはり家具などの装飾の一部であったと考えられている。本体は青銅製であるが、一部には金箔が残存しており、全体が金によって覆われていた可能性もある。顔の部分は別に白色の石によって作られ、埋め込む形になっている。現在では失われてしまっているが、眉と目の部分は別の石(おそらくは黒色)によって象嵌されていたものと考えられる。こうした顔の表現方法はウラルトゥに独特なもので、スフィンクス像やライオン像にも類例が知られている。
首に掛けられた半月形をしたペンダントや斜めに掛けられた襷などの衣服の表現は、ウラルトゥに特徴的なものである。左手に肩から掛けられた長いリボンを持ち、右手に扇子を持つこの像は、神官を表現したものと考えられているという。
これがウラルトゥ人の顔。アッシリア人よりも穏やかな顔立ちだ。
服装は、左肩から右腰にかけて斜めに毛並みが表されている。右肩と下半身は無地なので、無地の衣服を着て、上半身は毛皮を羽織っているのだろう。毛皮の縁には二重の文様帯がある。雷文繋ぎか、四角形の重圏文を並べているように見える。
右腕の穴は溶かした青銅の注ぎ口だったのだろうか。欠けた部分から、かなり薄手に鋳造されていることがわかる。
このような部品が嵌め込まれていたのがどんな家具だったか、今となっては知るよしもないが、ウラルトゥ王国の隣のアッシリア帝国のものは石板の浮彫に表現されているほか、家具の一部は各都市遺跡から数多く出土している。
『大英博物館アッシリア大文明展図録』は、多くの場合、基本的な家具の材料は木材であるが、そこに青銅やその他のさまざまな材料が惜しみなく併用されている。家具の脚部には頻繁に青銅が用いられ、青銅製の動物の頭部が装飾として加えられることもあった。また、大量に象牙が使われていたことも知られているという。

アッシュールバニパルと王妃の饗宴図 前645年頃  大英博物館蔵
王が身を横たえている牀座、王妃の座る肘掛けのついた椅子、右端には物をのせる台などの家具がが描かれている。
玉座に座すセンナケリブ 前704-681年 大英博物館蔵
同書は、玉座の側面には、両腕を上げて玉座を支えているように見えるアトラスのような像が描かれているという。
国によっても家具や装飾には違いがあるだろうが、ウラルトゥでは、どんな風に上の2つの部品が嵌め込まれていたのだろう。

また、鋳造品には珍しいものがある。

城塞模型 前7世紀 トプラックカレ?出土 青銅 高28㎝幅36㎝ 大英博蔵
ウラルトゥは優れた土木技術を有し、強固な山城をいくつも築き、円柱を多用する独特の建築を発達させた。また各地で発見されている灌漑用のダムもこうした技術に裏打ちされたもので、国の生産基盤をより強固なものにしたと考えられるという。
城壁の上には等間隔で3段の鋸壁も造られていた。矢狭間もたくさんあったようだ。
大きな建物を造るには設計ということが重要だろう。当時の人はこのような模型を造っていたのだろうか。
このように、ウラルトゥ王国では様々に青銅を加工する技術があったようだ。
青銅の精錬とガラスの製作は密接に関連があるということを何かの本で読んだことがあるが、ウラルトゥで作られたガラス容器というのは記憶にない。ひょっとすると博物館に行けば展示されていたかも。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」2000年 小学館
「大英博物館アッシリア大文明 芸術と帝国展図録」1996年 朝日新聞社

2012/02/24

ウラルトゥの美術1 青銅製品

ウラルトゥという国に興味を持ったのは、岡山市立オリエント美術館で見つけた『ウラルトゥの美術と工芸展』の図録だった。その特別展はとっくの昔に終わっていたが、表紙の青銅製のベルトは、薄板に動物や戦車図が打ち出され、それ以前に見たことのないものだった。
以来、ウラルトゥは青銅工芸に秀でた国というのが頭の片隅に残っていた。

ベルト 前9-7世紀 出土地不明 青銅 長109幅13.5 神奈川県シルクロード研究所蔵
『世界美術大全集16西アジア』は、ウラルトゥの美術作品のなかでもこのような青銅製のベルトは周辺地域に類例を見ない特殊なものである。多くは幅が10㎝以上あり、周縁部に小さな穴が等間隔に穿たれているのは布や革に縫い合わせたのだろう。裏側にモティーフを彫り込んだ型(おそらく石製)を当てて打ち出された文様には、種々の動物、合成獣、神像などがあるという。 
本作品は2頭立ての戦車に乗ってライオンや牛を弓で追ったり、槍を持った騎馬人物が描かれた狩猟の場面がロゼット文や植物文をところどころに挟みながら連続して表され、留め金のある端部は聖樹の両脇で前脚を掛け立ち上がった2頭の山羊、片膝をついてライオンに弓を向ける兵士が表されている。文様の題材は総じてアッシリア帝国の浮彫りに見られるような展開であるが、ありとあらゆる動物を組み合わせてしまう(人面、胴体は有翼の魚、脚はライオンや猛禽類、尾は蠍など)合成獣の表現はウラルトゥの独創性が発揮されているという。
型を当てて打ち出したものだろうというのは想像がついたが、ロゼット文が一つ一つ異なっていたり、戦車の前後にいる矢を射られた動物の種類や動きを別のものにするなどといったことが目に留まった。
武人像 カルミル・ブルール出土 木製
『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、金属製のベルトが付けられており、盛装や武装した際の腹帯として用いられたものと思われるという。
上のようなベルトは、身につけるともっと幅が広いだろうが、儀式用など特殊な場合に使われたのだろう。 
下図から当時トゥシュパと呼ばれた都(現ヴァン)は、下図で見るとウラルトゥ王国のほぼ中央部にあったことがわかる。
カルミル・ブルル(カルミール・ブルール)は現在のアルメニア、ハッサンルはイランとなっている。
冑(部分) 前8世紀 アルメニア、カルミル・ブルル出土 青銅 高30㎝ サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、カルミル・ブルル(アルメニア語で赤い丘の意)は、アルメニアの首都エレヴァンの北西に位置し、1939年以来発掘調査が行われてきた。その結果、この都市の古名がウラルトゥの天候神ティシェバに由来するティシェバイであったことも明らかにされ、神殿や大型の建築物などの存在が確かめられた。出土した碑文などによれば、ルサ2世の時代にこの地の中心地として新たに築かれたものとのことである。
この青銅製の冑には、ウラルトゥの最盛期の王の一人、アルギシュティ1世の銘が刻まれ、彼によって主神ハルディ神に供献されたものであることがわかっている。
前面は水平方向に2段に区画され、そのあいだには生命の樹を挟んで両側に立つ有翼の聖霊をモティーフにした図像が五つずつ、そして最上段にもう一つ、計11配される。これらの装飾は、ウラルトゥ独特の打出し技法によるものという。
生命の樹と有翼精霊というモティーフはアッシリアに見られるものだ。生命の樹はそれぞれの特徴によって種類が異なるらしいが、有翼精霊が授粉する生命の樹といえばナツメヤシ。ウラルトゥの地にナツメヤシは育たないので、儀式だけが伝わったのだろうか。
主文の上下には鋸歯文が2列ずつあって、それぞれ上下の鋸歯に点状の刻み文があり、この文様を口を開けて並んだ歯を見せているような印象を与える。刻み文はよく見ると縦横に細い線を刻み込んでできている。
この冑の背面はこちら
ウラルトゥの金属技術は打ち出しだけではなかった。

兜 トルコ東部出土 青銅
『ウラルトゥの美術と工芸展図録』は、ウラルトゥが栄えたのは、考古学の時代区分から言うと初期鉄器時代Ⅱ、Ⅲ期に相当するが、最も重要な武器である剣も鉄製と共に青銅製のものも多く使われていた。ウラルトゥ人の用いた武器としては、剣のほか、槍、兜、楯、弓と矢筒などが知られている。これらは青銅で作られ、神像や怪獣の文様で飾られていた。人々は武器を戦の神ハルディの神殿に奉納し、神の加護を願ったのであるという。 
他の地域でも鉄器時代になっても青銅製の武器は多く作られている。
額の上に牡牛の角のような形で打ち出され、その下に左耳から右耳の上あたりにヘビが打ち出されていて、それぞれに動物などの文様がある。
それが白黒写真では金象嵌のように白く光って見える。ウラルトゥの工芸には象嵌もあったのだろうか。
ところが、同じ図録のカラー写真では象嵌というよりも線刻に見える。この線刻は、帯や冑のものよりもずっと細く優れている。
描き起こし図によると、牡牛の角状部分には、両側の有翼牡牛像が中央の人物に首を掴まれている。中央の人物は戦いの神ハルディだろうか。
そして、左後方から兜をまわってきたヘビの頭部は、上からみたように細かく線刻され、その上にライオンを先頭に有翼の牡牛と有翼の鳥グリフィンが進んでいる様子が表されている。

関連項目
生命の樹を遡る

※参考文献
「ウラルトゥの美術と工芸展図録」(1985年 岡山市立オリエント美術館・古代オリエント博物館)
「世界美術大全集16 西アジア」(2000年 小学館)

2012/02/21

アクダマル島の教会4 葡萄園の浮彫

アクダマル島のアルメニア教会の外壁上部を葡萄蔓草文の中に人物や動物が表された高浮彫が一周している。
葡萄蔓草文は他にも3種類あるため、この人物などの表された葡萄蔓草文を葡萄園浮彫と呼ぶことにする。

南壁西側の壁面は、南アプスから小アプスそして西アプスと複雑に造られている。葡萄園浮彫はそれぞれの壁面に同じ高さで帯状につながっている。
小アプスの小窓右上の、壁面と壁面の角の人物は、あぐらをかいて両腕を頭上で交差させているように、下からは見える。
南壁西は渦巻くブドウの蔓の中に両手を広げた人物がいる。神に祈りを捧げてる場面かな。
隣には、別のブドウが蔓を交差させながら上に伸びていて、蔓の間に2つの人物が顔をのぞかせている。この図は、下から見上げた時は、人物の両腕がブドウの蔓になっているのかと思ったものだ。このような人頭は祈る人物とは全く異なるものだ。軒下の人頭といい、いったいどこから伝わったものだろう。
西端では、子羊を担いだ人物がいて、そのブドウの蔓は左にも右にもつながらず、まるでアーチ門のようだ。
右では縦に伸びたブドウの蔓の間に鳥が留まり、ブドウの葉は鳥のいる円文となっている。
南壁アプスの東側には、籠を担ぐ人物と、ブドウを食べるクマにまたがる人物の間で、ブドウの蔓の間から顔を出した人頭が見える(矢印)。
北壁の方が葡萄の蔓草が繋がっているように、下からは見える。
アプス上には尖ったスコップで土を掘り返す人物がいる。右足をスコップに置いて、今と変わらない。
人物と背景そして蔓の内側と、三層に浮彫されている。
アプスの外壁には、クマの脇腹に剣を刺す人物の横で、ブドウの収穫に勤しむ人物がいたり、ハトらしき鳥がいたりと、場面のつながりはない。
向かい合う鳥はクジャクだろうか。左の方は羽根の付け根に連珠文があって、ササン朝やソグドの錦などを思い起こさせる。
それについてはこちら
このようなモチーフを一つ一つ見ていったら、様々な周辺地域からの影響がわかるだろう。

※参考文献
「Aghtamar A JEWEL OF MEDIEVAL ARMENIAN ARCHITECTURE」(Brinci Baski 2010年 Gomidas Institute)

2012/02/17

アクダマル島の教会3 様々な葡萄蔓草文

アクダマル島のアルメニア教会は外壁に聖書の場面などが浮彫で表されてにぎやかだ。それだけでなく、葡萄蔓草文が文様帯に使われたり、上部には葡萄蔓草文の中に人々の暮らしや動物などが高浮彫されている。
東壁でみると、切り妻屋根と、2つの私祖長い窓の間に、まず大きく葡萄蔓草の中に人物や動物のある文様帯(以下葡萄園浮彫とする)、窓の縁を飾る文様帯の2種類が認められる。
葡萄園浮彫は連続した物語になっているわけではなさそうだ。
ブドウを収穫している人たちの間には光背のある人物がブドウの蔓の中に坐っている。キリストだろうか。左のライオンは人を背後から襲おうとしているのではなく、破風の下に立つ聖ヨハネの象徴だろうか。
その下の窓枠に沿ってカーブする文様帯は、2列にブドウの実と葉が交互に並んだ蔓草文となっている。
その下にも中央の窓の上に、ほぼS字形に蛇行するブドウの蔓に、横向きの葉と実が空間いっぱいに表されている。
そして動物の下には地面を表すように、ブドウの実を両側から葉が囲み、それを二重の蔓で巻くようにして左右に続く蔓草文がある。
ここにも2種類みられるので、この小さな教会の外壁には4種類もの葡萄蔓草文があることになる。
せっかくなので、東壁南端の葡萄園浮彫。左が南端部にあたり、南面の浮彫の厚みがわかる。
図は、左が武装した騎士が後方を向いて、襲いかかったクマに弓を射ようとしている場面、一般的にはパルティアンショットと呼ばれている。
パルティアンショットについてはこちら
右はウサギを叩こうと棒を振り上げている人物で、これらも日々の生活か、それとも魔除けの意味があるのかも。

※参考文献
「Aghtamar A JEWEL OF MEDIEVAL ARMENIAN ARCHITECTURE」(Brinci Baski 2010年 Gomidas Institute)

2012/02/14

アクダマル島の教会2 アルメニアの人頭とロマネスクの人頭

アクダマル島のアルメニア教会を見た時、人の顔や動物の浮彫が多く見られた。それも軒の下側に並べるなど、魔除けの意味がありそうだ。
北壁は西側の軒下に並んでいた。
それだけでなく四福音書家のひとり聖マルコの頭上にも人頭がある。
南壁にも、西側の軒下に並んでいて、西の正面入口を中心に考えると、左右対称に、教会の軒下に人頭が並んでいることになる。
それは私が長年、じっくりと見て回りたいと思っていたロマネスク美術に似たものだった。
ロマネスク美術は11-12世紀で、アクダマル島の教会(915-9211年)よりも後の時代のものだが、アルメニア美術が伝わったというよりも、西欧に古来より住んでいたケルト人の名残である。
ケルトの人頭についてはこちら

軒や柱頭に人の顔が並んでいるロマネスク様式の教会はいくらでもあるはずと、改めて探してみると、意外なことになかなか見つからなかった。

フランス、ポワティエ、ノートルダム・ラ・グランド聖堂 西正面の装飾 12世紀
『ヨーロッパ巡礼物語』は、小柄だが正面全体に石の彫刻がほどこしてあるすばらしい建物であったという。
3段のアーチ列があるが、その上の浮彫に人の顔が並んでいる。
その拡大写真。人頭だけでなく動物の頭部もある。
スペインのカタルニア地方の教会を探してみた(現在はカタルニア語の地名が使われていますが、『カタルニア・ロマネスク』の出版された1987年頃はスペイン語の地名だったので、そのまま表記します)。

サン・ペドロ教会 軒飾り タラッサ 10-12世紀 
この教会はもと西ゴート様式の後陣を持ったものであったが、12世紀に修復された。軒飾りや壁面飾りは、ロマネスクの教会の一つの特色をなすもので、動物や人頭が図案化されたものや抽象的テーマが用いられるという。
人頭は長い鼻と小さな目が彫り込まれている程度で、ロマネスクというよりもケルトの人頭を思わせる。
サン・ペドロ教会 扉口柱頭 アラン谷エスクニャウ 12世紀
『カタルニア・ロマネスク』は、古風な雰囲気のただよう建築。扉口はきわめてアルカイックな持送りで、梁には市松模様の装飾が施されている。柱と柱頭には抽象的な植物模様や人の頭部が浮彫りにされるという。
タラッサの人頭よりも表情のある顔に仕上がっている。左側の柱頭では、人物の髭が放射状に表されている。
サンタ・マリア大聖堂 セウ・デ・ウルヘル 12世紀
ロンバルディア・ロマネスク様式の典型であるという。
アーチを支える円柱の各柱頭の浮彫にも中央に小さな人頭が表され、その上の垂飾には大きな人頭が高浮彫されている。
右の人物の髭も直線敵だが、エスクニャウのものよりもこなれた表現となっている。
アクダマル島の教会に髭のある人頭はなさそうだ。
それにしても、ロマネスクの教会で見られる人頭がアナトリア東部のアルメニア教会でも見られるとは。

※参考文献
「ヨーロッパ巡礼物語」田沼武能 1988年 グラフィック社
「ロマネスク古寺巡礼」田沼武能 1995年 岩波書店
「カタルニア・ロマネスク」田沼武能 1987年 岩波書店
「世界歴史の旅 フランス・ロマネスク」饗庭孝男 1999年 山川出版社

2012/02/10

アクダマル島の教会1 アルメニア美術とビザンティン美術

ビザンティン美術とアルメニア美術との決定的な違いは、平面的な絵画か僅かとはいえ浮彫になっているかである。そして、ビザンティン教会には外側に宗教的な像は表されない。

一般的に教会の西側は正面入口になっている。その入口上部にこの教会堂を建立して神に捧げる当時のガギク王と、それを祝福するキリストが、その両側にセラフィムが表されている。
イスタンブールのアギア・ソフィア大聖堂では、南入口上に、神にコンスタンティノープルの街を献納するコンスタンティヌス帝と、アギア・ソフィア大聖堂を奉献するユスティニアヌス帝が表されているが、これはユスティニアヌス帝が建立した当時につくられたものではなく、紀元1000年前後に制作されたものだ。
キリスト教世界では、教会を造った者がその姿を教会に描かせるということが、広く流行していたのかも。
ガギク王とキリストの両側にいるセラフィムは、6枚の翼を持った天使とされる。
左側は腕を現さないが、右のセラフィムは肘から上をあげて、オランスという姿勢をとっている。
『世界美術大全集7西欧初期中世の美術』は、両腕を挙げて祈るオランスは、救済された魂一般の象徴というが、ここではガギク王の教会献納を賞賛しているかのようだ。
アギア・ソフィア大聖堂では、4名のセラフィムが直径31mもの大ドームを支えるかのように、ペンデンティブに描かれている。しかし、鳥の羽根のような翼には目玉は表されていない。
ビザンティン美術にしても、ロマネスク美術にしても、玉座のキリストや聖母子像といえば、西正面(ファサード)や聖堂内の後陣など、重要な場所に表されるのに、アルメニア美術では、あるいはアクダマル島のアルメニア教会では、外壁の、それも壁面が折れるような、目立ちにくい場所にある。
アルメニア教会では、そのような図像は重要視されていなかったかのようだ。
玉座の聖母子像では、聖母は幼子キリストを左膝にのせている。左膝にキリストを抱くのはホデゲトリア型だったと思う。
一方アギア・ソフィアの聖母はキリストを膝の間に抱いている。
『天使が描いた』は、幼子キリストは聖母の真ん中に位置し両者ともに正面を向いている。プラテュテラ型とよばれる聖母子像であるという。
アルメニア教会で最も重要な図像は何だったのだろう。

※参考文献
「世界美術大全集7 西欧初期中世の美術」(1997年 小学館)

「Aghtamar A JEWEL OF MEDIEVAL ARMENIAN ARCHITECTURE」(Brinci Baski 2010年 Gomidas Institute)

2012/02/07

アンティオコスⅠの右腰に付けているのはアキナケス型短剣

ネムルート山西のテラスには石像と並んで王権神授を主題にした浮彫石板が並んでいた。現在は博物館にでも収蔵されているのか、見ることはできなかった。
『世界美術大全集東洋編16西アジア』は、国王の王権神授を表した。国王と神が右手で握手(デクシオーシス)をしている点を特色とするという。
そのような場面で、浮彫にはアンティオコスⅠの右腰に装飾的な剣が提げられている。
『コンマゲネ王国ネムルート』は、刀の鞘にもライオン頭の飾りが5つ見えるというがよくわからない。
ネムルート山近くのアルサメイアにもアンティオコスⅠとヘラクレスが握手する浮彫が残っている。その描きおこし図でライオンの頭部がはっきりと表されている。
それと同時に、この短剣は環頭になっていることもわかった。
そのような剣はコンマゲネ王国独自のものではない。

短剣・鞘 ロストフ州「ダーチ」墓地1号墳1号隠し穴出土 1世紀後半 金、ザクロ石、紅玉髄、トルコ石、鋳造、打出し、鍛造、鑞付け 長36.5㎝・27.1㎝ アゾフ博物館蔵
『南ロシア騎馬民族の遺宝展図録』は、柄には双峯ラクダと、双峯ラクダを襲う鷲がレリーフで表現されている。裏側には植物文がある。刃には白と赤の顔料が付着しているが、腐ってなくなってしまった革の鞘に塗られていた顔料であろうという。
時代はコンマゲネ王国の短剣よりも下がるが、アンティオコスⅠが儀式の時に提げていたとしたら、おそらくこのような絢爛豪華なものだっただろう。
鞘本体には鷲が双峯ラクダを襲う場面と後ろを振り返るグリフィンが表現されている。
鞘入りのこの短剣は、サルマタイの首長の儀式用軍装に伴うものであろうという。
こちらも儀式用である。
ロストフ州出土の短剣鞘にはライオンではなくフタコブラクダになっている。フタコブラクダは黒海東岸のロストフよりも東の中央アジア以東にしか生息しないといわれているが、隊商が物資の運搬に連れてきていて、見慣れた動物だった可能性もある。
柄の頂部は横向きのフタコブラクダで、その下にワシが横向きのラクダを上から襲っているシーンが表されている。
鞘中央には足を曲げて坐るラクダを上からワシが襲うシーンが4回繰り返され、一番下は丸まったラクダとなっている。突起部は左上だけが獅子グリフィンで、あとの3つは丸まったラクダである。
実用的なアキナケス型短剣とはどんなものだったのだろう。

短剣鞘 ウランドリク古墳出土 木製 パジリク文化(前4世紀)
ウランドリク型に似たものは南シベリアのオグラフティ古墳とコケリ古墳(匈奴のものとされている)からも発見されている。
このタイプの短剣鞘は、4つの穴に紐を通して右大腿部にしばりつけたものであることは、図像によって明らかである。シベリアエヴェンキ族も鞘の形はちがうが、ナイフを右太腿にしばりつけているという。
実用的な短剣の鞘とはこのようなものだったようだ。
アキナケス型短剣は、本来は太腿にしばりつけて使用したものだった。
それが儀礼的な短剣となってからは、右腰に提げるようになったようだ。
古代ユーラシア美術史学者、田辺勝美はこのタイプの短剣鞘が前5-4世紀にアルタイ地方などの中央アジアにおいて「スキタイ、メディア、ペルシャなどのイラン系民族が用いていたアキナケス型短剣の影響を受けて発明せられ、それが中央アジアのイラン系の遊牧民、サルマタイやパルティアに伝播して、彼等が南ロシアやイラン高原・メソポタミアに進出するに及んで、このような地方にも伝播した」と考えている。さらにこのタイプの短剣鞘は、「パルティア文化圏においては、一般の人が佩用するものではなく、ある特定の地位の人間(王侯貴族)が用いる短剣として定着し、それがササン朝ペルシャへと継承されていったのである。」(「ササン朝帝王の短剣に関する一考察」1985)。たしかに、このタイプの短剣鞘はズボンをはいて絶えず馬に乗り降りする遊牧騎馬民において発明され、それがオリエント方面へ伝播したことは充分考えられるという。

では、アキナケス型短剣ではなく、アキナケス剣とはどんなものだったのか。

聖樹と有翼神・動物文の剣と鞘覆い スキタイ(前7世紀末期) ロシア、クラスノダル地区ケレルメス1号墳出土 金・鉄 鞘覆い:長47.0㎝幅14.1㎝ 剣の柄:長15.5㎝ サンクト・ペテルブルグ、エルミタージュ美術館蔵
『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、鉄剣は柄と刃が一体になっており、鐔は蝶あるいは逆ハート形に近い形をしている。このような鐔をもつ剣をギリシアではアキナケスと呼ぶ。アキナケス剣は、いわゆるスキタイの三要素(動物文様、馬具、武器)の一つである武器のなかで、三翼鏃とともに本来スキタイ固有の要素と考えられ、スキタイ時代にはユーラシア草原地帯とその周辺の中国やイラン、ギリシアにも広まったという。
アキナケス剣は、鞘の出っ張りが一つだけで、そこに紐がついている。太腿に巻き付けたのではなく、腰に提げていたらしい。
鞘には前進する鳥グリフィンと弓を引いて前進する鳥グリフィンが交互に4対表されている(下図の矢印は同じ鳥グリフィン)。
パルティア美術圏では、その後もこのようなアキナケス型の装飾短剣を腰に提げることが続いたようで、パルミラの饗宴図にも見られる(中央人物の右腕と右脚の間)。
アキナケス型短剣については、他にもまとめておきたいが、それはいつの日にか。

※参考文献
「世界美術大全集東洋編16 西アジア」(2000年 小学館)
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」(1999年 小学館)
「南ロシア騎馬民族の遺宝展図録」(1991年 古代オリエント博物館・朝日新聞社)