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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/02/12

涅槃図に飛来する摩耶夫人



バーミヤン石窟や敦煌莫高窟の隋代(581-618)では涅槃図の中に、摩耶夫人(まやぶにん、『中国石窟敦煌莫高窟2』はマハプラジャパーティとする)が釈迦の枕元で椅子に腰掛ける姿で表されている。
摩耶夫人は釈迦誕生の7日後に亡くなり、妹のマハプラジャパーティが釈迦を育てたとされているが、釈迦の涅槃とはどんな関係があるのだろう。
『涅槃図の名作展図録』は、釈迦が拘尸那城の尼連禅河のほとり、沙羅双樹のもとで涅槃に入ったとき、阿那律は忉利天に昇り、仏母摩耶夫人にこのことを報告した。夫人は急ぎ天上から飛来したという。

涅槃図 絹本着色 掛幅装 応徳3年(1086) 縦267㎝横271㎝ 高野山金剛峯寺蔵
『日本の美術268涅槃図』は、図の右上隅に仏母摩耶夫人の飛来するさまを描き、摩耶夫人に向かいあって勝音天子が坐る。鎌倉時代の涅槃図では、摩耶夫人はすべて立像だが、この図は坐像で、ここにも古い形式があらわれているという。
古い形式とは、日本に請来された唐時代の涅槃図の形式のことで、唐代は摩耶夫人は坐って降下するように描かれていたことが、日本に残る涅槃図によって推測できる。
摩耶夫人 同拡大図
拡大してやっとわかった。摩耶夫人の乗る雲は膝の下に小さく描かれているだけだ。来迎雲のように沸き上がるでもなく、紐のような尾を3本ほど引くのみで、静かな降下となっている。
摩耶夫人は感情を表に表さない。
唐時代には摩耶夫人をこのように表していたのだろう。
摩耶夫人は雲の上に坐して釈迦のもとに駆けつけるのだと思っていたが、調べてみると他の図では確かに立っている。

飛来する摩耶夫人 涅槃図右上隅 絹本着色 鎌倉前期(1192-1224) 和歌山浄教寺蔵
やはり涅槃図の右上隅に描かれている。宋時代になっても、摩耶夫人は右上に描かれていたのだろう。
沸き立つ雲に乗る摩耶夫人は、顔を袖で隠し悲嘆に暮れている。
摩耶夫人を導く僧形の人物は阿那律だろうか。
飛来する摩耶夫人 涅槃図右上 絹本着色 鎌倉後期(1267-1333) 京都知恩寺蔵
数人のお供と共に飛来する摩耶夫人はほぼ沙羅双樹の上まで達し、釈迦を取り囲む弟子や比丘たちと変わらない大きさで表される。
摩耶夫人は両手で顔を隠し、悲しみを表現している。
やはり僧形の人物に伴われている。 
宋末元初の中国の涅槃図が、日本に残っていた。

飛来する摩耶夫人 涅槃図中央上方 絹本着色 陸信忠筆 宋末元初(13世紀後半) 奈良国立博物館蔵
『日本の美術268涅槃図』は、会衆は10人の仏弟子と長い筒袖の赤衣を着た異様な二天のみ。2本の沙羅双樹は装飾化著しく、一風変わった涅槃図になっているという。
縦長の画面には沙羅双樹が高く描かれ、その間に大きな来迎雲に乗る摩耶夫人が飛来する。つまり、上方中央に摩耶夫人が描かれているのだが、解説に「一風変わった」と表現されているように、中央上方に摩耶夫人が描かれるのは特殊な涅槃図で、あまり参考にはならなかった。
日本では鎌倉後期になっても、摩耶夫人は上方右端あるいは右寄りに描かれているので、日本に請来された宋時代の涅槃図も、やはり上方右寄りに描かれていたのだろう。 
応徳涅槃図が描かれた頃、中国ではすでに五代十国時代も去り、北宋時代に入っていた。その頃の涅槃図浮彫が残っている。

涅槃図 浮彫 北宋時代、11世紀末 陝西省延安市黄陵千仏寺
『絵は語る2仏涅槃図』は、雲に乗って下降する摩耶夫人と侍者の立像3体が上方右寄りにはっきり表され、中国における摩耶飛来の図様の存在が確認できるのであるという。
右寄りと言われれば、やや右寄りだが、限りなく中央に近いような。
侍者2名と雲に乗る図様は、すでに11世紀末には成立していたようだ。
つづく

関連項目
涅槃図に飛来する摩耶夫人
バーミヤンにも涅槃図
クシャーン朝、マトゥラーの涅槃図浮彫
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
傾斜のある木棺1

※参考文献
「絵は語る2 仏涅槃図 大いなる死の造形」 泉武夫 1994年 平凡社
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館

「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社