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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/02/15

釈迦金棺出現図 



釈迦金棺出現図 絹本着色  平安時代後期(11世紀末) 縦160㎝横229㎝ 京都国立博物館蔵
『涅槃図の名作展図録』は、摩耶夫人は棺側に至り曼荼羅華を棺上に散らし、釈迦の僧伽梨衣を顧み、鉢と錫杖を執って号泣した。このとき、釈迦は大神力をもって棺蓋を開き、獅子奮迅の勢いで棺中より合掌して身を起こし、身の毛孔から千百の光明を放ち、その一つ一つの光明中に千百の化仏を現じ、化仏も皆ことごとく夫人に向かって合掌した。そこで釈迦は母たる夫人のため、
一切の行は無常にして、住もこれ生滅の法なり、生滅既に滅し巳って、寂滅を至楽となす
と諭し、諭しおわって、棺蓋を閉じて棺内に隠れた。
以上は摩訶摩耶経が説く一説であるが、この図は横長の大画面に、今しも釈迦が合掌して身を起こした劇的な場面を描く。その背後には、あたかも孔雀が羽を広げたかのように、白く輝く半円形のうちに、無数の化仏が出現しているという。
どちらかというと地味な涅槃図の中で、この図は煌びやかで異彩を放っている。
摩耶夫人は釈迦の視線の延長上に横向きで登場している(矢印)。
応徳3年の金剛峯寺本仏涅槃図と大治2年(1127)の京都国立博物館本十二天像との中間あたりの11世紀末期に制作された作品で、その背景には、整斉たる古典様式に挑戦しようとする院政初期の鬱勃たる気運がみなぎっているという。
このような仏画を見なくなってもう30年も経ってしまった。

なお、金棺出現図は仏伝の1こまとして八相涅槃図中に描かれることもあるが、独立した絵としては、これが唯一の作品で、もとは比叡山に伝来し、織田信長の叡山焼討のときに山を下りたと伝えているという。
では八相涅槃図ではどのように金棺出現の場面が描かれているのだろう。

再生説法図 八相涅槃図内 絹本着色 鎌倉時代(13世紀) 岡山自生院安養院蔵
『ブッダ展図録』は、釈迦入滅(涅槃)の場面を中心にして、まわりに涅槃前後の事蹟を描き込んだ形式の八相涅槃図である。各場面の傍には短冊形が設けられ、そこに事蹟名を記している。順にたどると、画面左下の純陀(チュンダ)供養、その上の虚空上昇(臨終遺誡)、画面中央の涅槃、画面右下から上に再生説法、金棺不動、金棺拘尸城(クシナガラ)旋回、画面中央上部の迦葉接足・荼毘、左上の分舎利となるという。
涅槃図では右上部に忉利天より飛来する摩耶夫人が描かれるのが一般的だったが、ここでは左上方から飛来している。
涅槃図と摩耶夫人についてはこちら
こういった八相涅槃図の制作背景には、鎌倉時代における釈迦信仰への回帰運動が根底にあり、なかでも明恵上人の『涅槃講式』には涅槃前後の諸事蹟を詳しく述べる箇所があり、あわせて新渡来の宋代の八相涅槃図の影響を受けて成立したものと考えられるという。
この金棺出現(再生説法)図は、上の釈迦金棺出現図とは逆の向きになっており、釈迦は左を向いて、座り込んだ摩耶夫人(矢印)を見ている。
金棺出現図 八相涅槃図内 鎌倉後期(1267-1333) 岡山遍明院蔵
『日本の美術268涅槃図』は、涅槃のしらせを聞いて忉利天から飛来した摩耶夫人に対して、釈迦が金棺から出現して説法する場面。再生説法図ともいうという。
やはり釈迦は左向きで表される。八相涅槃図では、右下に金棺出現図が描かれるのが決まりとなっているらしく、画面の構成上、釈迦を内側向きにせざるを得ないのだろう。
劣化が進んでわかりづらいが、左から2人目(矢印)が摩耶夫人。
金棺出現図は再生説法図とも呼ばれたらしい。京博本金棺出現図にしろ、八相涅槃図の中の金棺出現図にしろ、金棺の蓋を開けて釈迦が出現した瞬間を表現したものではく、摩耶夫人にない。それよりも、生母の摩耶夫人を諭すことが重要視されていたのだろう。
その点京博本は、釈迦の体から放たれた光明が、釈迦が棺から身を起こした瞬間を捉えているようで、臨場感がある。

このような金棺出現図というものは、日本にしかない主題だろうと思っていた。
ところが、中国にもあって、しかも棺の蓋が宙に浮かぶ様が浮彫されていた。

金棺出現図 浮彫 北宋時代、11世紀末 黄陵千仏寺
『絵は語る2仏涅槃図』は、ブッダが宝台に横たわり、仏弟子たちが嘆くなか、上空より摩耶夫人の一行が雲に乗って飛来する。これは次に続く金棺出現図、つまり摩耶のために釈迦が一時蘇生し説法するという場面と対になっているという。
金棺の蓋が宙に浮かび、蓋の内側から2本の幅の広い帯状のものが下がっている。きっとこの棺の蓋も傾斜があったんだろうなあと勝手に思っている。
傾斜のある木棺についてはこちら

蓋の下には釈迦が蓮華に結跏扶坐しており、摩耶夫人は釈迦の方を向かずに手を合わせている(矢印)。
中国では、金棺から出現した釈迦を表したものはこの北宋時代の浮彫だけだったが、棺の上に坐って摩耶夫人に説法する図は敦煌莫高窟にある。

涅槃経変部分 敦煌莫高窟第332窟南壁後部 初唐(618-712年)
『中国石窟 敦煌莫高窟3』は、釈迦が母に説法をする場面。釈迦の母摩耶夫人は釈迦を哀悼するために忉利天から降下した。仏は神通力で棺の蓋を開き、棺に坐って母に説法したという。
ひょっとして、この絵の前に金棺出現図があり、更にその前に涅槃図があったのかも。
このように、摩耶夫人は涅槃図には忉利天から飛来する姿で表され、金棺出現図では釈迦の間近に登場する。
そうすると、莫高窟の隋代(581-618)の涅槃図に見られた釈迦の枕元で椅子に腰掛ける夫人は、養母のマハプラジャパーティではなく、生母の摩耶夫人とみる方が自然だ。
ひょっとして、隋代の涅槃の場面は、釈迦が金棺出現と涅槃を同時に表したものだったのではないだろうか。キジル石窟の涅槃図が荼毘と同時に描かれているように。

しかし、『中央アジアにおける仏教と異宗教の交流』というシンポジウムで、宮地治氏は、釈尊の枕辺で項垂れる女性が出て来ます。これはどうも釈尊のお母さん、摩耶夫人ではないかと見られます。敦煌でも隋代に枕辺で悲しむ女性が涅槃図に出て来ます。これもガンダーラの図像には見られなかった特徴で、涅槃経のテキストにも出て来ません。おそらくこれは曇景訳とされる、実は偽経ですけれども、『摩訶摩耶経』という経典に、仏涅槃、仏入滅に際して、摩耶夫人が忉利天から降りてきて、悲しむ話が出て来ます。その経典では釈尊はお母さんのために生き返って、再生説法したという話が語られます。涅槃に入った釈尊が生き返ったら元も子もないというか、涅槃の意味がなくなってしまうわけですから、インドでは考えられないことですが、中国唐代の則天期にこうした図像が成立しますという。
なんと摩訶摩耶経は偽経で、しかも初唐の則天武后期に再生説法図は成立したのだった。

すると、バーミヤンや敦煌莫高窟隋代の涅槃図で、釈迦の枕元で椅子に腰掛ける夫人は誰なのだろう。
バーミヤンの涅槃図についてはこちら
敦煌莫高窟隋代の涅槃図についてはこちら

関連項目
釈迦金棺出現図の截金
涅槃図に飛来する摩耶夫人
バーミヤンにも涅槃図
クシャーン朝、マトゥラーの涅槃図浮彫
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
傾斜のある木棺1

※参考サイト
龍谷大学アジア仏教文化研究センター国内シンポジウム中央アジアにおける仏教と異宗教の交流

※参考文献
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館
「ブッダ 大いなる旅路展図録」 1998年 NHK
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1988年 至文堂
「絵は語る2 仏涅槃図 大いなる死の造形」 泉武夫 1994年 平凡社 
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 日本放送協会
「中国石窟 敦煌莫高窟2」  敦煌文物研究所 1984年 文物出版社