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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/05/17

ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞



法華堂根本曼荼羅図は、1983年の『ボストン美術館所蔵日本絵画名品展図録』では、霊鷲山を描く部分は黄土地帯と思われる荒けずりの大地と寒林風の樹木がみえるが、これらは釈尊の相好とともに唐画の形式に学ぶところ大なるものがあったとみられる。事実、本図はかって唐画と言われて来たが、これと相近い栄山寺八角堂壁画の諸菩薩像との比較において、奈良時代後期の日本作と考えて疑いないとされるが、2012年の『ボストン美術館日本美術の至宝展図録』には唐で制作されたものか、日本でつくられたものかは明記されていない。
背景の霊鷲山についてはこちら
日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、本図の制作の時期と場所については従来より議論が多い。ボストン美術館東洋部長であった岡倉天心が熟慮の末唐画の部門に入れて久しかったが、その後日本の研究者によって日本画とされた。しかしなお決定的な結論に至っていないのが実情であるという。

同書は、麻布に描かれ、重畳と続く山水を背景に朱衣の釈迦を中心に左右に菩薩の他、比丘形などが囲繞する、いわゆる釈迦が法華経を説く情景とされる霊鷲山説法図であるという。 
褪色ということもあるだろうが、あまり色のない背景に、説法の場面が白く浮かび、釈迦の着衣の朱色が目立つ仏画だ。
同書は、釈迦はぴったりとした朱衣を身にまとい蓮華座に結跏扶坐する。二重円相の光背を負い、軽く足を跏坐させて坐る。肉身は白肉色で柔軟かつ鮮やかな朱線の鉄線描によって描起す。朱の条帛と、現在紫褐色に見える裙をつけているという。
偏袒右肩に着けた衣には全く文様は見られない。文様は身光にのみ見られる。
拡大すると光背の輪郭が金色の二重線となっていた。金箔か金泥か、太さが均一なので、截金だろうか。
また、内側も外側も墨線で草花文が描かれているように見えるが、これも銀泥かも知れない。花弁には赤い色が残っているので、制作当時はもっと華やかな仏画だったはずだ。
左右の脇侍菩薩各々の左右に2、3体の小さな菩薩がとりまいている。ことに白肉色の菩薩では鮮やかな朱の唇などに極めて異国的な印象をうける。胸飾りや腕釧には金箔が用いられて朱のまさった肉身によく映えるという。
脇侍菩薩の両腕には羽衣の襞の重なりもあり、腕釧は羽衣の上に着けて描かれている。
X状瓔珞は金色の数珠を連ねたもので、飛鳥時代の菩薩立像にもあったような記憶がある。
観音菩薩立像 銅造鍍金 38.0㎝ 7世紀 法隆寺献納宝物183号
『法隆寺献納金銅仏展図録』は、豪華なつくりの胸飾や瓔珞で飾られているが、瓔珞は腹部の花形飾を中心にしてほぼ上下左右に対称的に構成されたもので、動きのある構成はみられず、より古様な感覚であるという。
数珠状瓔珞は、それぞれ花形飾に近い3つの珠の形が数珠部分と異なっているので、長い数珠が花形飾の内側でX字状に交差しているのではなく、花形飾に4本の数珠が取り付けられているようだ。
しかし、持統2(688)年頃、あるいは養老2(718)年頃と、まだその制作年代が決定していない薬師寺金堂日光菩薩立像にはもうX字形瓔珞は見られない。
奈良時代になると、もうX字形瓔珞は日本では菩薩を飾ることはなくなってしまったらしい。

つづく


関連項目
ボストン美術館展8 法華堂根本曼荼羅図4 容貌は日本風?
ボストン美術館展7 法華堂根本曼荼羅図3 霊鷲山説法図か浄土図か
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展5 法華堂根本曼荼羅図1風景
ボストン美術館展4 一字金輪像
ボストン美術館展3 如意輪観音菩薩像
ボストン美術館展2 普賢延命菩薩像
ボストン美術館展1 馬頭観音菩薩像

※参考文献
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「ボストン美術館所蔵 日本絵画名品展図録」 東京国立博物館・京都国立博物館編集 1983年 日本放送網株式会社
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」 百橋明穂 1983年 至文堂
「法隆寺献納金銅仏展図録」 1981年 奈良国立博物館