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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/05/24

X字状の天衣と瓔珞2 敦煌莫高窟18



敦煌莫高窟ではX字状に交差する天衣や瓔珞はどのように表されてきたのだろう。

脇侍菩薩立像 塑造 第437窟中心柱東向面 北魏後期(494-535)
『中国石窟敦煌莫高窟第一巻』は、塔柱には北魏晩期当初の部分が残るという。中国では中心柱を塔柱といい、後期を晩期と呼ぶらしい。ちなみに初期又は前期は早期と記されている。
腹前でX字状に交差した天衣(中国語では披巾)は三角に広がり、あまり下には垂れないで腕に回している。
脇侍菩薩立像 第435窟南壁前部 北魏(439-535)
天衣は腹前でX字状に交差している、というよりも複雑に捻れている。すぐに折れて腕にまわるのだが、天衣の幅が広く三角状に垂下する。
また、天衣は腕に通しているのか、上に乗っているだけなのか、よく分からない描き方だ。
天衣自体は腕の下で終わる長さだが、その端が2本に分かれて長くのびている。
脇侍菩薩立像 説法図うち 第285窟北壁上層部 西魏、大統4-5年(538-539) 
天衣は腹前でX字状に交差し、北魏時代のものよりは長めに垂下し、三角状に広がって上向きとなり、腕にまわって折れながら長く垂れている。
脇侍菩薩立像 塑造 第432窟中心柱北向龕東側 西魏(535-557)
天衣は腹前でX字状に交差するが、そこには輪っかが出現している。同時代中国の東半分を領土としていた東魏では、武定7年(549)銘の菩薩立像にも輪っかがあるので、北朝では広い範囲で輪っかが見られたことになる。
天衣はX字状に交差するが、輪っかに天衣は通っておらず、白い腰紐の長い緒が輪っかを通っている。
脇侍菩薩 塑造 第290窟中心柱東向龕西側 北周(557-581)
右肩から斜めに下がる天衣は輪っかの下にあり、左肩から斜めにに垂れる天衣が輪っかの上から右の天衣をくぐって輪っかの上に出ている。このようにしないと輪っかは留まらないだろう。同じやり方で、武定7年銘の菩薩立像は輪っかを通しているので、輪っかの出現は同じ頃としても、輪っかの正しい通し方は東側の方が早かったといえる。
菩薩立像 第420窟西壁南側 隋(581-618)
数珠状瓔珞は、敦煌莫高窟では隋になって現れる。正確にはX字状とは言えないくらい繁雑な作りになっている。
交差部分の金具も小さいが、とりあえず、敦煌莫高窟では数珠状のX字形瓔珞は隋時代になって出現した。しかし、天衣はX字状に交差せず、腰と膝でU字状に下がっている。
そういえば菩薩の腹布が菱繋文だ。
菱繋文についてはこちら
菩薩坐像 第334窟南壁阿弥陀経変 初唐(618-712)
首から下がった長い珠と丸い玉を連ねた瓔珞が腹前の丸い飾りに連結し、1本は右膝を回り、もう1本は右ふくらはぎに懸かって左膝の上へと向かう。
長い珠が多いため弧を描くようにしか曲がらない、固い瓔珞を描いたのだろう。
菩薩坐像 第103窟南壁法華経変 盛唐(712-781)
菩薩の瓔珞は、貴石を象嵌した部品もあるようだが、ほぼ小さな丸い珠が連なるため、滑らかに体に添う。
ボストン美術館所蔵法華堂根本曼荼羅図の脇侍菩薩が付けた瓔珞に近い作品だ。
菩薩の顔はボストン本の方が柔らかいが、弧を描く眉といい、坐った足の雰囲気といい、よく似ている。
敦煌莫高窟では、北魏時代後期からX字状に交差する天衣が見られる。
輪っかが出現するのは西魏時代からで、数珠状のX字形瓔珞は隋に入ってからだった。

また、ボストン美術館所蔵法華堂根本曼荼羅図の脇侍菩薩に非常に似た菩薩坐像が盛唐期の敦煌莫高窟で見られるので、双方が手本とした仏画が、都の長安にあったのだろうと想像できる。
ボストン本が唐で制作され奈良に請来されたものか、奈良に請来された仏画を元に日本で模写された作品が残っているのか、これだけでは判断できない。

           →敦煌莫高窟19 428窟は一仏二弟子二菩薩像の最初

関連項目
X字状の天衣と瓔珞8  X字状の瓔珞は西方系、X字状の天衣は中国系
X字状の天衣と瓔珞7 南朝
X字状の天衣と瓔珞6 雲崗曇曜窟飛天にX字状のもの
X字状の天衣と瓔珞5 龍門石窟
X字状の天衣と瓔珞4 麦積山石窟
X字状の天衣と瓔珞3 炳霊寺石窟
X字状の天衣と瓔珞1 中国仏像篇
ボストン美術館展6 法華堂根本曼荼羅図2菩薩のX状瓔珞

※参考文献
「中国の金銅仏展図録」 1992年 大和文華館 
「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟3」 敦煌文物研究所 1987年 文物出版社