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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/08/09

ローマ時代、色ガラスの舗床モザイクがあった



ペロポネソス半島のコリントス遺跡は、ローマ軍に徹底的に破壊されたため、古代ギリシア時代の遺構で残っているものはアポロン神殿だけで、古代コリントス遺跡というのは、その後ローマ時代に築かれた街を指す。

舗床モザイク 古代コリントスの西アナプゴラ村出土 5X9m 後2世紀末-3世紀初
博物館の説明板は、ローマ時代の邸宅の食堂に比定されている。
中央の3つのパネル(現状は2つ)は鳥と果実が描かれ、立体的に見えるように構成した、複雑なメアンダー文に囲まれている。
その周囲をケンタウロス、花々、走る野生獣の入り込んだ唐草文が巡っている。
外側の円周の重なり合う装飾帯(七宝繋文)は、食事用の寝台の位置を示し、おそらく9台が置かれた。舗床モザイクに、一般的な石のテッセラに加えて、ガラスのテッセラが多く使われているのは注目に値するという。
別のカメラで撮ったアップの写真。色が悪くて色石のように見えるのが残念。実際はもっと鮮やかな色だった。
色ガラスというのは、当時は非常に高価で、人が踏み歩く床ではなく、壁面に使ったと何かの本で読んだ。だから、キリスト教が公認され、教会堂が建立されるようになると、壁面やドームを荘厳するようになった。
ところが、ここでは個人の邸宅の床に使われている。それも、食べかすを落とすことになっていた食堂の床に。
『ギリシア都市の歩き方』は、コリントスは、古代ギリシア時代以来、地峡に西のコリントス湾に面するレカイオン港と、東のサロニコス湾のケンクレアイ港という2港を擁すおかげで、アジアとヨーロッパを安全かつ迅速に結ぶことのできる地理的条件を備えていることに変わりない。それに加えて、地中海世界がひとつの海となったローマ時代には、首都ローマと東地中海を容易に結ぶコリントス経由航路は、はるかに重要な意味を担うようになり、エフェソス、ミレトス、アフロディシアスのような属州アジアの重要な拠点都市とローマを結ぶ、大動脈路のひとつとなった。
このような経済的な繁栄は、ギリシア時代と同じように、コリントスの市民に特異な性格を形成させた。それはギリシアの諺で、「コリントスへ赴くことは誰彼の差別なくなしうるにあらず」と言われるほどのこと人の贅沢、奢侈そして放蕩であるという。
その限りない贅沢への希求が、床に色ガラスでモザイクを作らせたのだろう。
この立体的に見える卍繋文は、ラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にあったと記憶している

ガッラ・プラチディア廟(425-450年頃)は、小さな建物の壁面、ドームそしてその移行部までがガラス・モザイクで埋め尽くされている。
十字交差部の大きなアーチの一つに卍繋文のモザイクがある。
卍繋文は2列に構成されているが、その立体感を目指した色ガラスの配置は変わらない。
ところで、ポンペイ遺跡(-後79年)には、色ガラスのテッセラを使ったモザイクがある。

一つはアウグストゥス帝期(前27-後14年)に邸宅の奥庭に造られるようになったらしい、泉水堂に使われた(『完全復元ポンペイ』より)。
それについてはこちら

そして、もう一つは、邸宅の庭園に作られた蔓棚の円柱だった。
それについてはこちら

このように、宗教施設を荘厳するためでもなく、人々は、金に飽かして色ガラスであちこちをモザイクで飾っていたのだった。

関連項目
メアンダー文を遡る
卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう
卍繋文の最古は?
コリントス遺跡3 博物館2
ラヴェンナのガッラ・プラチディア廟にペンデンティブの前身
壁面モザイクはポンペイの泉水堂(nicchie dei ninfei)が最初?
ポンペイの円柱にガラスモザイク(Colonne a mosaico  in pasta vitrea)

※参考文献
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社
「ギリシア都市の歩き方」 勝又俊雄 2000年 角川選書
「完全復元2000年前の古代都市 ポンペイ」(サルバトーレ・チロ・ナッポ 1999年 ニュートンプレス)