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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/12/13

マケドニア朝期のモザイク壁画1 アギア・ソフィア大聖堂



ビザンティン世界ではイコノクラスム(聖像破壊運動)が終結した後、聖堂内が金地モザイクや紺地フレスコを背景にした図像で埋め尽くされるようになる。
『天使が描いた』は、843年に聖像画肯定で決着するが、その際の根拠は、まさにこの神であるキリストの受肉であった。
すなわち神であるキリストがこの世に生まれ、卑しい肉体を身につけたゆえに、肉体および物質は聖化された。物質は聖なるものを表現できる。
つまり物質である聖像画ひいては芸術一般がこれで可能になったのであるという。

その最初がコンスタンティノープル、アギア・ソフィア大聖堂の後陣に浮かぶ聖母子像だったとされている。

『天使が描いた』は、867年3月29日、コンスタンティノープルの総主教フォーティオスは、ハギア・ソフィア大聖堂のイコノクラスム終結後最初に復興されたイコンのまえで説教を行った。
「聖母は、全人類の救済のために生まれた造物主をその無垢な両手に抱く」
このときフォーティオスが言及しているのが、この聖母子のモザイクであると考えられているというが、
力強い写実とほとんど肉感的なまでの表現(表情、特に幼子キリストと大天使を見よ!)は10世紀末のモザイクには見られない。これはイコノクラスム以前にさかのぼる要素である。最近、カナダのビザンティン美術史家イコノミデス教授は、 ・・略・・ このモザイクはイコノクラスムの中断期すなわち800年前後の作で、フォーティオスの時代には塗り込められて隠蔽されていたとの新説を提出したが、様式的な整合性を考えるとありえないことではないともいっている。
同書はイコノクラスムの期間はモザイク制作が行われなかったため、技法が衰退していたので、終了後の作品は稚拙さや粗さが目立つという見解をとっている。以下の引用文でもところどころそのような観点からの記述がある。
その頃の作品については、こちらこちら

細かな金箔テッセラを緻密に並べ、その中にまるでモデルがいたかのように現実味のあるマリアの顔が描かれている。やや右前方に向く目は、いったい何を見ているのだろう。
一番近くから聖母子像が見えるのは北階上廊の後陣寄りだが、そこから見上げてもなお、聖母マリアも幼子キリストもずっと右の方を見つめていた。
それについてはこちら
台からはみ出しそうな左足先といい、聖像画というよりも実在感にあふれた肖像画に近い。

『世界歴史の旅ビザンティン』は、9世紀、10世紀の聖堂壁画は、それほど残っていない。しかしイコノクラスムという美術制作の中断を経ても、ビザンティンのモザイク技術が衰えることのなかったのは、アギア・ソフィア大聖堂のアプシスを飾る「聖母子」を見ればわかるという。
これは『天使が描いた』の説に反するものだ。

また『イスタンブールの大聖堂』は、この説は、私にはちょっとトリッキーすぎるし非現実的なように思われる。私は、定説のように、アプシス・モザイクはフォーティオスの説教の直前に完成したと考えているという。 
いずれどちらかの説に落ち着くだろうが、今のところはこの聖母子像は9世紀後半につくられたものとしておく。

確かに金地や衣服に使用されたテッセラよりもずっと小さなテッセラで、陰をつくり、隈取りして立体感を表現している。顎や頬のバラ色だけでも何色か使っている。
イコノクラスムの嵐からはずれた土地で、コンスタンティノープルのモザイク職人たちが壁画を作り続けてきたからこその技術の高さだろう。

金地に途切れがないため、聖母子像と同じ時に制作されたとされる大天使ガブリエル像。
一見左右対称に翼を広げて立っているようだが、オシオス・ルカス修道院主聖堂の左右対称で平面的なオシオス・ルカスの肖像画に比べると、マケドニア朝の自然主義というのがよく伝わってくる。

その顔は聖母とよく似ていて、もっと細面で眉が上がっている。
何時頃からの記憶かもう定かではないが、天使ではなく、大天使というのはおっさんの天使だと思い込んでいた私にとって、この大天使ガブリエルは若い。
実際にみたことはないのだが、天使の羽根も本物っぽい。暈繝の帯による立体感ではなく、濃淡のあるテッセラを自由に使うことによって、それぞれの羽根の先が表現されている。
左手に載せているのは球だと思っていたが、親指が透けている。偏平な円形のガラスだったのかも。
そしてこの衣文。鉤形で終わる衣というのは実際にはないだろうが、それが不自然に見えないほど膨らみがうまく表現されている。ただ、刺繍あるいは織りで表された蔓草文の裾文様が、真っ平らなのが気になる。その上部の青い衣は縦に幾筋も襞があるというのに。

アプシスのモザイクから半世紀ほど後のもの

皇帝アレクサンドロス 北ギャラリー(階上廊) 912-913年
照明のない狭いアーチの間にあったので、これが写せる限界だった。皇帝が立つ地面が緑のグラデーション(暈繝)になっているのがわかる程度。
こんな時に図版は文字通りの救世主。

『天使が描いた』は、これは42歳もしくは43歳で亡くなった皇帝のおそらく晩年の肖像画で、在位中に制作されたものと考えられる。これを見ると人物表現は技法上安定し、モザイク細工も整い、洗練されている。写本挿絵にも同様の傾向があるという。
右手に巻物を持ち、左手にガブリエルと同じような丸く、親指が透けるものを持っている。
貴石や真珠?などを貼り付けた外衣を被っているので衣装の表現が平板に見えるが、その内側の服には襞が表されている。
一列の黒い線で表された眉と目、鼻、そして口だが、遠くから見ると、皇帝としての威厳よりも、これから何かを成し遂げようとする決意を感じさせる顔だが、在位は短かった。
没年近くに制作されたことを考えると、儚い雰囲気も漂っているようにも思える。
こんな風にいろいろに見えるのが、黒い線の付近にちりばめられた薄い隈取りのテッセラのためだろう。
左手に持つ円形の透明ガラス板を通して親指が透けているのを表現しようとしているが、後陣の大天使ガブリエルの表現の方が優れているとしか言えない。

『世界歴史の旅ビザンティン』は、バシリオス1世に始まるマケドニア朝の諸帝の時代(867-1056年)、ビザンティン帝国はふたたび勢力をとり戻し、古代の学芸を奨励して、ギリシア・ローマ風の自然主義的表現を再興した。首都の聖堂壁画はほとんど残っておらず、カッパドキアなどの辺境の美術から、それをうかがい知るのみである。マンツィケルトの戦い(1071年)でセルジュク朝トルコに敗れ、小アジアの大部分を失って、ビザンティン帝国の国力は著しく低下した。歴史家はこれをビザンティン史の重大なターニング・ポイントと考えるが、美術の歴史は必ずしも体制の歴史と並行現象とはならない。11世紀から12世紀まで、多くの聖堂がつくられ、無数の写本に挿絵が描かれ、イコンが制作された。ギリシアに残るモザイク壁画をもつ3つの修道院(オシオス・ルカス、キオス島ネア・モニ、ダフニ)が建立されたのもこの時期である。しかし11世紀末のダフニを最後にして、ビザンティンのお家芸であるモザイクの現存作例は、しばらくビザンティン領内から姿を消して、ヴェネツィア、シチリア、キエフなど新興諸国でのビザンティン・モザイク職人の活動が目につくようになるという。

10世紀末とされるモザイク画

聖母子とコンスタンティヌス帝とユスティニアヌス帝 南玄関上部
『天使が描いた』は、9世紀のモザイクとのデッサン力の差はあきらかであり、しかも洗練された人物の表情はさまざまな感情移入を可能にするという。 
人物表現についての記述にはそれぞれの好みも入っているが、後陣の聖母子像のマリアは可憐過ぎるのも確かだ。ニュートラルという観点からはこちらの方が各自多様な印象を持てるだろう。
しかしながら、顔よりも大きなテッセラで表される着衣の表現についてはよくわからない。両腕に襞の膨らみが見られるくらいにしか。
クッションに暈繝とおぼしき色のグラデーションが見られ、コンスタンティヌス帝が聖母に奉献するコンスタンティノープルの街を表した建物にも暈繝で立体感が出ている。

11世紀のモザイク画

キリストに寄進するコンスタンティノス9世モノマコスと皇妃ゾイ 南階上廊 数度の改変を経て1055年までに完成
『天使が描いた』は、ビザンティン史を通じて最大のモザイク制作のパトロンであった同皇帝の肖像を含む奉納モザイクパネル画が残る。しかしこのモザイクパネルは、皇帝とその妻ゾイおよびキリストの顔とともにつくり替えられており、美術史上多くの問題を抱えているという。

『ビザンティン美術への旅』は、首都コンスタンティノープルに残る中期ビザンティンの数少ない基準作例。
皇帝の在位期間によって、制作年代が1042-50年の間と確定できる。
宝石で豪華に飾られた皇帝の服を表現するのに、モザイクという技法は相応しかったという。
皇帝・皇后の衣装は貴石や真珠がびっしりと付けられているが、そのために襞がなく、のっぺりとした平面的な表現になってしまっている。玉座のクッションは暈繝で膨らみが表わされ、三者の手には照り隈の白っぽいテッセラが並び、皇帝が献上するお金?の袋も同様のテッセラが見られる。
また、皇帝の外衣の切れ目から僅かに内着がのぞいているが、そこには数本の暈繝の帯が見られる。
確かにキリストも頭部が改変されているのが周囲のモザイクの並びでわかる。
皇帝の服装は実際にこんな皴ができるのかと思うような不思議さはある。
古代のモザイクなどの暈繝は、輪郭線に近い方が濃く、離れるほど薄くなっていたが、ここではその逆で、衣文と衣文の間に濃い色のテッセラが使われている。
どうも色の濃い部分は襞の奥を表しているらしい。それは皇帝・皇后の貴石を鏤めた皴のないのっぺりとした衣装とは対照的だ。これは暈繝の新しい使い方かも。
このようにマケドニア朝の自然主義というものを、モザイク壁画の制作年代順に見てきた。
初期の頃には暈繝はさほど目立たないが、11世紀になるとふんだんに使用され、特に照り隈が顕著となってきた。
この首都の当時の最高水準でつくられたものと比べると、オシオス・ルカス修道院主聖堂修道院主聖堂のモザイク画が地方作であることは否めない。


オシオス・ルカス修道院主聖堂のモザイクに暈繝
             →マケドニア朝期のモザイク壁画2 ギリシアの3つの修道院聖堂

関連項目
オシオス・ルカス修道院4 パナギア聖堂
オシオス・ルカス修道院3 主聖堂(カトリコン)2 身廊
アギア・ソフィア大聖堂のモザイク5 聖母マリアの顔さまざま
アギア・ソフィア大聖堂のモザイク4 後陣10聖母子像の制作年代
アヤソフィア7 北階上廊へ
アヤソフィア8 北階上廊から聖母子像が見えるのは
アヤソフィア10 南階上廊1 2組の皇帝・皇妃のモザイク

※参考文献
「世界歴史の旅 ビザンティン」 益田朋幸 2004年 山川出版社
「地中海紀行 ビザンティンで行こう!」 益田朋幸 1997年 東京書籍
「THE MONASTERY OF HOSIOS LOUKAS IN BOEOTIA」 HIERONYMOS LIAPIS 2005年 ATHENS 「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世2」 1993年 講談社
「NHK日曜美術館名画への旅3 天使が描いた 中世Ⅱ」 1993年 講談社
「イスタンブールの大聖堂 モザイク画が語るビザンティン帝国」 浅野和生 2003年 中央公論新社
「ビザンティン美術への旅」 赤松章・益田朋幸 1995年 平凡社