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2014/06/10

卍文・卍繋文はどのように日本に伝わったのだろう



辿ることのできた卍繋文の最古のものは、アテネ、アクロポリスの丘から発見されたものだったが、二段に文様が展開していることから、卍繋文はそれ以前からあっただろう。

アクロポリスのコレー682 盛期アルカイック時代、前525年 高さ1.82m アテネ、アクロポリス美術館蔵

その後、ギリシアでは陶器、神殿などの軒飾り、舗床モザイクなどに、文様帯として使われていった。
最初期の卍繋文には、勝手にサイコロ文と呼んでいる正方形が、卍と交互に配されている。正方形の中に文様があるもの、何もないものなどがあるが、この卍繋文は、後のキリスト教聖堂の文様帯にも用いられたりもする。
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卍だけの文様帯は、後期ヘレニズム時代の舗床モザイクで見た。

舗床モザイク 海馬とニンフの間 後期ヘレニズム時代 コス島 ロドス島ヨハネ騎士団長の館蔵

ギリシア旅行で出会った卍繋文についてはこちら

その後ヘレニズム時代には各地で卍繋文が見られ、ローマ時代にも卍繋文は見られる。シルクロードの要衝の地にも文様帯として残っている。

卍繋文 ユピテル神殿本殿側廊の長押上部断片 レバノン、バールベック遺跡 後1世紀
卍だけの繋ぎ文が軒飾りにある。その上に、ライオンの樋口を挟んで並んでいるのは、もはやアンテミオン(ロータスとパルメットが交互に配された文様帯)ではなく、アカンサスだ。

卍繋文 ベール神殿天井装飾 シリア、パルミラ 2世紀
時代は下がっても、サイコロ文と卍文が交互に配された、しかも3段にわたって展開する卍繋文だった。

このような卍繋文や単独の卍文は、日本にはどのように伝わっていったのだろう。
卍繋文の消息はここで途絶えてしまい、独立した卍文がシルクロードに出現した。

鞘金具 後1世紀 バクトリア、ティリヤ・テペ4号墓出土
『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、ティリヤ・テペの6基の墓はいずれも構造は簡単なものであるが、副葬品は大半が黄金製の優品であり、小さな墓とそぐわないように思われる。
出土品にはヘレニズム、パルチア、バクトリア、スキタイ、インド、中国、匈奴など、ユーラシア各地の文化の影響が見られる。1世紀のクシャン朝初期か大月氏の墓と見られる
という。

ティリヤ・テペは北アフガニスタン、アレクサンドロス大王が遠征したバクトラ(現バルフ)とアレクサンドリア・マルギアナ(現メルヴ)の中程に位置している。

50歳くらいの男。金の飾金具を縫い付けた上衣とズボン、カメオのついた首飾り、金のベルト、踝飾金具などを付けていた。頭の下には黄金の盃、黄金の樹木と山羊の像等がおかれ、腰には右に剣、左には鉄剣を持っていた。鞘金具の装飾が見事であるという。
この卍がどこから伝播した文様なのだろう。 

その後、卍文は仏教美術にも用いられている。

卍文 仏足石 ガンダーラ、シクリ出土 2世紀頃 ラホール博物館蔵
『パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録』は、この仏足石(左足)は、指に卍(薬指のみ向きが異なる)、中央に千幅輪、かかとに三宝標と蓮弁文(略)を表し、現存するガンダーラの仏足石の中でも最大規模の大きさを誇る。仏足石は、仏像誕生以前、釈迦の存在を暗示する象徴物として用いられたが、仏像誕生以後も信仰を集め、ガンダーラでも遺品は多いという。

MIHO MUSEUM蔵の仏足石(2-3世紀)は、親指の先には三宝標を、他の指先には卍を刻んでいて(『MIHO MUSEUM南館図録』より)、どの指にはどの卍という規則はないらしい。

仏足石 3世紀 南インド、ナーガールジュナコンダ出土 石灰岩 高53㎝幅45㎝厚さ12㎝ ニューデリー国立博物館蔵
『インド・マトゥラー彫刻展図録』は、周囲には花文、動物文や唐草文のほか、三宝、魚、卍、双魚、果物など各種の吉祥文を配しているという。

指と土踏まずの間にある曲線的なカザグルマのようなものが卍らしい。
仏足石の周囲には、唐草文が取り巻いているが、卍繋文はない。

天井壁画 6-7世紀 キジル石窟第167窟
ラテルネンデッケ天井の四隅の三角形の面を飾る壁画に卍繋文があった。しかも、卍の間に白い花文が描かれ、現在ではその方が目立つ。
そして、縦横に卍が繋がっている。卍繋文としては完成度が高いので、この天井画以前にも卍繋文はあったのだろう。
勝手にサイコロ文と呼んでいる、卍繋文の間にある正方形の空間あるいは文様が、東へ伝播していく間に、あるいはこの地で丸い形となっていた。
『キジル大紀行』は、キジルの三角隅持ち送り天井は8例が報告されているが、いずれも磨崖の中央にあるソグド溝付近に集中して見られ、ある限られた時期に流行したものという。

何故ソグド溝と呼ばれているのか不明だが、ひょっとするとソグド人が将来した文様かも。

仏坐像 隋時代(581-618年) 甘粛省蘭州永靖炳霊寺第8窟西壁 塑造
『中国新疆壁画全集克孜爾2』は、胸部に墨で卍形が描かれており、内着は僧祇支、外衣は偏袒右肩の袈裟である。卍形は万字で、吉祥相三二相の一つという。
炳霊寺は古くから開鑿された石窟で、西秦時代の窟も残っているが、卍はこの仏像の胸に描かれたものだけだった。

菩薩衣文壁画 7世紀 新疆ウイグル自治区コータン出土 漆喰彩色 21.4X22.2 東京大学東洋文化研究所蔵
『仏教の来た道展図録』は、等身大の菩薩立像の左腰部を覆った裳(ドーティー)と、それを結んだ腰帯の部分の壁画断片。裳は赤茶色の地に白い細かな連珠による円形の文様を施している。連珠円文の内には、中心部にも小連珠円文をつくり、空隙には4つの卍文と小円文を交互に配する。腰帯は白色線で輪郭を描き起こすという。

連珠文の中に卍があった。

そして、日本では、

卍文 大仏蓮弁毛彫蓮華蔵世界図 天平勝宝4年(752) 東大寺中尊台座  
『日本の美術204飛鳥・奈良絵画』は、鋭い切れ味をもつ鐫線は力強い迫力と量感を見事に表現している。盛唐前期の唐朝絵画を如実に反映したものといえようという。
胸に卍が彫られている。探し出せなかったが、盛唐期(712-781年)の仏像にも卍文があるということになる。


日天 東寺旧蔵十二天図うち 太治2年(1127) 裳
正方形の区画の中に曲線の卍が入り込んでいて、独特の卍繋文だ。截金で表すのは困難な文様にもかかわらず、よく用いられる文様だ。

         単独卍文の最古は←       →ギリシア雷文 


関連項目
卍繋文の最古はアナトリアの青銅器時代
アルカイック期の衣文が仏像の衣文に
メアンダー文を遡る
卍繋文の最古は?
ローマ時代、色ガラスの舗床モザイクがあった
東寺旧蔵十二天図5 截金4卍繋文

※参考文献
「アフガニスタン 遺跡と秘宝 文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版
「パキスタン・ガンダーラ彫刻展図録」 2002年 NHK
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 2002年 NHK
「MIHO MUSEUM 南館図録」 1997年 MIHO MUSEUM
「仏教の来た道 シルクロード探検の旅展図録」 2012年 龍谷大学龍谷ミュージアム・読売新聞社
「日本の美術204 飛鳥・奈良絵画」百橋明穗編 1983年 至文堂 
「中国美術分類全集 中国新疆壁画全集克孜爾2」 1995年 新疆美術撮影出版社
「中国石窟 永靖炳霊寺」 甘粛省文物工作隊・炳霊寺文物保管所編 1989年 文物出版社
「シルクロード キジル大紀行」 宮地治他 2000年 NHK出版