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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/10/14

来迎図4 正面向来迎図



山越阿弥陀図の中には正面向きのものが多い。それについてはこちら
その中で、最も優美な作品が、禅林寺本である。

山越阿弥陀図 鎌倉時代前半 絹本著色 掛幅装 138.0X118.0㎝ 京都禅林寺(永観堂)蔵 重文
同書は、大海をバックに二つの山の鞍部から阿弥陀仏(転宝輪印)のみが上半身を現わし、観音(持蓮台)と勢至(合掌)の両菩薩はすでに山を越えて山腹の左右よりゆるやかに迫る。のみならずその前方にすでに動きを止めた一対の持幡童子と四天王が描かれる。その対称的構図の基本には蓮華三昧院阿弥陀三尊像に通ずる浄土変的図相がうかがえるという。
海を越えてやってきた阿弥陀仏は、山を越えてもうすぐ臨終者の許にやってきそうな臨場感がある。放射光はないものの、五色の糸が阿弥陀仏と往生者を直接結ぶ、臨終仏として描かれている。

平安時代より制作されてきた来迎図は斜め向きのものが多いが、中には正面向きのものもある。
斜め来迎図についてはこちら

『日本の美術273来迎図』は、源信が来迎図を発案して以後久しく来迎図の存在を伝える記録もなく、実勢を窺うに足る材料はない。しかし大江匡房の願文集には、応徳3年(1086)9月に尼法念の発願した七七日間の逆修法会に、種々な阿弥陀関係の作善に混じって極楽迎接曼荼羅が供養され、承徳元年(1097)には匡房自ら亡母のために七七忌の本尊として迎接曼荼羅を図絵し供養を行うなど、臨終時に限らず各種修善の法会にもこれが用いられるようになる。来迎図は来迎像の流行とほぼ時を同じくして盛期を迎え、さまざまの図相のものが描かれるようになったものと推測される。
今日平安時代の来迎図として伝存する遺品は十指に満たないが、これを大別すると二つの系統に分けられる。その第一が阿弥陀仏を中心に諸菩薩がほぼ対称的に配され、来迎の全体が真正面に向かって飛来するもの。なお、同期の来迎図は聖衆すべてを坐像で表すところに特徴があるという。

阿弥陀聖衆来迎図 平安時代後期(12世紀) 左幅210.8X105.7㎝中央幅210.8X210.6㎝右幅211.2X106.0㎝ 高野山有志八幡講十八箇院蔵
同書は、もと比叡山別所横川安楽谷に伝来し、高野山に伝えられた。三幅が一連のつながりをもつ壮大な画面に溢れるように描かれた30余体の聖衆は何を意味するのだろうか。正面中央の阿弥陀仏とその前面左右の2菩薩で構成される三尊に加えて、やや背後に位する2比丘からなる五尊が、他の諸尊に比していかにも整然と位置し、結論から言えば、これが常行堂(とくに横川)の本尊阿弥陀五尊(観音・勢至・地蔵・竜樹の4菩薩をめぐらす)を写したと認められる。一方最後尾に位する三尊形-裏書の山越三尊化仏に当たる-を除外すると、残りは正しく25を数え、これらの供養や奏楽の菩薩は明らかに二十五菩薩を表すものと見られる。
本図の構成は、天台下の常行堂の阿弥陀五尊と、『往生要集』に引用される念仏者守護の二十五菩薩を巧みに組み合わせたものであり、天台浄土教の礼拝対象にふさわしい来迎図といえよう。
本図のような来迎図の形式や構成をみると、その背後に彫刻の来迎像の存在が彷彿されるが、その間に水波や山水を加えることにより理想と現実の共存をはかった作者の技倆が十分にうかがえるという。
観想系の来迎図である。
最後尾の山越三尊化仏というのは、左幅の幡を持ったり楽器を奏でる4菩薩の背後に小さく表された三尊のことだろう。まだ山越阿弥陀図というものが成立していない時代だと思うが、阿弥陀三尊は山を越えてやってくるという風に思われていたのだろうか。
同書は、中央に大きく阿弥陀如来、その手前左右に観音・勢至の両菩薩、中央の傍に地蔵・竜樹を加えて阿弥陀五尊という。
阿弥陀の脇侍、観音は斜め横向きで、蓮台を両手で支え、裙に隠れているが両足首を立てているし、勢至正面を向いて合掌しているが、右膝を立てて、すぐにも立ち上がりそうな気配がある。
また、2菩薩の蓮華座は子葉が宝相華文に表された蓮弁となっている。
彩色は白がかって、菩薩の裙や条帛、比丘の襟元などの赤い色が際立っている。
阿弥陀仏の体は何色というのだろう。ひょっとして金色?仏全体を金色に荘厳する皆金色は、鎌倉時代に入ってからだと思っていた。
『絵は語る3阿弥陀聖衆来迎図』は、中央に大きく描かれた阿弥陀仏ただ一体だけが体も衣裳も金色にあらわされている。一見宗教偶像なら何でもない表現に思えるが、実はほとけを絵に描くときに体も衣もすべて金色にあらわすことは日本では鎌倉時代以後にようやく一般的になったのである。現存する仏教絵画ではこの絵が最も早い例であるという。
着衣や光背には截金も見られる。光背の外側の幅のある金色のものは、阿弥陀仏の体よりも光り輝いている。蒔絵のように、金粉を暈かしながら周囲に貼り付けていったのだろうか。
着衣の截金は亀甲繋文・卍繋文・菱繋文、蓮華座の蓮弁の葉脈も截金が施されているが、体の輪郭などは朱線になっている。
また、蓮弁は両脇侍のものと同じように、子葉が宝相華文のように表された華麗なものだが、墨彩のため華やかさはない。

阿弥陀聖衆来迎図 平安-鎌倉時代(12世紀) 京都安楽寿院蔵
同書は、天台浄土教の注目すべき遺品に京都安楽寿院の阿弥陀聖衆来迎図がある。本図は前者に比してかなり小幅で、正面に向って来迎する阿弥陀仏を中心にその左右及び背後に重なり合うように15体の聖衆を配し、さらにその前衛に不動明王と毘沙門天を配するものである。
ところで本図の阿弥陀仏は来迎印を結ばず浄土変以来の古い伝統下にある転宝輪印をとる点に大きな特色があるといえよう。本図の如き来迎図が古典的な図相として比較的早い時期に完成した観想系の来迎図であることを推測させるという。
全員が一つの大きな雲に乗っている。阿弥陀仏は低い框付きの蓮台に坐しているように見える。
やはり観想系の来迎図だが、このような転宝輪印を結ぶ阿弥陀の表現から、正面向きの山越阿弥陀図ができたのではないかと思うような姿である。

阿弥陀来迎図 鎌倉時代前期(12世紀) 三重県西来寺蔵
『日本の美術273来迎図』同書は、正面来迎図の遺例、来迎印阿弥陀仏であり、典型的来迎本尊であろうが、何れにしても簡略化の進んだ念持仏的来迎図といえよう。阿弥陀は半跏、観音は片立膝と動勢を加えている。これに地蔵を加えたのは六道済度の教主を加え来迎の完璧を期したものであろう。すでに正面来迎図の本来的性格としての観想性が次第に希薄となり、末法の世に救済主として来迎する臨終本尊として性格が強く意識されつつあるように思われるという。
臨終仏というものが出現した。
正面向きの来迎図には珍しく、放射光が截金で表されている。
阿弥陀が半跏姿で来迎する場合、下ろした左足が小さな蓮台に乗っているものだが、ここでは蓮台にのせた右足の下にも小さな蓮台が描かれ、踏割蓮華としている。
臨終者の前に現れた時には阿弥陀仏は立ち上がることを想定したのだろうか。

阿弥陀三尊像 鎌倉時代初期(12世紀末) 高野山蓮華三昧院蔵 国宝
これが禅林寺本山越阿弥陀図に通じるとされる蓮華三昧院本。確かに阿弥陀三尊が左右対称に配置されている。
『国宝大事典1絵画』は、蓮池の上の虚空にとどまる阿弥陀三尊という表現は他に例がなく、また、雲に乗る阿弥陀如来は来迎の印ではなく転宝輪印(説法印)を結び、観音は蓮台を持たず両脇侍とも説法を聴く様に控えており、浄土図の中の阿弥陀三尊が雲に乗るのに似た構成も類例がない特異な作品である。本図を所蔵する高野山の蓮華三昧院は明遍(1142-1224)が創建した。明遍は高野山の浄土教における念仏聖の中心的存在であったが、その念仏思想は観想念仏により自力往生を目ざすものであったと推測される。本図は明遍が所持していたと伝え、さらに法然上人が本図を明遍に伝えたとの伝承もある。本図において三尊の着衣も肉身も淡い黄色に表わし、幽玄の趣きの背景の中に強く対比させたことは、本図が観想念仏の本尊として表現されたものであることを推測させる。三尊の姿が奈良時代の浄土図に見られる古様な形式を借りていること、三尊の着衣には文様を施さないこととは本尊画としての性格を重視した表現を意図したことを物語る。三尊を浮き立たせる背景の表現も優れており、画面下方に10数個見える蓮華の花と蕾とは暗い堂内にともる灯明に似て効果的であるという。
観想系の来迎図。
皆金色と思っていた三尊は黄色に着色されていたのだった。
金泥の線のみで描かれた来迎雲に乗り、左上より飛来したことを来迎雲の尾が示している。線に肥痩があることから、尾も截金ではなく金泥で表されたとみられる。
蓮弁や体の輪郭、着衣の衣文などは朱線で描かれている。阿弥陀仏の蓮台の框、光背の弧線、そして興福院本と同様に7方向に向かう放射光は截金で荘厳されている。
その下には水波も描かれない蓮池がある。何とも静かな情景である。明遍がこの図を前にして観想したのではなく、他の図を見ながら観想を続けた結果、脳裡に浮かび上がったのは、このように山岳風景も水波もない、虚空より飛来する阿弥陀陀三尊の姿だったのでは。そしてそれを描かせたのではないだろうか。
同書は、截金を用いた華麗な天蓋や宝台が藤原仏画の表現を伝えるが、全体的に重厚な彩色は鎌倉時代への転換を示唆する。鎌倉初期の復古的作風を示す貴重な作例であるという。
天蓋は垂飾などに截金がおかれ、この図にとって重要な荘厳物であることがわかる。
宝台にはもっと太い截金が使われているようで、寄木細工のような小さな面を、色を変えて構成している。
宝台の前に蓮華の上にやはり截金の施された八角の台がのる。台は朱漆だろうか、瓔珞をつけた一対の尾の長い鳥が左右に、もう1羽の鳥は天目のような円錐形の鉢を抱えるように後ろ向きになっている。鉢の口縁には2羽の鳥が足をかけ、蓮台を嘴で支えており、その上には3本の獣足のついた小さな香炉が乗っているらしい。
画面一番下には蓮華と共に葉も描かれていたことが、かろうじてわかる。

蓮華三昧院本を見ていると、法華堂根本曼荼羅図が思い浮かんだ。

法華堂根本曼荼羅図 麻布着色 縦107.1横143.5 奈良時代(8世紀) 1911年寄贈 ウィリアム・スタージス・ビゲローコレクション
『ボストン美術館所蔵日本絵画名品展図録』(1983年)は、裏書にもあるように、本図は平安時代の昔から「法華堂根本曼荼羅」と呼ばれ、当時既に東大寺法華堂の主要法会に用いられる画像として伝来したことが判明する。なお同裏書によれば本図の主題は釈迦如来の「霊山之変相」であり、画題として霊鷲山説法図と言うべきであるが、今は旧来の伝称名に従った。因みに裏書によれば、本図は久安4年(1148)珍海によって修補されたが、その頃にはすでに釈迦の台座以下にかなりの破損欠失があったものとみられるという。

天蓋の形が蓮華三昧院本のものとよく似ている。印相や蓮華座、そして細かいところで異なる点もあるが、静かな雰囲気のなか、三尊が蓮台に乗り、両脇侍が内側を向くなど、明遍の心には、法華堂の法要で見たこの三尊図が印象強く残っていたのではないかと思うくらいだ。


    平成知新館4・来迎図3 山越阿弥陀図(やまごしあみだず)

関連項目
平成知新館3・蓮華座13・来迎図2 斜め来迎図
平成知新館2・蓮華座12・来迎図1 興福院本阿弥陀聖衆来迎図

※参考文献
「日本の美術273 来迎図」 濱田隆 至文堂
「絵は語る3 阿弥陀聖衆来迎図 夢見る力」 須藤弘敏 1994年 平凡社
「日本絵画館3 平安Ⅱ」 1970年 講談社
「ボストン美術館 日本美術の至宝展図録」 2012年 NHK
「国宝大事典1 絵画」 1985年 講談社