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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/11/07

鶴林寺太子堂は変身していた


鶴林寺は加古川にある古刹である。
『鶴林寺叢書1鶴林寺太子堂とその美』は、奈良時代の法隆寺の財産目録では、加古郡に法隆寺の荘園があると記されている。
平安時代後期には、現在の境内に荘厳な寺院が建立されたことは確実である。現存する日本最古の太子堂(国宝、創建時は法華堂)や、これも日本最古の常行堂(重要文化財)が境内にあるが、この時期の建築物である。典型的な天台宗の伽藍配置であり、寺伝にあるように、仁寿2年(852)に慈覚大師円仁の力で、法相宗から天台宗の寺院へと移ったのであろうという。
鶴林寺は南門(大門)から入った正面に本堂(国宝、室町時代)があり、その両脇に左右対称に太子堂と常行堂が配置されている。
同書は、太子堂はもともと法華堂と呼ばれていた。法華堂と常行堂が対になって建てられるのは、9-10世紀の比叡山東塔・西塔・横川などにはじまり、比叡山以外の天台系寺院の堂宇配置にもまま見られるものである。鶴林寺は、法華堂・常行堂が対になる現存する建物が最も古い実例であるという。

中でも太子堂は檜皮葺の屋根を持つ姿の美しい建物で知られている。その特徴は、屋根が擬宝珠ののる宝形造(ほうぎょうづくり)なのに、礼堂(らいどう)に庇のついた変則的な形になっていることである。下画像屋根の左側(西面)の突き出た部分がそれ。通常の宝形造の場合は、四方が右側(南面)のように真っ直ぐになっている。
同書は、太子堂の外部は縁が廻らされているが、西面だけ板を壁面と平行に敷く榑縁(くれえん)という形式で、他は切目縁(きりめえん)である。礼堂の西と、本体の北面中央間の前に石階が設けられている。つまり板扉のある柱間に対応して階段が設けられているという。
久しぶりに見た太子堂は、思っていたよりもずっと小さな建物だった。
西側から見るとその特徴がよくわかる。
同書は、孫庇の部分は屋根が長く葺き下ろされる縋破風(すがるはふ)という形になっている。西面は桟唐戸(さんからど)をたてるという。
石段を上がったところに桟唐戸があるが、内部には入れない。
同書は、東西両端の角柱と本体の円柱は虹梁でつなぐという。
扉口(桟唐戸)上の白壁部分に平たい虹のような格好の梁があるが、それが虹梁(こうりょう)。

同書は、太子堂は、正面が三間、奥行が四間の、奥行の長い平面を持っているが、正面の柱列だけは角柱が用いられ、その他は円柱が用いられていることから、方三間の正方形の平面の本体部分の前に一間の孫庇がつけられたものとみることができる。
本体部の正面に引違格子戸が入って(現在では取り外されてしまっている)、幅一間の孫庇の部分とは仕切られており、床高も孫庇のほうが低い。仏像の安置される方三間の部分を内陣、孫庇の部分を礼堂(または外陣)と呼ぶ。このように仏堂の内部が区分されている形は、仏堂の規模を問わず、平安時代中期以降に一般的となる。
現在の太子堂で様式・技上最も古い部材は本体部の柱や組物であり、天永3年をその年代にあててよいという。
天永3年は1112年、太子堂は平安時代後期の創建だった。

南側
屋根の両側に小さな出っ張りが見えるが、それが孫庇の出る箇所。
同書は、礼堂の正面は三間とも蔀(しとみ)をつくる。礼堂は大きな面をとった角柱を長押でつなぎ、柱の上には舟肘木をのせて、桁を受けている。桁は両端で強い反り増しがあるという。
蔀戸を開いたときに留める器具が三箇所ついている。
長押に柱が隠れているせいか、舟肘木が直接乗っているような印象を受ける。
この写真で、桁の端に反り増しがあるのがよくわかる。

東側
同書は、東面は板壁で閉じているという。

礼堂内部
同書は、天井は化粧垂木を見せた化粧屋根裏であるという。
化粧屋根裏とは、天井板を張らず屋根の裏側が見える構造のもの。奈良の新薬師寺のものが分かり易いです。
内陣の須弥段には釈迦三尊像が安置され、今は煤で黒ずんでいる仏後壁に、九品来迎図が描かれていた。
来迎図については後日

東面と北面
北面
北面と西面
このように、檜皮葺の屋根の柔らかさと美しさを感じながら、一辺30m前後の小さな堂をゆっくりと一巡すると、やはり孫庇が少し見える姿が良い。
ところが、『鶴林寺叢書1』には、孫庇は建立当初にはなかったと以前から言われてきた。本体部東南隅と西南隅の柱には、隅叉首(すみさす、建物の隅で二方の縁を受ける横材)の埋木があり、本体部の正面に縁が廻っていた。これが孫庇を後からつけた確実な根拠であるという。本体部南面の組物や長押の風蝕の状況と孫庇の面の大きさから、天永建立後さほど時を経ずして孫庇がつけられたとみられると書かれていた。
創建当初の姿ではなかったのだった。

その上同書は、現状の屋根は檜皮葺であるが、本体部の下には厚さ5㎝以上の厚板が葺かれている(図8)。その板の端部には、削られているが立ち上がり部分が残っている。この凸部に蓋をするように、板の目地をふさぐ板があったはずで(図9)、板の上面は風雨にさらされているようである。つまり檜皮葺になる以前には厚板葺の屋根であった。おそらく当初から板葺であろう。大正7年に解体修理が行われて、今のような姿に復原された。その際に旧屋根板の裏面に書かれた墨書によって、天永3年(1112)に建てられ、少なくとも正中3年(1326)までは法華堂と呼ばれていたことがわかったという。
太子堂は最初に建立された時は、孫庇もない上に檜皮葺でもなかったのだ。今でも板葺の屋根だったら、ずいぶん印象が違っているだろう。

一方、常行堂は瓦屋根の建物である。

常行堂 平安時代(12世紀前半) 本尊:阿弥陀如来 重文
お寺の説明板は、この建物は、国宝太子堂とほぼ同時代の建立で、もとは太子堂と同じく桧皮葺であったものを1566年に瓦屋根に葺きかえたものである。
外観は比較的低くて、蔀戸や板扉を用い、簡素で上品な落ち着いた建物である。内部は、前方に参拝者が礼拝するスペースがとりこまれているが、これは太子堂の形式を一歩進めたものと言える。
このお堂では、「常行三昧」(じょうぎょうざんまい)という、口で阿弥陀仏を唱え、心に阿弥陀仏を思いながら、休むことなく何十日も歩き巡る厳しい修行が行われた。その遺構としては日本最古のものである。法華堂と常行堂一対として配置されるのは、円仁請来の天台浄土思想に起源をもつ。法華堂は現世の罪業を悔い改める法華殲法を修する場であり、常行堂は来世の往生を願って常行三昧を行う堂舎である。現世での懺悔は極楽往生の前提となり、法華殲法・常行三昧を併修することで、来世での往生が約束されることになる。このように、教義上、法華堂と常行堂は一対の建物なのであるという。
常行堂の方が創建時に檜皮葺だったのか。屋根も寄棟造で太子堂とは異なっている。

                             →来迎図5 鶴林寺太子堂仏後壁1

関連項目
来迎図6 鶴林寺太子堂仏後壁2

※参考文献
「鶴林寺叢書1 鶴林寺太子堂とその美」 刀田山鶴林寺編 2007年 法蔵館
「刀田山鶴林寺」 鶴林寺