お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/12/12

興福寺2 四天王像は入れ替わる



今回久しぶりに興福寺を訪れたのを機会に、同寺の仏像を調べていると、四天王像がたくさん残っていることがわかってきた。


今年はすでに特別拝観が終わった北円堂は、基壇の修復を行っているよう。次回の拝観は何年後だろう?

北円堂 鎌倉時代 本瓦葺
『興福寺』は、日本に現存する八角円堂のうち、最も美しいと賞賛されるこの堂は、興福寺創建者藤原不比等の一周忌にあたる養老5年(721)8月に元明・元正天皇が、長屋王に命じて立てさせた。治承4年(1180)の被災後、承元4年(1210)頃に再建された。華麗で力強く、鎌倉時代の建物であるにもかかわらず、奈良時代創建当初の姿をよく残し、三手先斗栱、軒は3軒、地垂木は六角の断面にする。内陣は天蓋が輝き、組物の小壁には笈形が彩色されるという。
『日本の美術391鬼瓦』は、この大小の鬼瓦の組み合わせが出現したのは12世紀末と考えられており、現存建物では承元4年(1210)年に再々建された興福寺北円堂が最も古いという。
扉右上の鬼瓦はこちら

四天王立像 平安、延暦10年(791) 木心乾漆 大安寺伝来 国宝
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、北円堂の八角須弥壇の四方の隅に立つ四天王像である。四天王のうちの増長天と多聞天の台座の框裏に墨書きがあり、四天王像がもと奈良の大安寺に伝来し、延暦10年(791)に制作されたことと、興福寺の経玄得業が鎌倉時代の弘安8年(1285)に修復したことがわかる。奈良時代終わりから平安時代はじめの時期の仏像は、制作時期の不明のものが多いが、その中で時期がわかる貴重な作例である。
粗彫りした木の上に厚く木屎漆(木屑と漆を混ぜたもの)を盛り上げて整形している。140㎝に満たない像であるが、下半身は安定しており持国天や多聞天では筋肉が隆々としている。広目天のみが少し口を開けて歯をのぞかせ他は閉じる。その中で、持国天の大きく見開いた目は瞳が飛び出さんばかりで、誇張的な表現がユーモラスな味わいを見せているという。
確かに下半身に比べると、上半身は小さく作られている。
また、本来は武器や宝塔を持っていたはずだが、全て失われている。

持国天立像 像高136.6㎝
この像は腕を交差して武器を持っていたようだ。大抵の持国天像は刀を持っているが、それが刀だとすると、自分の掌を切ってしまいそう。
増長天立像 像高136.6㎝
おそらく戟を両手で立てていたのだろう。
広目天立像 像高139.7㎝
比較的穏やかな表情の他の像と比べると忿怒がはっきりと現れている。
恐らく戟を振りかざしていたのだろう。
多聞天立像 像高134.7㎝
右手に乗っていた宝塔を見つめているようで、やや異国的な顔だちに仕上がっている。
邪鬼の画像はこちら


興福寺は現在中金堂再建の途中である。その中金堂にも四天王像が残っていた。

四天王立像 鎌倉、文治5年(1189) 康慶作 木造 南円堂旧蔵 中金堂 重文 

『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、一乗寺本の南円堂曼荼羅図などに描かれた四天王とポーズや細部の形式までも一致することから、本来南円堂に安置されていたことが判明した。南円堂の諸像は康慶工房が文治4年から翌5年にかけて造営したが、四天王像については「南円堂御本尊以下御修理先例」という記録から、工房内の実眼が担当したことがわかる。ゆったりとした構えや、にぎやかな兜のかたち、やや重々しい体の表現などは、たとえば、治承2年(1178)の東大寺持国天像など、12世紀後半の奈良仏師の作例とよく似ている。しかし、量感のある堂々とした姿は迫力がみなぎっており新時代の感覚が十分にうかがえる。また、彩色も制作当初のものがよく残ることも貴重である。なお、瞳に玉を嵌める手法は南円堂の本尊・不空羂索観音像とも共通するという。
康慶は運慶の父。

持国天立像 像高204.0㎝
左手に剣、右手に宝珠を持つ。東金堂の持国天像と同じ侍物だが、姿勢が異なる。
増長天立像 像高202.2
左手に剣、右手に戟を持つ。
広目天立像 像高204.5
左手に戟、右手に羂索を持つ。
多聞天立像 像高198.0
左手に戟、右手に多宝塔を持つ。戟からさがる房は何を表しているのだろう。
邪鬼の画像はこちら

南円堂
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、南円堂は八角形をした堂で、平城遷都とともに始まる興福寺造営の最後に建てられた。願主は藤原冬嗣(775-826)で弘仁4年(813)に完成する。
現在の建物は享保2年(1717)の火災後に復興されたもので、寛政元年(1789)の完成まで約50年かかっている。再建にあたっては同じ八角円堂である北円堂が参照されたという。
再建中の中金堂とその回廊越しに南円堂を遠望。

四天王像 木造 鎌倉時代(12-13世紀) 東金堂または北円堂旧蔵 国宝
同書は、南円堂の四天王像は、これまで康慶一門による文治5年(1189)の復興像と考えられていた。しかし、近年の図像的な研究により、いま仮金堂に安置の四天王像こそが本来の南円堂のものであることが確実となった。
仮金堂の四天王像に比べるとスケール感、洗練度、運動感の豊かさなど、いずれをとっても数段の飛躍があり熟達した仏師の作であることは確実である。南円堂の像でないならもとはどこの堂にあったのか。四天王が安置されたのは東金堂、北円堂などがあげられる。東金堂ならば定慶工房の可能性が高く、北円堂ならば運慶工房の作となる。どこの堂にふさわしいか結論を得るには時間が必要である。ただ、四天王像の木材はカツラであり、運慶の北円堂の像もカツラ材であることが一致しており注目されるという。
もはや四天王は邪鬼を踏んでいない。

持国天 像高206.6㎝
右手で刀を握り、その先を左手で押さえている。

増長天 像高197.5㎝
左手で三叉戟を支え、右手は腰に回った長い布(これも天衣と呼ぶのかな)を掴んでいるのか、握り拳を腰に当てているだけなのか。

広目天 像高200.0㎝
左手で三叉戟を立て、右手は拳を握っているだけなのか、何か武器を持っていたが失われたのか。

多聞天 像高197.2㎝
左手で高く掲げた宝塔を見つめ、右手は三叉戟を立てずに、持っている。

北円堂、中金堂、南円堂と四天王像を時代を追って見てきたが、どの堂内にも創建あるいは鎌倉再建当初の像はなく、別の堂から持ち込まれたものばかりで、興福寺の度重なる戦火や火災の後の混乱状況を垣間見るようだった。

   興福寺1 東金堂の仏像群←  →興福寺3 国宝館の板彫十二神将立像          


関連項目
三十三間堂2 雷神のギザギザ眉の起源
興福寺4 五重塔と三重塔
唐招提寺の四天王像
東大寺戒壇堂の四天王像

※参考文献
「もっと知りたい興福寺の仏たち」 金子啓明 2009年 株式会社東京美術
「興福寺」 興福寺発行