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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/12/30

定窯白磁の覆輪と覆焼



定窯の白磁には、口縁部に金属の輪が付いたものがあり、覆輪と呼ばれている。

刻花蓮花文洗 北宋時代(11-12世紀) 定窯 高さ12.1径24.5㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
『蓮展図録』は、定窯は宋代五大名窯のひとつとして知られ、中国の白磁を代表する窯です。光が透けて見えるほど薄くつくられた器の内外には、片切彫りや櫛掻きによって繊細流麗に表された蓮花文が見られます。定窯特有の牙白色(アイボリー・ホワイト)の釉肌にほのかに浮かび上がった上品な蓮の姿は、「花の君子」たるイメージを見事に具現していますという。
覆輪は口縁部の頂部を一巡している。
口を下にして伏せ焼きをする時、焼成中に釉薬が熔けて、器体と下のものとがくっつかないように、縁の釉薬を拭き取っておくので、焼き上がると口禿といって釉薬のない口縁となる。口縁部のカバーに覆輪を取りつけたのだと聞いていた。

『定窯展図録』は、覆輪とは、茶碗や器皿の口縁部に被せられる金属製のカバーのことを指す日本での呼称である。
陶磁器に見られる初期の金銀覆輪工芸は呉越国の貢陶を目的とした中で生まれたものであり、呉越国内では陶磁器の金銀装飾をかなり組織的に行っていたものと考えられ、その技術は宋朝において相当珍重されていた可能性が高い。その影響を受けてか、宋朝でも宮廷容器の覆輪製作が、太平興国3年(978)に設置された文思院の管轄下の42ある工房の一つ「稜作」で行われていたことがすでに指摘されている。
定窯における覆焼のための口縁部の釉剥ぎ、いわゆる「芒」あるいは「芒口」の出現以前に覆輪は口縁部の釉剥ぎの有無に関わらず存在しているという。
口縁部の釉剥ぎを隠すためではなく、装飾のために金属の覆輪を付けたのが始まりだったのだ。

白磁「官」字銘水注 唐、天復元年(901) 臨安水丘氏墓出土 臨安市文物館蔵
同書は、水丘氏墓の白磁に見られる覆輪は口縁部のみならず、高台にも見られ、また水注などでは蓋の摘みや注口などにも鍍金銀装飾が見られる。陶磁器を金銀で装飾するということがその実用的用途以上に一つのステータスであったことをうかがわせる。逆にいえば、陶磁器における口縁部の覆輪はこうした陶磁器の金銀装飾の中から生まれたことを物語っているといえよう。
さらに、水丘氏墓などの出土の金銀覆輪の陶磁器の造形が当時の金銀器皿と基本的に同じであることから、金銀覆輪器が貴重な金銀器皿の効能を代替するものであったとの見方もある。そうした銀覆輪の陶磁器が金銀器に準じる格式のものとして用いられた可能性が高いという。
単なる陶磁器の装飾ではなく、陶磁器を準金属器に格上げするために行われたらしい。

白磁刻花蓮弁文長頸瓶 北宋(10世紀後半) 定窯 通高19.3口径6.0㎝ 河北省定州市浄衆院舎利塔塔基地宮出土 定州市博物館蔵
『世界美術大全集東洋編5』は、口には銀製の荷葉形の蓋がつき、高台にも銀製の覆輪がめぐっているという。
荷葉とは蓮の葉のことだが、つくりを見ると、茎から出た葉、つまり葉の裏側を表しているのだろうか。高台の方にもなにか文様が表されているらしい。実物を見てみたいものだ。

『定窯展図録』は、北京や台湾の故宮博物院、そして日本の美術館などに所蔵される定窯白磁(主として宋から金代のもの)にも銀や銅などの覆輪が付けられたものが多く見られるが、その形状は宋代の紀年墓出土の作例に見られるような幅広で、薄いものとは大きく異なっており、オリジナルのものとは考えられない。清朝内務府の宮廷文書には乾隆や雍正年間に汝窯青磁に覆輪を付けさせた記録がいくつか見られ、現存する北京や台湾の故宮博物院所蔵の汝窯青磁などの覆輪とこれら定窯白磁の覆輪は共通点が多いことから、伝世の定窯白磁の覆輪の多くは清朝のものである可能性が高いという。
記憶にある定窯白磁の覆輪は、確かに面的ではなく、線的だった。それを当然当時の人々のしたことだと思っていたのに、清朝のものとは!清朝の雍正帝や乾隆帝は、陶磁器口縁部の「芒」をカバーするために、金属の覆輪を付けさせ、それを日本人が真似したのかも。
では、天目茶碗の薄い覆輪はどうなのだろう。
九州国立博物館蔵の油滴天目茶碗(南宋、12-13世紀)の画像はこちら

白磁印花蓮池鴛鴦文碗 南宋、慶元5年(1199) 南京市墓出土 南京博物院蔵
これまで目にしてきた陶磁器の覆輪に比べ、かなり幅が広く、違和感を覚えるが、これが当時の金銀装飾のオリジナル。

では、なぜ「芒」のできる覆焼という焼き方を行ったのだろう。

同書は、覆焼とは伏せ焼きのことで、つまり碗や盤、鉢などの製品を上下逆さにして焼成する装焼(窯詰め)方法の一つであり、製品をより薄く軽くするということや、重ね焼きによる量産を図る工夫の中で生み出されたものといえるという。
確かに、伏せて焼くと、焼成中に上の重みでへたるのを防ぐために下部を厚くしておく必要もなくなり、薄造りできる。
一方で、口縁部が支圏などの窯詰め用道具と接着することを防ぐため、口縁部分はあらかじめ釉を拭き取って無釉としている。それが葉寘『坦齋筆衡』などの文献に見られる「芒」(日本では口禿とも呼ばれる)であり、覆焼の欠点として認識されている。もちろん、実際には、前述の金属製の覆輪を施すことにより、芒の外見上の難点はカバーすることができる。すでに見たように、覆輪自体は覆焼による芒の出現以前から存在しており、芒のために考案されたものではなく、むしろ覆輪という陶磁器の付加価値を増す方法があったが故に、芒という欠点を承知の上で(あるいは気にすることなく)覆焼方法を採用できたのであろうという。

白磁刻花魚波涛文碗 金(1115-1234)後期 高さ17.1㎝底径6.1㎝ 定窯窯址澗磁嶺A区出土 河北省文物研究所蔵
同書は、重ね焼きされた白磁刻花魚波涛文碗が、変形して窯道具と熔着した状態で出土したものです。碗は1点1点、環形(リング)状の支圏に伏せた形で置き、それを重ねていく、覆焼き(伏せ焼き)による重ね焼きです。釉色は酸化焼成により黄味がかったやや灰色を帯びた発色を見せており、大小の火ぶくれが多数生じています。大量生産用の製品のためか、文様の彫りも簡略化されていますという。
下半部右側に付着している窯道具は、環形支圏と呼ばれるものである。

環形支圏 金(1115-1234) 高さ1.9㎝口径15.4㎝底径12.5㎝ 定窯窯址出土 河北省文物研究所蔵
同書は、環状を呈した重ね焼きのための窯道具です。焼成の収縮率を同じにするため製品同様の磁土を用いてつくられており、削り痕は極めてシャープです。碗形や盤形の支圏に続いて登場したもので、いずれも基本的には製品を伏せて焼く、覆焼(伏せ焼き)の重ね焼きの際に用いられます。その断面がL字状を呈しており、碗などの口縁部をそのL字の突起に引っかけ置いて、積みあげていきます。そのため口縁部はあらかじめ釉がふきとられ、「芒口」と呼ばれる口禿が生じることになりますという。
定窯の白磁は、近年まで見る機会が少なかったので、一点物の高級品だとばかり思っていた。
実際には、量産され、民も使用することができる器だった。しかも、窯道具にまで作品と同じ胎土を用いることができるほど、良質の土に恵まれていたからこその覆焼だったとも言えるだろう。

「盤形支圏覆焼法」模式図1
同書は、底部を含めた全面に施された満釉で、口縁部のみ拭き取られて露胎となっていることから、覆焼(伏せ焼き)であることがわかりますという。
碗形支圏に相似形のものを3点入れ子状に伏せ、その上に同じ大きさの盤5点をそれぞれ環形支圏にのせ、さらに匣鉢に入れて焼成した。
浅鉢等もこのような詰め方をしただろう。

「盤形支圏覆焼法」模式図2
鉢や盤などは、盤形支圏に小さいものから入れ子にして数点を伏せて、匣鉢に入れた。

筒形匣鉢 金(1115-1234)後期 定窯窯址、澗磁嶺A区出土 高さ19.0口径20.0底径20.0㎝ 河北省文物研究所蔵
同書は、轆轤で円筒形に成形した筒形の匣鉢です。耐火土でつくられていますが、胎土の質は粗く、夾雑物も見られ、厚くずっしりと重みがあります。各種支圏を用いた重ね焼きで用いられる筒形匣鉢は、通常底部を抜いて盤状や碗状の厚めの支圏を上下逆にして置くとされています。しかし、この筒形匣鉢は底部が抜かれていないことから、「叠焼法」と呼ばれる重ね焼きに用いられたものかもしれませんという。
叠焼法模式図
同書は、碗の見込みをリング状に釉を拭き取って(蛇の目釉剥ぎ)、その上に製品を直接重ねて置いていく「叠焼法」と呼ばれる重ね焼きという。
この焼き方の方が「芒口」にならずに済むが、見込みに釉のない箇所ができるので、より安価な作品の大量生産のための工夫だったのだろう。

漏斗形匣鉢 北宋(960-1127)中期 定窯窯址、澗磁嶺B区出土 高さ11.6(碗6.8)口径27.5(碗22.1)底径8.2(碗6.5)㎝ 
同書は、漏斗の形状の匣鉢で、V字形匣鉢とも呼ばれます。匣鉢の底部、V字の先端は平らになっています。こうした匣鉢は定窯では晩唐から使用されはじめ、とくに宮廷献上用を含む高品質の白磁製品の焼成に用いられ、邢窯からの影響であることが指摘されています。これは匣鉢とその下にあった匣鉢内の白磁碗が付着した状態のものです。匣鉢と匣鉢の間には粘土が付着していることから、密封性を高めるためさらに粘土が塗られていたことが分かりますという。
叠焼法とは対照的な高級品の焼き方。
「漏斗状匣鉢正焼法」模式図
同書は、匣鉢1点に製品1点だけを正位置で入れ、(中国では「正焼」)、窯内に匣鉢を積み重ねていきます。匣鉢の内部には砂粒が付着しており、製品の下に砂を敷いていたことが分かります。匣鉢の使用により窯内で炎が直接製品にあたったり、煙や降灰などが製品に付着するのを防ぐとともに、ムラのない加熱や密閉による還元焼成などにより美しい白磁の焼成が可能となりますという。
還元焼成だと、初期の白磁のようよに青みがかった白になって、牙白色にはならないのでは。 

同書は、筆者は2009年に定窯窯址の発掘現場を訪れた際、金代の地層や窯址の周辺には無数の環形支圏などが廃棄されている光景を目にし、覆焼と支圏による重ね焼きによって膨大な製品が生産されていたことがうかがえた。いずれも製品と同じ良質の磁土が用いられたものであり、収縮率の関係で一回限りの使い捨てであり、そのコストだけでも相当なものと想像された。定窯の覆焼技法は澗磁嶺地区窯址においては北宋中期(真宗天禧元年(1017)から神宗の元豊8年(1085))であることが最新の発掘で明らかになっており、同時に印花装飾用の陶範(陶笵、陶型、印模)もこの時期の地層から出土していることが報告されていることから、覆焼の重ね焼きと印花施文による量産への志向がこの時期すでに生まれ、後の金代における大流行への基礎となったものと考えられるという。

定窯の主要な窯の一つがあった、現曲陽県澗磁村の物原、1941年当時(小山富士夫氏撮影)。
会場にパネルで展示されていたが、定窯の白磁他の作品の不良品や窯道具などの捨て場(物原という)が、このような山になるほど、長年にわたり、大量に焼かれていたことを物語っている。 

印花の作品と陶範

白磁印花唐草文如意頭形枕 北宋晩期 定窯窯址、澗磁嶺B区出土 高さ3.3幅28.9X27.6厚さ0.6㎝ 河北省文物研究所蔵
同書は、如意頭形枕の頭をのせる枕面の部分で、印花による唐草文で隙間なく埋め尽くされていますという。
解説を読む前にこの作品を、なんと細い線刻でゆったりと渦巻く唐草文を描いていったのだろうと見ていたのだが、印花と知り驚いた。
別の場所に下図の枕陶範が展示されていた。比較するために陶枕まで戻って、再度凝視したのだが、それでも印花とは思えなかった。目の老化が進んだのか。いや、それほど見事な出来だったのだ。
1127年北宋は金に滅ぼされ、南遷して南宋と呼ばれる時代に入る。その直前に作られた何とも優美な枕。
唐草文枕陶範 金代前期 定窯窯址、澗磁嶺A区出土 厚さ2.4幅21.2X16.4㎝ 河北省文物研究所蔵
同書は、枕面には渦巻き状の唐草文がびっしりと施されています。文様の彫りは比較的浅く、緻密です。胎土はやや白く、表面はなめらかで緻密です。厚みは最大約2.5㎝で、裏面には指紋痕が見られます。こうした陶範は文様面が摩滅するまで繰り返し使用することが可能でした。また、単に大量生産のためのみならず、製品の規格化を高めるという利点もあり、磁器生産の重要な道具でしたという。
これ自体が作品といっても良いくらいの流麗な線のつながり。そして、葉の一枚一枚に力強さがあって、やはり上図の陶枕とは別物のように見える。 

今回の特別展は、2009-2010年に発掘調査され、物原の山のような破片の中から1片1片より分けられ、作品の元の形がわかる程度に復元されたもので構成されていた。従って完器はなく、地味な展観だったが、私にとっては、燃料が薪から石炭に代わって、還元焼成から酸化焼成になり、それが『契丹展』で見てショックを受けた青みがかった白の定窯の白磁から、牙白色の定窯の白磁に変化したことを知ることのできた、貴重な展覧会だった。

    定窯の白磁で蓮華文を探す

関連項目
唐三彩から青花へ

※参考サイト
e国宝の重要文化財油滴天目茶碗

※参考文献
「定窯展図録」 大阪市立東洋陶磁美術館編 2013年 株式会社アサヒワールド(尚、同展図録は解説文が非常に長いため、本文をかなり省略して引用しました)
「世界美術大全集東洋編5 五代・北宋・遼・西夏」 1998年 小学館