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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2014/12/05

東大寺戒壇堂の四天王像



東大寺戒壇堂には10年ほど前に来たことがあるが、その時はレンタサイクルだったので、この階段は登っていない。右の方へ坂道を登って回り込んだ。
段差は小さいので、お寺の石段としては登り易いし、何より短い。

屋根の両端に獅子のいる山門をくぐる。
『古寺をゆく5東大寺』は四脚門という。新薬師寺の四脚門(鎌倉中期以降)と比べると屋根の勾配が少ない。
戒壇堂は目の前にあり、左側の建物が邪魔で、全体が写せない。
同書は、戒壇堂は本瓦葺きで、正面に広い向拝が付いているという。
向拝は数段ある石段まで迫り出して掛けられた屋根のことやね。

すっきりとした組物だし、屋根の反りも少ない。それにしても、火頭窓もあり、禅寺のような、みょうな建物である。
戒壇堂のリーフレットは、天平勝宝6年(754)当時中国における戒律の第一人者唐の僧鑑真が来朝し、大仏殿の前に戒壇を築き、聖武上皇・光明皇太后・孝謙天皇をはじめ、440余人に戒を授け、翌年の9月に戒壇院が建立された。創立当初は金堂、講堂、軒廊、廻廊、僧坊、北築地、鳥居、脇戸等があったという(東大寺要録)。そののち、治承4年(1180)、文安3年(1446)、永禄10年(1567)の三度、火災にかかり創建当時の伽藍は全て灰燼に帰した。現在の戒壇堂は享保17年(1732)に建立されたものであるという。
やっぱりね。
鑑真さんの脱活乾漆像はこちら

10年前は四天王像の記憶しかないので、今回はその土壇もじっくり見てみたいと思っていたが、
中に入って驚いた。10年前の記憶は、薄暗い中に戒壇の四隅に四天王が立っていて、誰もいない静かな空間というものだった。
しかし、今回は靴を脱いで堂内に入ると拝観者が大勢いた。そして説明を聞いていてにぎやかだった。
そして、壇の中央には多宝塔がどっしりと鎮座していて、鑑真さんが戒を授けた姿を想像することができなかった。
『古寺をゆく5東大寺』は、堂内は壇上積みの壇が三重に築かれ、3段目に多宝塔、2段目に四天王像を安置しているという。
拝観者は1段目の壇を通って四天王像を見て回る。四方に2段目に上がる階段が設けられていて、そこに上がって四天王像を見ることもできる。

リーフレットは、戒壇とは受戒の行われるところで、受戒とは僧侶として守るべき事を確かに履行する旨を仏前に誓う儀式で尤も厳粛なものであり、従って戒壇は神聖な場所である(三国仏伝通縁起)という。
何故そんな神聖な場所に多宝塔が?
リーフレットは、中央にある多宝塔は、享保17年、当堂と共に造顕されたものといわれ、中に鑑真和上が来朝したとき唐から将来したといわれる釈迦、多宝の二仏を模したものをまつる。受戒の折には、東大寺ミュージアムの収蔵庫に安置されている将来品(銅造)をまつることになっているという。
前回もあったはずなのに、私の頭はこの多宝塔の存在を消していたのだった。

『古寺をゆく5東大寺』は、創建当時の戒壇堂には、銅造の四天王像が祀られていたが、戦火で焼失。現在の塑造の像は、江戸中期の戒壇堂再建時に寺内の他の堂から移されたものである。4体とも唐風の鎧を着け、邪鬼を踏まえてたつ共通の姿だが、控えめにした動きの中に個性的で生き生きとした表情を示し、迫力ある姿勢にも変化をもたせつつ、群像としての調和を保っているところが見事であるという。
唐時代の武人俑に鎧を着けたものがある。

武士俑 加彩金貼 唐、麟徳元年(664) 71.5㎝ 陝西省礼泉県鄭仁泰墓出土 陝西歴史博物館蔵
着物の裾が地面に付くほど長いが、四天王像が着けている鎧は、これに近かったのだろう。
同書は、四天王はもともと古代インド神話中の神々で、仏教に取り入れられ、仏法を守護する尊格として四方を守る。
法華堂の脱活乾漆造りの四天王よりも小ぶりで、容姿を異にするが、写実的表現においてとくに優れ、まさに天平彫刻の傑作である。全身に彩色文様の痕があって、造立当時の華麗さをしのばせるという。

持国天像
顔だけ見ると太っているが、胴部は引き締まっている。初唐の頃の様式で造られているのだろう。
『週刊朝日百科国宝の美』は、戒壇堂像は740年代の制作とみられるが、天平6年(734)以後の唐からの影響が想定されるという。
睨み付けた目は鋭いが、右手で握った剣先を左手で押さえて静的である。
邪鬼の顔はなんともいえない。

増長天像
同書は、顔面が細かい面で構成され、顔の造作はアクセントの効いた、動きのある形につくられる。再現的表現を基礎としながら、そこに適度な誇張を加えることで、表情に息づくような生命感が生まれているという。
造立当初のものか不明だが、戟(げき)を持っている。持国天と異なり口を開いている。敵あるいは邪悪な者に「立ち去れ」などと叫んでいるのだろうか。
戟は様々な形があるらしい。それについてはこちら

広目天像
同書は、戒壇堂像の仕上げ土は、雲母(きら)の混じる青みがかった精土で、表面に美しい光沢があるという。
『もっと知りたい興福寺の仏たち』は、人の心を射抜くような厳しい視線をもつ。人が罪を懺悔しているかどうかを厳しく観察している姿であるという。
眉をひそめる程度で顔貌も威嚇的ではないし、右手に筆、左手に巻物と武器からはほど遠いものを持っている。観察して人々の様子を書き留める役割でもあったのかな。
背後に回り、彩色や截金の痕跡を探したが、見付けても暗いので、このようには見えなかった。

多聞天像
「古寺をゆく5東大寺」は、黒目には黒色の鉱物やガラスの玉を嵌める。濡れ色を呈する黒目は、各像の表情に精彩を与えているという。
日本では鎌倉時代から流行する玉眼は白目の部分もガラスや水晶だが、奈良時代には黒目部分のみとはいえ、鉱物またはガラスが嵌め込まれていたとは。思い込みのせいか、全く気づかなかった。
右手で宝塔をかかげ、左手には鞘に収まった剣を持っている。
宝塔が蓮華座にのっているが、これが釈迦の遺骨を納めた舎利塔なのだろうか。
広目天とよく似た顔貌で、口を閉じている。
こちらにも彩色と截金が残っている。
このようなわずかに残った彩色や截金から、造られた当時は、全体に色鮮やかで、金色に輝く箇所もあったことが窺える。ひょっとすると、鄭仁泰墓出土の武人俑に近い色彩だったのかな。

現在では、創建当初の様々な建物はなく、江戸時代再建の戒壇堂が塀に囲まれているだけである。境内にも砂が形を整えて敷かれており、結界があるので戒壇堂と山門の間の通路しか歩くことはできない。
通路から西側。
門を出ると樹木に向かって何かをかけている人がいた。親方は門の際で坐っていて、私が写真を撮ろうとすると、「1枚1万円」と言った。関西人やなあ、言うと思ったわ。
それでカメラを下ろすと、「ウソウソ」という。
聞くと、木にとりついたウメゴケを水を噴射して除去しているのだそうな。

                               →興福寺1 東金堂の仏像群

関連項目
鑑真さんと戒壇院
東大寺戒壇堂四天王立像に残る截金文様
帯の垂飾も腰偑もただの飾りに
当麻寺金堂の四天王は髭面
国宝法隆寺金堂展には四天王像を見に行った
興福寺2 四天王像は入れ替わる
唐招提寺の四天王像

※参考文献
東大寺戒壇堂のリーフレット
「古寺をゆく5 東大寺」 2010年 小学館
「週刊朝日百科 国宝の美 彫刻4 天平の塑像」 2009年 朝日新聞社
「もっと知りたい興福寺の仏たち」 金子啓明 2009年 株式会社東京美術