お知らせ

忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/01/09

般若寺2 十三重塔



京博で馬町の十三重石塔を見て、般若寺の十三重塔がどんな塔だったか、確かめたくなった。

十三重石宝塔 鎌倉時代、建長5年(1253) 花崗岩 総高14.2m基壇辺12.3m
同寺の説明板は、奈良時代、平城京のため聖武天皇が大般若経を地底に収め塔を建てたと伝えるが、現存の塔は東大寺の鎌倉復興に渡来した宋人石大工伊行末(いぎょうまつ)が、建長5年頃建立した。
発願者は「大善巧の人」としか判明しないが、完成させたのは観良房良慧で、続いて伽藍を再建し、般若寺再興の願主上人と称されたという。

北西より
拝観入口から歩いて行くとまず見えるのがこの角度から。
馬町十三重石塔にはないものといえば、各層の軒下にある切れ込み。これがあることで、ひきしまって見える。2層目にはないので後補だろう。
西面
線刻の阿弥陀如来はなんとなくわかる程度。奥に見えているのは経蔵(重文)。
南西より
左奥に笠塔婆が見えている。

なんとなく塔身と相輪の色が違うなあと思っていたら、相輪だけが南西隅に置かれていた。上に乗っているのは後補だった。
説明板は、十三重石塔の最上部に置かれる部分。この相輪は昭和の初め旧境内を分断して通された国道の開削工事中に地中より発見された。鎌倉時代の創建当初のもので3つに折れているが、完全な姿を残している。現在のものは4代目で、昭和の大修理に初代を模して新たに作製された。2代目は石造で本山西大寺の本坊前庭に現存する。3代目は青銅製で江戸元禄より昭和まで塔上に設置されていたが今は当寺宝蔵堂に収められている。
部分の名称。下から露盤・覆鉢・九輪・水煙・龍車・宝珠という。
木造の塔の相輪は金銅製なので、細長く造ることができるが、石造となると、このようにずんぐりしたものになるのだろう。
覆鉢と九輪の一番下の輪に蓮弁が浮彫されている。

南面
線刻の釈迦如来はなんとかわかる程度。
背後は本堂(江戸時代)
南東より
右後方には鐘楼が、そして手前には小さな金銅仏が置かれている。そして東側には屋根付きの焼香所のようなものがあるので、東側から十三重石塔は写せない。
『日本の美術45石造美術』は、むかしは奈良坂にそびえる巨塔として遠く東南から仰げた。第一重を大きくし、安定を持たせ、各層にはわずかながら軒ぞりもある。第1・4・7・10層に経巻や金銅仏が納入されていたという。
阿弥陀如来  金銅製 総高40.9cm 重要文化財
同寺の白鳳秘仏特別公開のページ(毎年更新される)は、昭和39年(1964)、重要文化財・十三重石宝塔の大修理に五重軸石(四重笠石と一体)から発見された。丸い納入穴に錦の布に包み木箱に入れられて納められていたもので、箱書には「閻浮檀金ノ阿弥陀如来」とあって聖武天皇が平城京の鬼門鎮護を祈念して奉納した「霊像」と記されるという。 

同寺リーフレットには半身像が載っている(全身像はこちら)。
双領下垂式の大衣には、衣端だけでなく、各襞にも丸鏨による列点文が打たれ、下着の僧祇支にも花文のような文様が刻まれている。

北東より
やや逆光気味。
この方向にある初層の角は、他の3箇所よりも反りが大きいように見える。他は先端が欠けているのかも。
北面
それにしても、この十三重塔には大きな基壇である。

初重軸石には薬師、釈迦、阿弥陀、弥勒の四方仏を刻むという。
十三重塔の周囲を反時計回り廻ってしまったが、四方仏は東面から右繞してみると、

東面 薬師如来坐像
南面 釈迦如来坐像
西面 阿弥陀如来坐像
北面 弥勒如来坐像
いずれも涼州式偏袒右肩(右肩を大衣が隠す)の坐像で、頭光・身光も線刻されている。これも宋人石工伊行末の手になるのだろうか。

            般若寺1 楼門

関連項目

十輪院3 十三重塔は鎌倉時代

※参考サイト
般若寺の白鳳秘仏特別公開のページ(毎年更新される)

※参考文献
般若寺のリーフレット
「日本の美術45 石造美術」 小野勝年 1970年 至文堂