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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/03/20

韓半島の瓦および塼



せっかくなので、三国時代の瓦や塼にみられる蓮華文をまとめておく、といっても遺品は少ない。

百済
『国立中央博物館図録』は、仏教の隆盛に伴って発達した瓦当は、百済文化の特性をよく表しているがとりわけ熊津時代以後に中国梁の影響を受け作られた蓮花文瓦当から百済的様式が成立するという。

軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文 径13.9㎝ 忠清南道扶余邑旧衙里遺跡出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、百済式瓦の源流は、都を泗沘(現在の忠清南道扶余邑)に遷された百済時代後期の遺跡出土品に求められる。
花弁の先端が反転して桜花状に切り込みが入り、日本で花組と通称されている瓦であるという。
飛鳥寺の花組瓦と比べると、八葉であるために、花弁がふっくらとしている。また、中房が大きく、小さな蓮子の並べ方に規則性は感じられない。
このような8弁のものが一番作り易いと思うのだが、日本に来ると10弁や11弁になるのは何故だろう。
軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文・点珠 径16.5㎝ 同遺跡出土 国立扶余博物館蔵
同書は、弁端が角張る傾向にあり、先端に珠点を付す角端点珠式で、星組と通称される瓦である。若草伽藍では星組の軒丸瓦が用いられているという。
やはり花弁が8枚なので、花びららしい。中房は上の花組と比べると小さく、周囲の6つの蓮子は等間隔に並んでいる。

ほかにも蓮華文軒丸瓦がある。上左から時計回りに、

1 素弁八葉蓮華文
旧衙里遺跡出土の「花組」と同じ花弁の軒丸瓦だが、こちらは中房の蓮子が1+8で、文様として整っている。

2 単弁七葉蓮華文
この中で唯一子葉が、それもとても小さなものがある。花弁にはわずかに切れ込みがある。

3 素弁八葉蓮華文
旧衙里遺跡出土の「星組」と同じだが、1+8の蓮子のうち、中心のものが特に大きい。

4 素弁八葉蓮華文
小さくて外区がないし、中房の中心を少しはずれたところに金具を取り付けるための穴があるので、垂木先瓦だ。
日本の最初期の垂木先瓦(飛鳥時代)につながるものだが、日本のものは、どういうわけか九葉である。
それについてはこちら

5 素弁八葉蓮華文
佐賀県の椿市廃寺の軒丸瓦(白鳳時代)によく似た、独特の花弁で、このように二重とも見える花弁から子葉というものができて、単弁蓮華文に発展していくのではないかと思ったりしたが、2のような小さな子葉を見ると、そうではなさそうだ。

6 素弁八葉蓮華文
蓮華文の輪郭が八角形のように見えるのは、覗花弁がT字形に表されているからだろう。

蓮華文塼 扶余窺岩面外里出土 百済時代 高28.5㎝ 十葉忍冬蓮華文 ソウル、国立中央博物館蔵
『法隆寺展図録』は、てりむくりの大きい単弁十葉蓮華文を大きく表わし、それを連珠円文が囲う。蓮弁には輪郭で縁取られたパルメットが配されている。四隅には花弁状の装飾があり、塼を並べると十字形の花文が形取られる。木笵(木型)によって作られたものであるという。
大きな中房の周囲に小さめの蓮弁が10枚、その間に稜のある覗花弁が、楔形にならず、花弁の形で表されている。
厚い花弁にやや浅浮彫で忍冬文が表されている。5弁らしいが、わかりにくい。

箱形塼 百済(6-7世紀) 瓦製 長28.0㎝ 韓国、国立中央博物館蔵
『法隆寺展図録』は、文様面は、2つのパルメットを配して2区画に分割され、一つには鋸歯文で囲まれた蓮華文、他方には同じく鋸歯文で囲まれたパルメットが組み合わされた円形文様を対にしておく。
全体にパルメットが多用される文様構成であるが、特に、前者の蓮華文の蓮弁一つ一つにそれぞれパルメットが配されている点は注目される。これは蓮華文とパルメット文の融合であり、若草伽藍の補足瓦や、斑鳩宮で出土するパルメットを配した蓮華文軒丸瓦などの祖形となるものと考えられるという。
こちらの方が花弁のパルメットがわかりにくい。5弁かな3弁だろうか。右側上下にあるパルメットが5弁なので、花弁にも5弁のパルメットが表されていたのだろう。
右側は、5弁のパルメットの1枚が伸びて、全体に見ると回転するような動きとも、卍形に仕上げているとも思える。
長野善光寺の蓮華文軒丸瓦にも、このように周囲から浮き出たように作られた鋸歯文が施されている。外行鋸歯文と呼ぶらしい(『日本の美術66古代の瓦』より) 

蓮華文鬼瓦 百済後期(6-7世紀) 絹雲母岩 手彫り 幅36.0高29.4厚6.0 王宮・扶蘇山城内の扶蘇山寺出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺展図録』は、鬼瓦はその機能から本来の名を棟端飾瓦といい、棟の端部を塞いで雨漏りなどを防ぐためのものである。
六葉蓮華文を千鳥掛けに地模様のように配置した鬼瓦である。部分的に下書き線や下書きのために用いたコンパスの痕、彫出時に用いたノミの痕などをみることができ、蓮華文は手彫りで彫出されたことがわかる。頂部には釘頭をはめ込むT字形の彫りこみがあり、実際に55㎝ほどの鉄釘が完存している。
複数蓮華文が千鳥掛けで配置されるのは棟端飾瓦すなわち鬼瓦が開発される以前に軒丸瓦を積み上げて棟端を塞いでいた名残であるといわれている。百済ではこうした複数の蓮華文からなる鬼瓦が好んで用いられ、鬼面文の鬼瓦が登場するのは統一新羅においてであったという。
それまでは軒丸瓦を積み上げていたことが、六葉蓮華文が隙間なく彫り込まれていることからも窺える。このような鬼瓦の文様が請来されて作られた法隆寺若草伽藍所用の八葉蓮華文鬼瓦は、そのような由来もわからないので、空間をあけて縦横にに並べている。

蓮華文鬼瓦 百済時代 素弁八葉蓮華文 石製 国立扶余博物館蔵
浅浮彫の素弁八葉蓮華文が千鳥掛けに隙間なく配されるのは、上の車輪のような蓮華文と同じだが、こちらの方が蓮華文軒丸瓦を積み上げた頃の雰囲気が漂う。


軒平瓦 百済、武王期(600-641) 益山王宮里帝釈寺出土 公州国立博物館蔵
『日本の美術358唐草紋』は、パルメット羽状唐草紋は三国時代の古墳に副葬された金属工芸に豊富で、慶州忍冬塚出土の銅鋺に金象眼されたものをはじめ、馬具、冠、飾金具などに見え、また仏教美術にも取り入れられた。百済、新羅の軒瓦にもパルメットは見えるが、唐草には構成されていない。唯一の例外は益山王宮里帝釈寺出土の軒平瓦。唐草紋が花開くのは統一新羅時代という。
非常に完成された偏行唐草文だが、百済の地に出土例がないとなると、隋か唐から将来されたものかも。

『古代の瓦』は、百済から初めて仏教が伝来したとき、蘇我稲目が向原の家を寺とした故地には推古天皇11年(603)に豊浦(とゆら)寺が建立される。その鐙瓦には飛鳥寺の第2様式をまねた百済様式のほかに、高句麗様式と称される瓦が各種出土している。その特徴とするのは、花弁が厚肉で中央に稜線を通し、しかも、花弁の1枚1枚が分離した形であらわされていることである。これらは大きく2形式に分けられるが、その一つは弁間の空隙に珠粒を配する形であり、その2は下重の覗花弁を退化した楔形に表す形である。この両者はあたかも中国北朝様式を受け継いだ高句麗瓦の文様と基本的に一致するので高句麗様式と称されるが、しかし、両者を比較してみると、かなり温雅な特色を示すので、藤沢一夫氏はこの様式は高句麗から直接わが国へ伝来したのではなく、いったん、百済に伝わり、百済的に消化されてからわが国へ伝来したものと考えられているという。

豊浦寺の軒丸瓦1 603年 素弁八葉蓮華文・点珠
中央に1本の葉脈が通り、中房が小さい。
豊浦寺の軒丸瓦2 603年 素弁八葉蓮華文・覗花弁
こちらも中央に1本の葉脈が通る。 

高句麗

蓮華文軒丸瓦 出土地・所蔵不明
同書のいう弁間の空隙に珠粒を配する形である。極端に盛り上がりのある花弁と、平たく凸線で葉脈?を表した花弁が、それぞれ4枚交互に配されている。
中房は二重の同心円文で蓮子は表されない。

軒丸瓦さまざま 出土地不明 上中央径21.5㎝ 国立中央博物館蔵
蓮華文の軒丸瓦には、弁間に点珠を置いている。覗花弁の退化したものだろうか。
左上から時計回りに

1 4つの扇形の区画中央に上図に似た盛り上がった花弁、左右に葉か蔓状のもの、その下に点珠。中房には蓮子はなさそう

2 花弁というよりも蕾のようなものが2本線で区画された中央に6つ、その左右に点珠。中房中央の突起は蓮子?

3 2本線で区画された中央には、平行線状の葉脈が3本通った、盛り上がりのある花弁、その左右に点珠。やはり中房には蓮子が一つ。

4 1から発展したような文様で、軒丸瓦に一つの蓮華を表すのではなく、蓮華の蕾を横から見たようなものを内向きに4つ配している。点珠も4つ。

5 鬼面の軒丸瓦
大きな目が飛び出していて、開いた口からは上下に牙がのぞき、上の歯が3本、下の歯は見えず、舌が出ている。

6 図版が小さいので、はっきりとは見えないが、盛り上がった4つの花弁の間に、鬼面が表されているらしい。

軒丸瓦と軒平瓦 製作時期・出土地不明 国立中央博物館蔵
2つの軒丸瓦の間に平瓦というものを1単位として焼成している。軒平瓦ができるまでのものだろうか。高句麗に限らず、韓半島の三国時代、そして中国でも軒平瓦はなかったという。
飛鳥寺(法興寺)の創建当初の屋根も軒平瓦はなかったらしい。そんな頃の屋根を彷彿させる出土品である。

左 おそらく六葉蓮華文。花弁の下から出た巻きひげは左右に広がり、蕾の下から出た蔓は蕾の左右にある点珠につながっている。2つの蕾の間にも凸線による花弁状の形があり、それが蔓と重なって、新たな文様となっている。

右 子葉のある十葉蓮華文と星組のように尖った覗花弁の組み合わせ。宝相華文のようにも見える。

新羅

軒丸瓦
『国立慶州博物館図録』は、新羅では、いつから瓦が用いられたかは定かではないが、2-3世紀頃には当時の宮城で円瓦や平瓦が製作、使用されたと推定される。しかし、蓮華文が装飾される軒丸瓦が大量に製作され寺院建築に使用された時期は、仏教が公認(528年)され、興輪寺(544)、皇竜寺(553)等の寺院が建立された6世紀中葉からである。この頃の新羅の軒丸瓦には、高句麗と百済の様式が共に反映されているが、その末端が丸くからげられる独自の様式が成立した。
新羅の軒丸瓦には人面や鬼面文が刻まれたものも一部製作されたが、大半は蓮華文が刻まれたもので、周縁部には何等装飾もなく蓮華文も単純化され精緻さを欠く感がなくもないという。
左より

1 素弁六葉蓮華文
弁端が膨らむという珍しい形。中央に1本の葉脈が通る。

2 素弁八葉蓮華文
高句麗の瓦のように蓮弁が高く盛り上がる。複数の葉脈が表される。

3 素弁八葉蓮華文
百済の箱形塼の蓮華に似て、ふっくらした花弁に稜線が通る。覗花弁の葉脈は中房まで伸びている。 

このように三国時代の瓦を比較してみると、日本の瓦は百済からの影響が濃かったことがよくわかった。


関連項目
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦3 パルメット文のある瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本の瓦6 単弁蓮華文


※参考文献
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也 1971年 至文堂
「国立中央博物館図録」 1986年 通川文化社
「国立慶州博物館図録」 1996年 通川文化社
「韓国文化遺産の宝物」 国立中央博物館偏 2000年 芸脈出版社