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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/05/29

アフラシアブの丘が遺跡になるまで



サマルカンドの街は、チンギスハーンに破壊されるまで、現在アフラシアブの丘と呼ばれるところにあった。アフラシアブの名は何に由来するのだろう。

『中央アジアの傑作サマルカンド』は、旧石器時代から人々が住んでいた古代都市は、ザラフシャン川沿いの低地に位置している。紀元前30世紀から20世紀にかけて、ここはインドとイランの共通性から形成された中心地であった。
紀元前20世紀と10世紀の間は、東イランの諸種族が定住していた。紀元前10世紀初頭における特筆すべき文化的事件は、この地域でザラスタ(ツァラトゥストラ)説教とゾロアスター教の聖書伝説であるアヴェスタが誕生したことである。
アヴェスタ(ゾロアスター教の聖典)伝説によると、サマルカンドはカヴィアン王朝のカヴス帝王により創設されたという。カヴスの息子シャヴシュの時代にサマルカンドは発展し、孫のケイフスラヴの時代に最盛期を迎える。叙事的な物語によれば、シャヴシュ帝王はサック民族の貴族長であるアフラシアブに殺される。現在、サマルカンドにある古代の丘は、アフラシアブの名がつけられているという。
アフラシアブというのは人の名前から付けられた地名だった。

同書は、紀元前8-7世紀には、シルダリア川とアムダリア川の中間地帯に、最初の町が出現した。その頃、バクトリアとホレズムに最初の合併国家が出現し、アッシリアや新バビロン、インド大公国と国交があった。
アヴェスタの文言によると、ザラフシャン川とカシュカダリア川沿いの低地を含むソグディアナは、古代バクトリアの地域の一つだったようである。ソグディアナの首都マラカンドは現在のサマルカンドと同一視されている。
紀元前8世紀と7世紀に、アフラシアブの居住地は既に防壁で囲まれており、面積200haもの三角形の街ができていた。街の北側と東側は川の支流で守られ、南側と西側は深い窪地で防御されていた。
ペルシア帝王のキール(キュロス)が死亡したにもかかわらず、紀元前6世紀ごろに、ソグディアナはアケメネス帝国の一部となる。そして、ホレズムとパルティアを含む16のサトラップ(州)が構成された。アケメネス朝時代、街は内側に回廊と塔がついているどっしりとした壁に囲まれ、城塞が築かれ、そこにサトラップの宮殿が建てられたという。
城壁は上向きの矢印のような矢狭間と、扶壁のあるもので、今でも残っていて、ある通りから見える。
アケメネス朝時代のものとは思わなかったが、弓矢が主な防具だった時代を通じて、城壁はこのようなものだったのかも。この厚みの内部に通路を設けて、兵士を配置していたのだろう。
扶壁のような出っ張りは、城壁の内側に造られるものではなく、外に突き出している。城壁を支える役目ではなく、より近くから敵を射るためのものということになるかな。

同書は、紀元前4世紀後半、アジア大陸の西側からアレクサンダー大王を先頭にギリシア・マケドニア軍が侵入してくる。それにより、アケメネス朝ペルシア大国は粉砕されてしまう。最後のアケメネス朝の司令官が撃滅した後、バクトリア王国のベッサというサトラップ(州)では、アレキサンダー大王に対して、サカ族とマッサゲット族の援助でソグド人がスピタメンに先導され、強く抵抗した。スピタメンの蜂起が、バクトリアとソグディアナでしばらくギリシア・マケドニア軍の主力をくいとめた。ソグディアナの首都マラカンダ(現サマルカンド)は、反乱の中心地の一つであった。
アレキサンダー大王は一時的にマラカンドに野営し、懲罰などは自身で直接指導していた。周知のように、彼は街の近くの帝国のバシスタ自然公園で、ライオン狩りを楽しんでいた。
戦友であり、ソグディアナの支配者に任命されたアレキサンダーの乳兄弟のクリットは、大王に「この国は、以前にも反乱を起こした。そして、征服されたことはないし、これからも征服されることはないはずだ」と述べた。その後、マラカンダの宴会で、アレキサンダー大王は怒りクリットを殺す。そして、反乱が鎮圧され、スピタメンも戦死した後、アレキサンダー大王はマラカンダの全てを滅ぼしてしまった。
この当時、12万人のソグド人が死亡し、繁栄していたソグディアナは破壊された。しかし、サラブキー時代にはこの地域は復興され、ヘレニズム文化の東の前進的な中心地となった。
紀元前3世紀と2世紀の前半に、ソグディアナはギリシア・バクトリア王国の一部となった。紀元前2世紀中頃、フン族の圧政によりユエジ民族が東から中央アジアに流入し、ギリシア・バクトリア王国は全滅した。
紀元前2世紀の後半には、シルダリア川の中流、ザラフシャン谷とカシュカダリア谷に、ソグディアナも含む強力なカンユイ連合公国ができる。紀元前の終わりごろには、バクトリアの国土と南部のユエジ民族との合併により、カンユイと戦争する強大なクシャン王国が形成された。1世紀に、カンユイは国土をホレズムに至るまでの北方に拡大し、クシャン国王はインドの北部地域を占拠したという。
ユエジ民族とは大月氏、カンユイは康居のことらしい。

『中央アジアの傑作サマルカンド』は、アフラシアブの丘にあった街は、2000年ほど存在していた。アケメネス朝時代に、ここには宗教用の建物と当時の行政機関の建物とともに、広い住宅地と職人の土地があった。それらは、空き地や広場、ハウズ(ため池)に取って代わった。中世時代の初期に、国際貿易のお陰でサマルカンドは再び繁栄することとなった。その世紀に、シャフリスタンとその周辺は次第に拡大した。段階的に、街の周りには、煉瓦とパフサでできた4つの城壁が建設された。最後の城壁の高さは12mであった。街には12の門があった。それらの門は、大きくない砦であった。東部の門は中国の門、西北部の門はブハラの門、そして南部の門はケシの門と呼ばれた(シャフリサブスの旧名はケシ(Kesh)であった)。アラブ侵略前の時代に、アフラシアブの各地にはゾロアスター教(拝火教)の寺院があった。それとともに、仏教とキリスト教の建物もあった。中世時代初期に、サマルカンドでは中国の紙の作り方が習得された。それ以降、シアブ川に沿って多くの職場が並んだという。
パフサとは藁などを混ぜた粘土塊のこと。

同書は、7世紀の30年代に、ソグド人は唐朝の指導権を承認する。7世紀の中頃には、イシュヒッドの称号を持つサマルカンドの支配者が、ソグド公国連合の先頭に立った。中国の玄奘三蔵は、サマルカンドの市場の倉に高価な輸入品が保管され、住民は技術や、商業で、隣国を凌駕するような稠密な商業都市である、とサマルカンドについて記したという。

アフラシアブの丘はゾロアスター教を信奉するソグド人の街と思いがちだが、いつ頃イスラームの街となったのだろうか。
同書は、7世紀の後半になり、サマルカンドと他のソグディアナの王国は、アラビア軍に防戦せざるを得なかった。8世紀の初めに、アラビアのクテイバ司令官はトハリスタン、ブハラ、ホレズムを侵略し、712年には300台の城壁破壊用の機械を設置し、サマルカンドを包囲した。
サマルカンドのイシュヒッド(支配者)であるグレックは降伏し、カリフ制の支配下にある国であることを受け入れた。グレックはイスラム教徒に市内を開放し、クテイバはそこに初のモスクを建設するという。

同書は、7世紀から8世紀ま間に、ほとんどの中央アジアの領土はアラブによって征服された。それにより、中央アジアの民族はイスラム教を取り入れるようになった。その時から、アムダリア川とシルダリア川の間の地域は、「マウェラナフル」と呼ばれるようになった。「マウェラナフル」とはアラビア語源の言葉であり、「川の向こうの領域」という意味であるという。
マウェラナフルは、日本ではマーワラーアンナフルと呼ばれている。

同書は、9世紀から10世紀に、シャフリスタンの街は220haまで拡大した。シャフリスタンの南部には、バザール、モスク、浴場とキャラバンサライのあるラバットがあった。城砦には、統治者の公邸と監獄があった。その近くに中心となるモスクがあり、イスフィザルという地区にはサーマーン朝の宮殿もあった。街の給水は、水道橋を用い、鉛の水道鉄管を通じて行われたという。
『イスラーム建築の歴史』は、サーマーン家は、イスラーム化以前からブハラ周辺を治める地主階級で、8世紀中頃にイスラーム教に改宗し、アッバース朝政権のもとで中央アジアを治める家柄に成長する。873年にはアッバース朝から独立し、ペルシア文化を復興させたという。

9-12世紀のサマルカンド
同書は、10-11世紀において、チュルコ王朝のカラハニドー族とガジネビドー族の攻撃により、サマニド国が崩壊した。11世紀の中頃には、西のカラハニドー族はサマルカンドを首都にして自立した国家を創った。当時は、サマルカンドの最盛期であった。そこに、10万人が住んでいた。
シャフリスタンだけではなく、外の都市も城壁で囲まれていた。城塞には宮殿が建築された。12世紀前半、サマルカンドではアフマド・アル・ハマダニの高僧が説教した。11世紀末には、カラハニドー族は自身らを西のイスラム界を征服したチュルコ王朝のセルジュキドー族の臣下として認めた。1141年にセルジュキドー族のスルタン・サンジャルと彼の臣下のカラハニドー族のマフムド・カンの軍隊は、契丹人に撃滅された。その戦闘で殺された数千人の軍隊は、サマルカンドのチョカルディザ墓地に埋葬された。カラハニドー族はサマルカンドの支配権力を守ったが、契丹人の支配者の臣下になったという。
チュルコはテュルク、カラハニドーはカラハーン、セルジュキドーはセルジューク朝、ガジネビドー族はガズナ朝、サマニドはサーマーン。
その頃のアフラシアブの丘

13世紀初頭のサマルカンド
同書は、13世紀はじめ、ホレズム・シャフーのムハンマドは中央アジアのシーだーとなった(1200-20)。1208年、彼はホラサンを征服し、1220年に契丹を壊滅し、マベラナフルを征服し、東のトルキスタンまで自身の国を拡大した。
1212年にムハンマドは残酷に暴動を鎮圧し、そのとき1万人が殺された。彼はカラハニドー族の最後の支配者のオスマンを死刑にしサマルカンドを首都にした。ホラズム・シャーはここにモスクを新築し、城塞でカラハニドー族の宮殿のあった場所に新しい宮殿を建築した。
1217年に、ムハンマドはペルシアのイラク、マザンダラヌ、アッラン、アゼルバイジャン、シルバン、ファルス、ケルマンを征服し、インドの境まで行った。当時、モンゴル帝国の創始者であるチンギン・カン(1206-1227)は、ホレズム・シャーに、「私は東の支配者である。あなたは西の支配者になったらいかがか」、と世界を分割する提案をした。しかし、ムハンマドはそれを拒否した。
チンギン・カンは、その報復として中央アジアに侵攻した。ムハンマドは自身の国境を守るため、サマルカンドへ向かう道のシルダリア川の畔で、モンゴル軍と戦うはずであった。しかし、チンギン・カンは砂漠を渡り、ブハラへの道に出、河の下流を渡っていった。しばらくブハラを包囲した後に征服し、サマルカンドへの行軍を撃滅し、アフラシアブを投石器で射撃し、包囲した。
サマルカンドが崩壊するのを恐れたイスラム教の聖職階級の者たちは、チンギン・カンのもとへ使いを送り、サマルカンドは降伏した。相互の合意によって、モンゴル軍はイスラム教の約5万人を釈放した。他の市民は市の包囲に活用した。
サマルカンドの降伏前に、ホレズム・シャーは南に逃亡し、サマルカンドの降伏後、敵に対して反撃するのをやめた。それにより、ホレズム帝国は滅亡してしまった。1221年末には、マベラナフル、ホレズム、ホラサンはモンゴルに降伏した。道教の僧であるチャン・チュンの証言によると、モンゴルがサマルカンドに侵攻した1年後には、サマルカンド市民の4分の1しか残っていなかったという。しかし、サマルカンドは完全には破壊されなかった。サマルカンドのバザールは開けられており、モンゴルの代官はホレズム・シャーの宮殿に住んでいたという。
マザンダラヌはマザーンダラーン。

サマルカンド(アフラシアブの丘)は、ゾロアスター教徒のソグド人が支配していた頃よりずっと後の時代まで人の暮らした街だった。
だから、現在アフラシアブの丘に露出している、あるいは発掘したままとなっている遺構は、おそらくソグド人の暮らした住居ではなく、後世に住んでいたイスラームの人々の生活の痕跡なのだろう。

                             →ソグド人の納骨器、オッスアリ

関連項目
サマルカンド アフラシアブの丘を歩く
アフラシアブの丘 サマルカンド歴史博物館1
アフラシアブの丘 サマルカンド歴史博物館2

※参考文献
「中央アジアの傑作 サマルカンド」 アラポフ・アレクセイ 2008年 SMI・アジア出版社
「AFROSIAB」 2014年 Zarafshon