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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/05/05

依水園1 前園



奈良博の北、東大寺南大門の西に依水園という庭園がある。
朝通りかかると、ちょうど依水園の木の門が開かれるところだった。道路からは突き当たりの正面にあり、若草山を借景にして、広大な庭園らしきことがうかがえる。
隣の白壁と門は吉城園という庭園、ここも訪れてみたいところ。
正倉院展を見た後、午後に入園した。
庭園の入口手前には寧楽美術館がある。
依水園のリーフレットは、寧楽美術館は関家より依水園を買い受けた実業家中村準策が収集した美術品を園内で展示するために、昭和14年(1939)に財団法人として設立されました。
美術館の建物は、昭和44年(1696)に建築家、東畑謙三氏によって、緩やかに湾曲した大和屋根をイメージして設計され、建築されましたという。
むくり屋根が茅葺きのような柔らかさを出していて、すっきりとした建物。

リーフレットは、奈良市の東大寺と興福寺の間に位置する、、名勝(文化財保護法で定められた、国指定の文化財)に指定された日本庭園依水園は、時代の異なる二つの池泉回遊式庭園から構成されています。総面積3.400坪(11.000㎡)。江戸時代前期の日本庭園として作られ、周りから隔絶された空間である「前園」と、明治期に築かれ、周りの景色までをも景観として取り入れた借景庭園の「後園」がありますという。
では、前園から。
事務所脇の木戸から入ると、
すぐに池が目に入って来る。淡く紅葉した木々に囲まれて、奥の三秀亭の茅葺き屋根と共に柔らかな雰囲気。
リーフレットは、庭園入口のすぐ右手に広がる庭が「前園です。奈良晒(武士などの裃に用いられた高級麻織物)を扱う将軍御用達商人であった清須美道清が、江戸前期に、吉城川の傍で、若草山、御笠山、高円山の三山が見える場所に「三秀亭」という茅葺屋根の別邸建て、庭園を建て、庭園を作りましたという。
池はこちら側にも。
池の南側にも回遊路があり、いい雰囲気。
向こう岸の出っ張ったところに小さな灯籠が、左奥にも茅葺き屋根の小さな建物が木々の間に埋もれるように建っている。
リーフレットは、池の中程に鶴亀をなぞらえた中島を築き、池の要所要所に灯籠を配しており、また護岸の石組み等に江戸時代の庭園の特徴が残されていますという。
こちらが亀かな鶴かな。
リーフレットは、三秀亭から望む前園では、小さな水音さえ聞くことのできる「静寂の別世界」を感じられることでしょうというが、三秀亭は現在食事処となっていて、お昼を楽しむ人たちのざわめきで、そのような幽かな音は聞こえないのだった。
向こうには事務所のある建物、その右端が清秀庵。
池の南を通っていく。先ほど見えた灯籠が正面から見えたが、苔で覆われているため、近づくことはできない。
先ほどの茅葺き屋根の建物が見えてくる。挺秀軒というらしい。井戸のような石組みの先に結界があり、近づけない。
左に折れて井戸?を振り返ると、半分に割れた伽藍石が。

そして通路は先ほど池の向こうに見えた清秀庵の前に通じていた。
立て札は、この茶席は「清秀庵」と称し、裏千家の名席「又隠席」(重文)を写したものですという。
箒がぶら下げてあるのも茶室の景色。

清秀庵の庭は飛び石が十字に交差して、向こうにも茶室がある。
檜垣とおもしろい形の門があり、その奥に先ほど側面が見えた挺秀軒があったが、やはり立ち入り禁止。
それで結界の際から写すにとどめるが、傾いているように写ってしまった。


清秀庵に続く建物。
廊下には急須にマユミが入れてある。
奥を覗くと、三間続き。最初の部屋の欄間が舟をひっくり返したよう。その奥には欄間はない。
その右手の氷心亭も茅葺き屋根。三秀亭といい、この屋根といい、アワビの貝殻があちこちに置かれているのは何故?
通りかかった人に尋ねると、カラスが巣作りなどで茅を抜いてしまうので、光の反射で近づかせないためとか。

その脇のすっきりと長い延段を通っていると、ガラスが揺らいでいることに気がついた。
フロートガラスができる以前の古い板ガラスがまだ残っているのだった。
なんとかそのゆらぎを写したい!
縦の線が歪に見える。
3こちら側からは難しいなあ
通路側から東大寺の南大門を借景にした後園を撮ってみたが、庭園はゆがまず、桟だけが揺らいでみえた。

     奈良町 大乗院庭園でバードウォッチング← →依水園2 後園1

関連項目
依水園3 後園2
奈良町 今西家書院1
奈良町 今西家書院2

参考にしたもの
依水園のリーフレット