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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/02/27

日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦



法隆寺で出土した軒丸瓦は、パルメット唐草文(忍冬唐草文)が表されている。

『日本の美術358唐草紋』(以下『唐草紋』)は、日本で初めて瓦葺き建物が建立されたのは、崇峻天皇元年(588に造営を開始した飛鳥寺(法興寺)においてであった。軒先に葺かれる軒瓦としては軒丸瓦だけがあって、対になるべき軒平瓦を欠くところも百済のばあいと一致する。
7世紀初めに造営に取りかかった斑鳩寺、坂田寺や四天王寺において初めて軒平瓦が導入された。軒平瓦を造り出そうとする意欲は日本独自のものであったが、しかしなにぶん手本がないので、様々な試行錯誤を繰り返したようだ。若草伽藍跡と坂田寺跡からは一つずつ手で彫刻した軒平瓦出土しているという。
どこかでこのような文様をみたことがあるような・・・
そう思って調べてみると、どれも上の軒平瓦の図版だった。
しかし、こんな唐草文があったような気がする。ひょっとすると、古墳時代末期の金具などにあったのでは。

棘葉形杏葉 古墳時代末期(6世紀後半) 鉄地金銅張り 奈良県斑鳩町藤ノ木古墳出土
『唐草紋』は、杏葉は馬に提げる飾り。双鳳紋の間を全パルメット、半パルメットで埋めてある。
鳳凰頭上のパルメットは、主体的にパルメットを表現しようとする意図がうかがえるようであるという。
瓦より古い時代に、パルメット文はこのような完成した形で請来されていた。この中の半パルメット文をみた瓦工が、不慣れな手彫りだからといって、上の軒平瓦に見られるような、雲とも樹木ともつかない文様に仕上げるかな。
ひょっとして輪郭の丸いものを参考にしたのでは?

心葉形鏡付板付轡 古墳時代末期(6世紀後半) 奈良県斑鳩町藤ノ木古墳出土 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館蔵
『金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録』(以下『藤ノ木古墳の全貌展図録』)『唐草紋』は、心葉形鏡板を十字に4分割し、それぞれに五葉半パルメットをあらわす。その表現は、もっとも長い葉の先端が分かれない通常のもの、3つに分かれるものを含むという。
中の文様が違い過ぎる。 
環形飾り金具 古墳時代末期(6世紀後半) 金銅 藤ノ木古墳出土
『唐草紋』は、用途不明の金銅製飾金具。外側に猪目形透しを連続して配置、内側にパルメット波状唐草紋を巡らしてある。
おそらく馬の頭上のたてがみを飾ったと思われるこの金具には、四葉半パルメットが透彫されている。その形態は半パルメット唐草の最も長い葉が伸びて、次の単位のパルメットのもっとも短い葉と共有するという特色あるものである。同様の例は雲岡石窟第6洞・第9洞にも類例があるという。
軒平瓦の文様は、猪目を並べたものではない。
障泥の縁金具 古墳時代末期(6世紀後半) 金銅 藤ノ木古墳出土
『唐草紋』は、障泥(あおり)とは、馬に装着した鞍の左右に振り分ける泥よけのこと。藤ノ木古墳出土の場合は、本体が皮革で、その四周に金銅製の飾り金具を巡らせていた。飾り金具は上半部と下半部からなり、どちらも半パルメット偏行唐草が半パルメット偏行唐草が施されているが、それぞれ技法や表現法がまったく異なるものである。 
上半部では半肉彫の三葉半パルメットを背中合わせに配置し、中央に蓮華と思われるものをあらわしている。全体が一つの花紋のような華麗な印象を与えるものである。一方、下半部は四葉半パルメットの線刻による偏行唐草であるという。
偏行唐草ではあるが、このようなパルメット唐草を手彫りしたら、雲のような形になってしまったとも思えない。

慶州天馬塚出土の白樺製障泥にもパルメット文のようなものが並んでいたはず。

障泥 5世紀 白樺樹皮、彩色 5世紀 国立慶州博物館蔵
法隆寺出土の軒平瓦に彫られたパルメット文は、一応左右で反転しながらも、茎は続いて蔓草文となっているのだが、この障泥の周囲のパルメットは、互いにくっついているものの、1本の蔓で繋がってはいない。
猪目形の蔓に囲まれたパルメットはそれぞれ独立した文様で、隣接する部分の上下に蕾状のものを付けるが、唐草文にはなっていなかった。これも若草伽藍出土軒平瓦のパルメット文の源流ではなかったのだ。

しかし、パルメットが上下反転せずに並ぶ文様というのもパルメット系唐草文の一種とされている。
『唐草紋』は、中国石窟寺院の唐草紋を研究した長広敏雄は、雲崗石窟のパルメット系唐草紋を羽状唐草、並列唐草、環つなぎ唐草の3群に分類した(『雲崗石窟』京都大学人文科学研究所 1951)。環つなぎ唐草のばあい、その単位モチーフは圧倒的に三葉形と半パルメット、あるいは両者の組合せからなる。北魏時代の石窟寺院におしいては、一般的に肉づきのよい、太めの、先端の尖った葉に、時に葉脈風の一本線の刻みを入れ、あるいはこれを中心に斜面彫りにするばあいが多いという。
雲崗石窟は460-524年に開鑿された石窟なので、新羅の天馬塚が築造された時期よりも、この唐草紋とどちらが先かわからない、というよりも、このような文様が雲崗石窟のどの時期の窟にあるのかを確かめていないからだが・・・

『唐草紋』は、若草伽藍跡から出土した手彫り唐草紋軒平瓦は、羽状に反転しながら伸びる茎が形成した山と谷に、掌形の葉とも花ともつかぬ単位を上下に向きを変えながら一つずつ彫刻したもので、内部をさらに扇形にくり抜く。全パルメット唐草紋の仲間である。
大きく2種類に分類できる。各単位モティーフが七葉のもの(A類)と五葉のもの(B類)とで、B類は製作技法の違いによってBⅠ類とBⅡ類に細分できる。3類ともに右偏行と左偏行とがあり、さらに細かく分類可能だ。
若草伽藍の手彫り唐草紋A類は一見七葉のように見えるが、渦巻形萼の上に五葉全パルメットを乗せたものと考えることもできよう。しかも内部に扇形の空間を備え、最古式の一つである207A型式には茎から扇形が派生する分岐部には蕾がある。諸例の影響を受けて成立したことは確実だ。すべてが日本の独創、とは言えないのであったという。 
上の3つがA類、一番下の右がBⅠ類、左がBⅡ類に分類されている。
A類の①に小さな蕾が付いているように見える。これが207A型だろう。

同書は、若草伽藍の手彫りの軒平瓦の紋様の類例はや輯安西崗第17号墳など高句麗古墳の壁画、臨川靖恵王簫宏墓碑など南朝の陵墓に求められるが、年代が判るのは隋開皇20年(600)の独孤羅墓誌蓋である。これらに共通する構成要素として、左右に開く渦巻形萼の上に扇形の空間を介して七葉ないし五葉の掌形(すなわち全パルメット)を乗せること、萼の根元からのびる支茎と主茎との分岐部に栓形花紋すなわち蕾が生えること、の2点が指摘できるという。

江西中墓奥室天井平行持ち送り側面に忍冬唐草文 高句麗時代(7世紀初) 平安南道南浦市江西区域三墓里
『高句麗壁画古墳展図録』は、第1段の側面には、赤で塗られた忍冬文を唐草文でつなぐ文様がみられ、それは日本の法隆寺金堂釈迦三尊像の大光背文様(7世紀前半)にみられる文様とよく似る。また第2段の側面の蓮華文を唐草文でつなぐ文様は、法隆寺若草伽藍金堂創建時の軒平瓦文様(7世紀初頭)に似る。このように、江西の古墳と日本の飛鳥文化との関係を文様によって知ることができる。そして、江西中墓の年代も7世紀初頭とみることができるという。
『唐草紋』で「平壌遇賢里中墓」と呼ばれている古墳に相当する。
確かに、上下にくねりながら横に伸びる蔓草の渦の中にある白っぽいものの形は、若草伽藍出土軒平瓦の全パルメットによく似ている。しかも、茎から出たところに丸く表されているものは、若草伽藍出土軒平瓦の扇形に刳り抜いたものだとわかる。若草伽藍出土軒平瓦に欠けるのは、主径と支茎の分岐部分の蕾である。
それにしても、どんなものの意匠としてこのような文様が日本に請来されたのだろう。
江西大墓奥室天井平行持ち送り側面 高句麗時代(6世紀末~7世紀初) 同地区
同書は、天井は、第1平行持ち送りの側面に忍冬唐草文がみられ、これは日本の法隆寺夢殿救世観音の光背文様に似る。
高句麗の25代王の平原王(559-590)の墓と推定されているという。
すると、7世紀初とされる江西中墓には、その次の王が埋葬されているのかも。
古い墓のパルメット唐草文が、若草伽藍よりも後につくられた救世観音の光背に採り入れられているというのも興味深い。

で、中国での全パルメット羽状唐草文は、

上:臨川靖恵王簫宏墓碑(普通7年、526)
五葉で、萼が蔓のように表される。茎の分岐部分に蕾が表されている。

下:独孤羅墓誌蓋(開皇20年、600) 
五葉で、幅広の萼が反り返り、花心が大きく表される。茎の分岐部に表されているのは、葉のようにも見えるが、開きかけた蕾だろうか。
若草伽藍出土軒平瓦A類では両端の葉のようなものが反り返り、七葉とされるが、五葉と萼と見えなくもない。


以上が、見たことのあるパルメット唐草文だったかどうかは確信がもてないが、若草伽藍出土軒平瓦のパルメット文は、やはり請来された何かにあった文様で、それを飛鳥の人々は軒平瓦に採り入れようと、まずはその形を紙に描き、手彫りで浮彫にしたのだった。


ところで、若草伽藍の軒平瓦に見られる丸いパルメット唐草とは異なった文様が、同じ時期に建立された坂田寺の軒平瓦に表されていた。

手彫り唐草紋軒平瓦 明日香村坂田寺跡出土 奈良文化財研究所蔵
『唐草紋』は、反転する各単位は三葉の半パルメットで、葉は細長く分岐部には蕾も結節もない。右偏行に限られるが、ごく一部に左端の1単位に左行きのものがあり、これらは樋巻き作りの製品で、紋様は円筒を分割する前に彫刻しており、起点部のみ左行きにした、と考えるのが妥当である。フリーハンド施紋、樋巻き作り曲線顎という特徴から、若草伽藍BⅡ類に併行すると考えられるという。
フリーハンドによるものなら、その前段階の、型紙を当て、手彫りした軒平瓦もあったのでは。

同書は、河南省鄧県画像磚墓の楽舞磚に見られるように、南朝斉や梁の磚墓、北魏の石窟寺院や金銅仏に豊富な三葉・四葉の半パルメット唐草紋を重視するべきであろうという。
下図の2番目、福建省南山嶼磚墓(時代不明)に表された半パルメット唐草文に似ている。

均整忍冬唐草文軒平瓦 7世紀 法隆寺出土 法隆寺蔵(それぞれの均等に縮小したものではありません)
『唐草紋』は、笵(木の板に紋様を陰刻した雌型、これに粘土をつめれば同じ紋様の軒瓦を多数作ることができる)によって、製作された最古の軒平瓦は、斑鳩宮跡と想定される法隆寺東院下層遺構から出土した、均整忍冬唐草紋軒平瓦215A型式である。宝珠形の中心飾りを主茎の上に乗せて結節で結びつけ、その左右に三葉半パルメットを各3単位反転させた唐草紋を半肉浮彫で残す。斑鳩宮は643年に蘇我入鹿らによる焼き打ちに遭っているから、この型式の軒平瓦はそれ以前に作られたものであるという。
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』の図版では、1の斑鳩寺所用のものと、2・3の斑鳩宮所用ものは似ているが葉の肥痩などが異なる。
4・5は別の笵によるものだが、茎が二重となっている。

上図の最初の軒平瓦(215A型式)については、日本の瓦2でも採り上げたように、『法隆寺日本仏教の黎明展図録』は、西院綱封蔵付近から顎面にも文様を刻んだ均整忍冬唐草文軒平瓦が出土している。特徴のある宝珠形の中心飾の左右に忍冬唐草文を配し、顎(凸面)にも同様の文様を篦描する。綱封蔵は若草伽藍の北方に位置し、斑鳩寺に関わる瓦ともみられ、また斑鳩宮出土品とも関連深いと、『唐草紋』と同様の斑鳩宮あるいは斑鳩寺のものとしているが、出土場所が異なる。一応、新しい文献のデータを基にすることにする。

やや趣を異にするが、百済でも半パルメット唐草文の軒平瓦が出土している。

軒平瓦 百済 益山王宮里帝釈寺出土 公州国立博物館蔵
『唐草紋』は、パルメット羽状唐草紋は三国時代の古墳に副葬された金属工芸に豊富で、慶州忍冬塚出土の銅鋺に金象眼されたものをはじめ、馬具、冠、飾金具などに見え、また仏教美術にも取り入れられた。百済、新羅の軒瓦にもパルメットは見えるが、唐草には構成されていない。唯一の例外は益山王宮里帝釈寺出土の軒平瓦。唐草紋が花開くのは統一新羅時代という。
日本には、パルメット唐草文の施された銅鋺あるいは馬具、飾金具などが半島より請来され、それが軒平瓦の装飾へと応用されたということになりそうだ。

         日本の瓦3 パルメット文のある瓦←  →雲崗石窟の忍冬唐草文 

関連項目
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦
韓半島の瓦および塼
積石木槨墓の構造は慶州天馬塚で

※参考文献
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂
「仏法の初め、茲(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県安土城考古博物館
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「金の輝き、ガラスの煌めき-藤ノ木古墳の全貌-展図録」 2007年 奈良県立橿原考古学研究所附属博物館
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂
「図説韓国の歴史」 金両基監修 2002年 河出書房新社
「世界遺産高句麗壁画古墳展図録」 総監修平山郁夫 2005年 社団法人共同通信社 

2015/02/24

日本の瓦3 パルメット文のある瓦



法隆寺若草伽藍跡出土の補足瓦にはパルメット文があった。

パルメット文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀) 軒丸瓦径16.8㎝、軒平瓦幅29.5厚3.7㎝ 若草伽藍跡出土 補足瓦 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、パルメット文を施した単弁六葉蓮華文軒丸瓦と、その軒丸瓦の笵型を押圧して文様とした軒平瓦という。
補足瓦ということで、割れたり落ちたりした瓦の補修用に遅れて作られたもので、それだけの期間のうちに、新たに請来したのがパルメット文だったのだろう。


忍冬文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(630年代以前) 軒丸瓦復原径16.0軒平瓦幅24.0厚4.3㎝ 斑鳩宮所用 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、軒丸瓦は平坦な花弁の中に先端が三葉のパルメット文を配した六葉の蓮華文を飾り、軒平瓦は特徴のある宝珠形の中心飾の左右に、三葉パルメット文を唐草文状に展開させているという。
軒丸瓦のパルメットは、若草伽藍所用補足瓦よりも細身で、3葉しかない。中房はどんなだったのだろう。

単弁六葉蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 白鳳時代(飛鳥時代後期とも呼ばれる) 中宮寺址出土
花弁の内側に、子葉として忍冬文(パルメット文)が刻まれている。中房の蓮子は明確ではない。
パルメットの葉が小さく、下に鉤形に折れるような表現や、上の葉が大きいなど、上の若草伽藍補足瓦によく似ている。
軒平瓦の文様について『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は、中宮寺からも出土し、宇瓦の顎面には、瓦当の唐草文を篦描きであらわしているという。これこそスタンプだと思っていた。
よく似た蓮華文が、扶余の塼にあった。

扶余窺岩面外里出土 百済時代 高28.5㎝ 十葉忍冬蓮華文 ソウル、国立中央博物館蔵
『国立中央博物館図録』は、仏教の隆盛に伴って発達した瓦当は、百済文化の特性をよく表しているがとりわけ熊津時代以後に中国梁の影響を受け作られた蓮花文瓦当から百済的様式が成立するという。
『古代の瓦』も、瓦博士の指導によって製作された飛鳥寺の創建瓦は2形式あるが、それは百済様式とはいえ、祖型は中国の南朝にあり、南朝の造瓦技術が百済に伝わるとほとんど同時にわが国へも伝えられたものであったという。
『法隆寺展図録』は、てりむくりの大きい単弁十葉蓮華文を大きく表わし、それを連珠円文が囲う。蓮弁には輪郭で縁取られたパルメットが配されている。四隅には花弁状の装飾があり、塼を並べると十字形の花文が形取られる。木笵(木型)によって作られたものであるという。
大きな中房の周囲に小さめの蓮弁が10枚、その間に稜のある覗花弁が表されている。おそらくこのような覗花弁が、作り続けるうちに便化していき、楔形になったのだろう。
厚い花弁にやや浅浮彫で忍冬文が表されている。

箱形塼 百済(6-7世紀) 瓦製 長28.0㎝ 韓国、国立中央博物館蔵
『法隆寺展図録』は、文様面は、2つのパルメットを配して2区画に分割され、一つには鋸歯文で囲まれた蓮華文、他方には同じく鋸歯文で囲まれたパルメットが組み合わされた円形文様を対にしておく。
全体にパルメットが多用される文様構成であるが、特に、前者の蓮華文の蓮弁一つ一つにそれぞれパルメットが配されている点は注目される。これは蓮華文とパルメット文の融合であり、若草伽藍の補足瓦や、斑鳩宮で出土するパルメットを配した蓮華文軒丸瓦などの祖形となるものと考えられるという。
こちらも花弁に浮彫されたパルメットがはっきりとはわからない。 

八葉蓮華文塼 飛鳥時代(603年頃) 小墾田宮出土
同書は、この文様は日本でも韓国でも塼の文様として非常に珍しいものであるが、日本では聖徳太子が斑鳩宮造営前に住まいとしていた小墾田宮(おはりだのみや)から同様の文様を持つ塼の破片が出土している。小墾田宮出土の塼は箱形ではなく、通常の平坦な直方体であるが、文様構成は酷似している。こうした百済との直接的系譜を引く遺物が、太子ゆかりの遺跡から出土することは興味深いという。
この破片から、蓮弁にパルメットが表されていたかどうかは明らかにされていないが、百済と聖徳太子のこのような関係から、花弁にパルメットをおく意匠も請来された可能性があるということなのだろう

鴟尾破片 飛鳥時代(7世紀) 瓦製 法隆寺西院伽藍所用 法隆寺蔵
法隆寺金堂の棟にはかつて鴟尾がつけられていたという話は聞いたことがあったが、その創建期のものがこれ。
パルメットやパルメット唐草などがみられる。
同書は、復元される鴟尾は二条からなる縦帯が2本配され、その囲まれた部分に六花文や反転しながら展開する五弁のパルメット唐草文がデザインされている。それらの外側にはそれぞれ段が刻まれている。胴部の文様は非常に流麗なもので、7世紀後半の鴟尾としては非常に装飾性豊かな点で特筆できるという。
高いところにあって、下から見上げてもこのような細部までわかったかどうか。 

このように新来の文様は、次々と採り入れられ、しかもどんどん変化していくのがこの時代だったようだ。


   日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦← →日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
  
関連項目
雲崗石窟の忍冬唐草文
日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦
韓半島の瓦および塼

※参考文献
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「仏法の初め、茲(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県安土城考古博物館
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「日本史リブレット71 飛鳥の宮と寺」 黒崎直 2007年 山川出版社

2015/02/20

日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦




『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、法隆寺は、初めは斑鳩寺とよばれ、聖徳太子が住まいとした斑鳩宮に隣接して建立した寺で、創建年代は推古14、5年(606、7)ごろと考えられる。その伽藍跡は法隆寺の西院伽藍の南東に位置し、若草伽藍とよばれ、現在は塔跡の上に巨大な心礎が残されているという。

若草伽藍跡出土の瓦について同展図録に詳しく紹介されている。

素弁九葉蓮華文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀第Ⅰ四半期) 軒丸瓦径15.7㎝、軒平瓦幅33.4厚5.7㎝  法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)跡出土 金堂所用 法隆寺蔵
軒丸瓦について『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、若草伽藍の出土瓦は、すべて7世紀第Ⅰ四半期と第Ⅱ四半期のもので、その中で最も古い瓦は、金堂に使用された素弁九弁蓮華文軒丸瓦で、飛鳥寺と同じ笵であり、それを転用したことが明らかとなった。ここから斑鳩寺の造営に、蘇我氏の関与・援助があったことは間違いないであろうという。
『法隆寺展図録』は、素弁で薄肉の九葉を配するが、弁端は角ばり、その先端には珠文を付す星組と通称される軒丸瓦であるという。
中房の蓮子は1+6。

軒平瓦について『法隆寺展図録』は、型紙を針で留めて毛描き線でトレースして彫り込むという。
型物ではなく、手彫りだった。彫りの深さや線のぎこちなさからそれが窺える。

素弁八葉蓮華文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀第1四半期) 軒丸瓦径17.0㎝、軒平瓦幅35.5、厚2.3㎝ 若草伽藍跡出土 金堂所用 法隆寺蔵
軒丸瓦について『法隆寺展図録』は、九葉の割付が不揃いなのに対して、八葉の花弁は整然としている。四天王寺から同笵の瓦(同じ木型による製品)が出土しており、瓦の配布経路や製作工人の系譜を示すという。
蓮弁は8枚のため、幅広で、ふっくらしながらも先だけ尖り、そのすぐ内側に点珠がある。これはもう花弁の反転を表すための点珠ではない。
蓮子は1+6。

軒平瓦について同書は、型紙、下書きなしで直接彫り込んでいるという。
左半分のパルメット唐草の蔓が妙に見えるのは、そのためだろう。

素弁八葉蓮華文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代、金堂草創期よりやや後出(7世紀第2四半期) 軒丸瓦径18.7㎝、軒平瓦幅26.2厚4.7㎝ 若草伽藍跡出土 金堂北方建物所用 法隆寺蔵
軒丸瓦は、八葉で弁端は丸く、点珠はない。
軒平瓦について『法隆寺展図録』は、パルメット唐草文を飾る。この忍冬唐草文は1単位の型を上下に交互に押し、唐草文に似せているという。
スタンプされているので、手彫りのものよりも浅く、蔓の線が細く、すっきりした唐草文となっている。
蓮子は1+5。

パルメット文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀) 軒丸瓦径16.8㎝、軒平瓦幅29.5厚3.7㎝ 若草伽藍跡出土 補足瓦 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、パルメット文を施した単弁六葉蓮華文軒丸瓦と、その軒丸瓦の笵型を押圧して文様とした軒平瓦という。
補足瓦ということで、割れたり落ちたりした瓦の補修用に遅れて作られたもので、それだけの期間のうちに、新たに請来したのがパルメット文だったのだろう。

軒丸瓦はパルメットが子葉となった単弁蓮華文。これは、奈良・西安寺出土の忍冬・蓮華交飾軒丸瓦(飛鳥末期)よりも早い例と思われる。
蓮子は1+6。
パルメット文軒丸瓦についてはこちら

その型を軒平瓦にスタンプしてできたのが軒平瓦ということだが、右端の文様以外はわかりにくい。
同書は、以上の軒瓦はいずれも軒平瓦を伴っているが、これこそが、若草伽藍瓦の大きな特徴である。この時期には朝鮮半島の三国や中国でもまだ文様を飾った軒平瓦は出現せず、若草伽藍の出土瓦こそがその最初の例であるという。
なんと、おそらく最初は非常に苦労して手彫りで作っただろう軒平瓦のパルメット唐草文は、半島あるいは隋・唐からもたらされた軒平瓦の意匠だと思っていたのに、いずれの地でもまだなかったという。何かの請来品の文様を採り入れたのだろうが、それを軒平瓦に表したのは、当時の日本人の独創だったのだ。

以上の軒平瓦をまとめてみると、

また、別の文様の軒平瓦が出土している。

均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀) 法隆寺西院綱封蔵付近出土 法隆寺蔵
同書は、特徴のある宝珠形の中心飾の左右に忍冬唐草文を配し、顎(凸面)にも同様の文様を篦描きする。綱封蔵は若草伽藍の北方に位置し、斑鳩寺に関わる瓦ともみられ、また斑鳩宮出土品とも関連深い。同種の軒平瓦は中宮寺跡からも出土するという。

忍冬文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(630年代以前) 軒丸瓦復原径16.0軒平瓦幅24.0厚4.3㎝ 斑鳩宮所用 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、軒丸瓦は平坦な花弁の中に先端が三葉のパルメット文を配した六葉の蓮華文を飾り、軒平瓦は特徴のある宝珠形の中心飾の左右に、三葉パルメット文を唐草文状に展開させているという。
軒丸瓦のパルメットは、若草伽藍所用補足瓦よりも細身で、3葉しかない。中房はどんなだったのだろう。
素弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(630年代以前) 軒丸瓦残長7.3軒平瓦残幅22.3厚4.1㎝ 斑鳩宮所用 法隆寺蔵
同書は、軒丸瓦は素弁六葉蓮華文を飾り、軒平瓦は上の軒平瓦とほぼ同様の文様を表しているという。
ふっくらした花弁に高い稜がつくられている。中房には大きな蓮子が一つだけある。
同書は、2種類とも軒丸瓦はとくに小形であり、また軒平瓦も通常この種の瓦の唐草文は3回転するものが、小形のために2回転に留められている。これらの小形の軒瓦は、斑鳩宮内の小仏堂の軒先などで使用されたものと推定される。斑鳩の宮は皇極2年(643)に焼失しているので、これらの瓦の年代は630年代かそれ以前とみられるという。
おそくとも630年代にはパルメット文の軒丸瓦や均整忍冬唐草文軒平瓦は作られていたことになる。

次に法隆寺で使われていた軒丸瓦は、単弁ではなく、複弁蓮華文だった。
『法隆寺展図録』は、法隆寺は天智9年(670)に若草伽藍が焼失した後に、塔と金堂が横に並ぶ法隆寺式伽藍配置の西院伽藍が建立された。ここで出土する西院伽藍の創建期の複弁八葉蓮華文軒丸瓦と均整忍冬(パルメット)唐草文軒平瓦の組合せで、西院伽藍出土瓦独特の文様を飾るので、法隆寺式瓦と称されている。西院の創建瓦は新形式の軒丸瓦と、前代の伝統を踏襲する軒平瓦との組合せからなるという。

複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀後葉) 軒丸瓦径19.0軒平瓦幅30.1厚6.3㎝ 西院伽藍金堂所用 法隆寺蔵
同書は、軒丸瓦は中房は大きく高く、中央の1個の蓮子を中心に、さらに蓮子を二重に巡らし、内区には弁端が反転する複弁の蓮弁を八葉飾り、外区には突線で表した鋸歯文を巡らしている。軒平瓦は斑鳩宮所用の軒平瓦の文様を継承し、さらに簡潔にまとめあげた形式で、特徴のある宝珠形の中心飾の左右に三葉形のパルメット文をのびやかに3回転連続させて、唐草文状に展開させているという。 
蓮子は1+7+11、凸線の鋸歯文が外区に表される。
複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀後葉) 軒丸瓦径18.1軒平瓦幅31.0厚5.5㎝ 西院伽藍塔所用 法隆寺蔵
同書は、西院伽藍出土の軒瓦で、文様の形式化からみて金堂所用瓦が最も古く、塔所用瓦がこれに継ぎ、さらに回廊や中門などの出土瓦が続く。これらの瓦は天武朝の金堂造営から和銅年間の中門造営まで、すなわち白鳳期(7世紀後葉から8世紀初頭)の西院伽藍の造立過程を物語っているという。
上のものよりも、デザイン的には整っている。
大きな蓮子は無数にあるように見えるが、1+7+11。周縁は線鋸歯文が巡る。

均整忍冬唐草文軒平瓦を比べてみると、
斑鳩宮所用の2点はほぼ同笵で、斑鳩寺所用ではないかとされる軒平瓦の均整忍冬唐草文の方がシャープな彫りとなっている。
西院伽藍所用の2点は、このように比較してみると、葉の反り返りや長さなど、思ったよりも異なっている。

     日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦←   →日本の瓦3 パルメット文のある瓦

関連項目
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本の瓦6 単弁蓮華文
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文
韓半島の瓦および塼


※参考文献
「わかる!元興寺」 2014年 ナカニシヤ出版
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂
「仏法の初め、玆(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県安土城考古博物館
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館

2015/02/17

日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦




現在ならまちと呼ばれているところに位置する元興寺は奈良時代の瓦が現在でも屋根に乗っていることで知られているが、中には飛鳥時代の瓦もあるという。
それについてはこちら
『わかる!元興寺』は、法興寺から運ばれてきた瓦は赤みを帯びた色調のものが多く、軒瓦については、法興寺からはほとんど運ばれていない。法興寺の軒丸瓦は素弁蓮華紋であるが、これは元興寺境内における発掘調査により出土した2点以外は確認されていないという。

日本最初期の軒丸瓦は素弁蓮華文だった。

『飛鳥の寺院』は飛鳥寺について、明日香村大字飛鳥に所在する、我が国最初の本格的な寺院。発願は蘇我馬子とされる。法興寺、元興寺とも称する。588年、仏舎利・僧侶・寺工などが百済から献上され、605年(推古13)、鞍作鳥によって仏像が作られるという。
発掘調査によって軒丸瓦が出土した。
『日本の美術358唐草紋』(以下『唐草紋』)は、軒先に葺かれる軒瓦としては軒丸瓦だけがあって、対になるべき軒平瓦を欠くところも百済のばあいと一致するという。
飛鳥寺の軒先には軒丸瓦と平瓦が並んでいたのだった。

同書は、飛鳥寺軒丸瓦の文様は、百済の影響をうけた素弁の蓮華文で、花弁状に表現するものと、角端にして、その先端に珠点を表現するものがある。前者を「花組」、後者を「星組」と呼ぶ研究者もいるという。
『日本の美術66古代の瓦』(以下『古代の瓦』)は、瓦博士の指導によって製作された飛鳥寺のり創建瓦は2形式あるが、それは百済様式とはいえ、祖型は中国の南朝にあり、南朝の造瓦技術が百済に伝わるとほとんど同時にわが国へも伝えられたものであったという。

飛鳥寺第一様式 花組 飛鳥時代 素弁十葉蓮華文 径16.0㎝ 奈良文化財研究所蔵
同書は、周縁は細くなんらの飾りもなく、全体に簡潔な文様であるという。
中房の蓮子は中央に1つ周囲に5つ(1+5と表現するらしいので、以下これに従う)あり、蓮子の延長線上に花弁の境界線がある。そして、蓮子と蓮子の間に2枚の花弁が表されているのだが、その大きさは均一ではない。
飛鳥寺第二様式 星組 飛鳥時代 素弁十一葉蓮華文 径15.6㎝ 奈良文化財研究所蔵
『古代の瓦』は、弁端が角張り、反転した先端をあらわすのに点珠をもってするなど、多少の形式化を認めざるを得ないという。
点珠というのは花弁が反り返った様子を表すものだっのか。
小さな中房に大きすぎる蓮子が1+5、花弁が11枚なので、当然蓮子と花弁の境界線は一致しない。

これらの瓦は百済から送られた瓦博士の指導の下作られたという。

軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文 径13.9㎝ 忠清南道扶余邑旧衙里遺跡出土 国立扶余博物館蔵
『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、百済式瓦の源流は、都を泗沘(現在の忠清南道扶余邑)に遷された百済時代後期の遺跡出土品に求められる。
花弁の先端が反転して桜花状に切り込みが入り、日本で花組と通称されている瓦であるという。
飛鳥寺の花組瓦と比べると、八葉であるために、花弁がふっくらとしている。また、中房が大きく、小さな蓮子のは1+9で、不規則に並んでいる。
このような8弁のものが一番作り易いと思うのだが、日本に来ると10弁や11弁になるのは何故だろう。
軒丸瓦 百済時代(6-7世紀) 素弁八葉蓮華文・点珠 径16.5㎝ 同遺跡出土 国立扶余博物館蔵
同書は、弁端が角張る傾向にあり、先端に珠点を付す角端点珠式で、星組と通称される瓦である。若草伽藍では星組の軒丸瓦が用いられているという。
やはり花弁が8枚なので、花びららしい。中房は上の花組と比べると小さく、蓮子は1+6で、ほぼ等間隔に並んでいる。

点珠のあるものについて、他の寺院より出土した瓦をみていくと、

法隆寺若草伽藍金堂の軒丸瓦1 飛鳥時代(7世紀第Ⅰ四半期) 素弁九葉蓮華文・点珠 径15.7㎝  法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)跡出土 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、法隆寺は、初めは斑鳩寺とよばれ、聖徳太子が住まいとした斑鳩宮に隣接して建立した寺で、創建年代は推古14、5年(606、7)ごろと考えられる。その伽藍跡は法隆寺の西院伽藍の南東に位置し、若草伽藍とよばれ、現在は塔跡の上に巨大な心礎が残されているという。
『唐草紋』は、7世紀初めに造営に取りかかった斑鳩寺、坂田寺や四天王寺において初めて軒平瓦が導入されたという。
『仏法の初め、茲より作れり展図録』は、若草伽藍の出土瓦は、すべて7世紀第Ⅰ四半期と第Ⅱ四半期のもので、その中で最も古い瓦は、金堂に使用された素弁九弁蓮華文軒丸瓦で、飛鳥寺と同じ笵であり、それを転用したことが明らかとなった。ここから斑鳩寺の造営に、蘇我氏の関与・援助があったことは間違いないであろうという。
飛鳥寺には素弁九葉蓮華文の軒丸瓦も使用されていたのだった。
中房の蓮子は1+6で、花弁は9枚ある。点珠と蓮子の大きさが同じくらいだ。
なお、軒丸瓦の忍冬唐草文は手彫りで、下図及び同書の図版2点共に異なった作行きとなっている。

このタイプで八葉のものも作られている。

奥山久米寺の軒丸瓦1 飛鳥時代 素弁八葉蓮華文・点珠 明日香村
やっと8弁になったのに、最も蓮華から遠い表現となってしまった。瓦工は、開花した花であることも知らずに作っていたのだろうか。
蓮子は1+4で、十字に配置される。

平吉遺跡の蓮華文鬼瓦 7世紀中頃 素弁八葉蓮華文・点珠 厚2cm内外 奈良県明日香村平吉(ひきち)遺跡出土 奈良文化財研究所蔵
『日本の美術391鬼瓦』は、高さ37cm、幅35cmのやや縦長な方形に復原でき、下辺中央に半円形の抉り(えぐり)がある。弁端が天地を向くよう配置、まわりに連珠紋を28個めぐらせるという。

実は、この剣尖形の花弁を持つ蓮華文の鬼瓦を見て、蓮華らしい花弁になる以前はこんな形だったのかと思っていたが、どうやら素弁蓮華文の変化していく一つの流れだったようだ。
外区の大きな連珠文に対して、中房の蓮子は消えてしまいそうなほど薄いが、1+8つある。
同じような角端点珠式素弁蓮華文鬼瓦が奥山廃寺(奥山久米寺)でも出土している。

法隆寺若草伽藍金堂の軒丸瓦2 飛鳥時代 素弁八葉蓮華文・点珠 径17.0㎝ 若草伽藍跡出土 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、九葉の割付が不揃いなのに対して、八葉の花弁は整然としているという。 
蓮弁は8枚のため、幅広で、ふっくらしながらも先だけ尖り、そのすぐ内側に点珠がある。これはもう花弁の反転を表すための点珠ではなくなっている。
中房には1+6の蓮子がある。

四天王寺の軒丸瓦 飛鳥時代 八葉素弁蓮華文・点珠
『古代の瓦』は、その創建の鐙瓦は法隆寺の瓦と同じ型を使用して造られ、これは相当型崩れの生ずるまで長く使用されているという。 
『仏法の初め玆より作れり展図録』は、四天王寺の場合も、若草伽藍と同じ伽藍配置を取ること、金堂に使用された素弁八弁蓮華文軒丸瓦と同じ笵のものを使用するなど、飛鳥寺→若草伽藍→四天王寺という推移が推定され、ここでも蘇我氏の関与が判明するという。
8枚の蓮弁や中房が小さい点は法隆寺の瓦と似ているが、中房の蓮子は大きくなって1+6ある。

奥山廃寺(奥山久米寺)の軒丸瓦2 飛鳥時代 六葉素弁蓮華文・点珠 明日香村大字奥山 奈良文化財研究所蔵
『飛鳥の寺院』は、伽藍配置は塔・・金堂・講堂が南から直線上に並ぶ、四天王寺式もしくは山田寺式が想定されるという。瓦は、角端点珠の素弁蓮華文軒丸瓦が創建期のものと考えられている。金堂が7世紀前半から、塔が7世紀後半に造営されたと考えられているという。
飛鳥寺第二様式の「星組」の花弁の数をほぼ半分に減らしたタイプにも見えるが、花弁はかなり盛り上がってつくられ、間にはオシベのようなものがある。
蓮子は1+4が十字形に並ぶ。

蓮弁に稜のあるものがつくられるようになった。

片岡王寺の軒丸瓦 白鳳時代(645-710) 素弁八葉蓮華文・点珠・稜 奈良王寺町
『古代の瓦』は、百済直伝の一形式であるが、花弁が八葉なること、弁端に点珠を配することを特徴とする。類型は大阪・新堂廃寺など帰化系氏族の造立寺院にもみられるが、中房に周溝を設け、弁央に軽い稜をたてるなどの変化があるという。
法隆寺の軒丸瓦では点珠は花弁先端の内側にあったが、ここでは文字通り弁端につくられ、瓦の外区に接している。
中房の蓮子1+8で中房の輪郭に沿って配置されている。

西安寺の軒丸瓦 飛鳥時代末期 忍冬・蓮華交飾・点珠 
同書は、忍冬文と蓮花文を十字に交差した形は飛鳥時代末期の奈良・西安寺にはじまるという。
忍冬文(パルメット文)と呼ばれるものが、こんな早い時期に瓦に表されていたとは。
蓮子は1+8、中央のものは円の中にあり、実際の蓮に近い表現となっている。

そして花弁らしい表現のものも出現する。
 
檜隈寺の軒丸瓦 686年以前 複弁?八葉蓮華文 金堂跡出土 明日香村 奈良文化財研究所蔵
『飛鳥の寺院』は、文献では、686年「檜隈寺・軽寺・大窪寺に各百戸を封ず。三十年を限る」との記事がみられることから、このころには建立されていたことが推定される。
調査の結果、塔・金堂・講堂・中門・回廊などが検出された。金堂は身舎に四面庇をつけた礎石建物であることがわかり、基壇の四周に川原石を敷き詰めていたことも明らかとなった。瓦は金堂の調査で複弁蓮華文軒丸瓦と三重弧文平瓦が多く出土しているという。
弁端は点珠というよりも、先が尖って内傾した花弁を自然に表現したような印象を与えるもので、花弁の中心部には2つに分かれた意匠がある。複弁というものが、日本で表された最初期のものかも。
蓮子は1+4で、十字に並んでいる。
これまで見てきた軒丸瓦の蓮弁の。には楔形の突起状のものがあるが、これは後に作られる瓦のように、下重の花弁が見える、覗花弁と呼ばれるものではないようだ。


                       →日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦

関連項目
日本の瓦3 パルメット文のある瓦
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本の瓦6 単弁蓮華文
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文
日本の瓦8 蓮華文の垂木先瓦
日本の瓦9 蓮華文の鬼瓦
韓半島の瓦および塼
鬼瓦と鬼面

※参考文献
「わかる!元興寺」 2014年 ナカニシヤ出版
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂
「仏法の初め、玆(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県安土城考古博物館
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館
「日本の美術358 唐草紋」 山本忠尚 1996年 至文堂