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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/03/15

ニサ遺跡、正方形の広間はラテルネンデッケ


ニサ遺跡には4本の柱のある部屋や建物もある。
⑫、⑮、⑯がそうである。

⑮正方形の部屋では、ラテルネンデッケの天井の想像復元図がある。
『アフガニスタン遺跡と秘宝』は、ラテルネンデッケの天井とは、方形の天井の四隅に 斜めに梁木を架して、ひとまわり小さい方形の枠を作り、それを積み重ねることによって中心を上に向かって次第に狭めてゆき、最も小さくなった中心頂にドー ムを載せるのである。方形を直角に交叉させるため、隅に三角形ができることから、「三角隅持送り天井」と呼ばれている。現在、アルメニア、パミール、ヒン ドゥクシュの山中やカシュミール地方の木造家屋など、一般の民家でもこの天井がみられる。 
この様式の源流はどこにあるのであろうか。トルクメン共和国、イランとの国境に近いニサにパルティア王国時代の都城址がある。この宮殿の天井にこれがある。紀元前3-2世紀のものである
という。

想像復元図では、焼成レンガを積み上げた四葉形円柱以外の材料は、日干レンガの外壁を除けば木材になっている。
当時どれほどの森林が近くにあったのかわからないが、材木の長さが梁となり、部屋の柱間の幅はそれが限界となる。

角形の部屋に明かり取りの天窓をつけるとしたら、このような形になるのだろう。
広間となれば、4本の柱で支えたラテルネンデッケの外側には平天井を架けていたとしている。
これは、ずっと後の時代、サマルカンド、アフラシアブの丘で発掘されたソグドの宮殿謁見の間でもこのような構造とされている。

ラテルネンデッケはなかったが、ブハラのアルクに残る金曜モスク(ジャーメ・マスジディ、17世紀)も同じような構造となっていた。
内部の広さは、わたす梁の長さで決まるようで、ウズベキスタンで見たこのような格天井の1単位は、どれもこのくらいで、ニサの正方形の部屋の想像復元図ほど大きなものではなかった。

正方形の部屋では、4本あった四葉形円柱で確認できるのは2本だけである。
『OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE』は、建物は2層で、20m四方、高さ11-13m、日干レンガの壁は4-6mの厚さ、天井の明かり取りから光が入る。屋根は1m四方の素焼きのタイルで覆われていた。広間の被覆材は木製。2階は円柱の間に壁龕があり、そこには高さ2-2.5mの塑像があり、鮮やかな鉱物絵の具で彩色されていた。
この部屋を謁見の間とする研究者もいるという。

他の正方形の部屋で中央に4本の柱のあるものは、やはり明かり取りのあるラテルネンデッケの天井が造られていたのではないだろうか。

たとえば、⑫赤い広間、⑯櫓状建物の柱廊玄関

⑫ 赤い広間
上の平面図では、4本の円柱は正方形をなしていないが、広間に天井がなかったとは思えない。
上から眺めると正方形に見える。やはりこの4本の柱の内側には、明かり取りのラテルネンデッケがあっただろう。

⑯ 櫓状建物の柱廊玄関
玄関だが、そこに4本の円柱があるとなれば、高い天井が架けられていたはず。
となれば、やはりこの間の天井にはラテルネンデッケの明かり取りがあったのでは。

ただし、ラテルネンデッケの最古のものは、ニサではなく、トラキアにあるらしい。
それについてはこちら

        ニサ遺跡、円形の広間のドーム← →ニサ遺跡の出土物はヘレニズム風

関連項目
円錐ドームならミケーネにも
円形平面から円錐ドームを架ける
ラテルネンデッケの最古はニサではなくトラキア?
ニサ3 正方形の広間と櫓状建物の柱廊玄関
ニサ2 円形の広間と赤い広間


参考文献
「OLD NISA IS THE TREASURY OF THE PARTHIAN EMPIRE」 2007年 
「週刊シルクロード紀行14 メルヴ・アシガバード」 2006年 朝日新聞社
「季刊文化遺産13 古代イラン世界2」 2002年 財団法人島根県並河萬里写真財団
「アフガニスタン遺跡と秘宝文明の十字路の五千年」 樋口隆康 2003年 NHK出版
「古代オリエント事典」 日本古代オリエント学会編 2004年 岩波書店