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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/05/27

唐招提寺1 南大門から金堂へ


久しぶりに唐招提寺を訪れた。奈良に着くと雨が降り出して、写真を撮るには少し残念な日だった。
JR奈良駅東口⑥乗り場からバスが出ている。
20分弱で唐招提寺南大門を過ぎたところにある「唐招提寺」というバス停で下車。分かり易いし楽。
バス停から少し戻って南大門前より門と周壁を撮影。
道路も狭いが、南側に家並みがあるので、全体を捉えることができない。
南大門と周壁の続き。その向こうの新しい建物は社務所。
南大門は、唐招提寺で購入した『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』には説明がない。
あまり重要な建物ではないのかなと、同寺ホームページを開くと、昭和35年(1960)に天平様式で再建されたもので、5間の中央に三扉とする切り妻造の建物ですという。
私よりも若かった。
中央の扉口上に何とも簡素な扁額があり、控えめな大きさで「唐招提寺」と書かれている。
新宝蔵に本物があった。扁額ではなく勅額というらしい。

勅額 縦148.0横117.0㎝
同書は、孝謙天皇(718-770)の御筆と伝えられ、講堂または中門に掲げられたという。文字は王羲之の書風にならった細身の行書で、字の輪郭線からやや斜め内側に刀を入れて刻まれている。中央の大部分はヒノキの一枚板で、もとは周囲に飾り縁がついていたという。
前日に大阪市立美術館で「王羲之から空海へ」展を見てきたばかり、何という奇遇。

門を入ると金堂の屋根だけが木立の奥にあって、静寂な空気に満ちている。2種類のサクラも新緑を際立たせる程度なのが好ましい。
中門が失われているためにこのような空間が生まれたのだが、ずっとこのままでいてほしいと願う。
左にある境内図。まずは金堂を拝観し、その後新宝蔵へと向かう。

この辺りが金堂全体を写せる限界かと思って撮ったのだが、左の屋根が木に隠れていた。

金堂 正面7間、奥行4間
同書は、奈良時代の金堂建築として唯一現存する貴重な建物で、鑑真和上の弟子如宝(にょほう)により建立された。正面庇1間通りを吹き放しとし、柱間は中央間から両端間に向かい段々狭くなっている。柱は直径60㎝と太く、下から2/3は真っ直ぐで、残りの1/3は上方に向かって補足なっている。屋根は寄棟造、本瓦葺で、大棟両端には平成大修理で新しく造った鴟尾を飾るという。

大修理以前まで屋根にのっていた鴟尾は、新宝蔵に展示されている。

東側鴟尾 鎌倉時代、元亨3年(1323) 高117.5㎝
同書は、鎌倉製作の鴟尾は、当然当初の鴟尾に倣って大きさ・形を造っているが、よく見ると2つの鴟尾は全く異質であることが分かる。鴟尾の腹には製作年月日と作者銘が陰刻されているのも貴重であるという。
その銘文がよく読めないのだが、作者は壽王三郎正重かな?
西側鴟尾 奈良時代 高120.4㎝
どのように違うのか、同書は、全体の形・細部の仕上げ・材質等で、当初の鴟尾は大らかで対立的であるが、鎌倉の鴟尾は緻密で現日本人に近い感覚で造られているという。
2つの鴟尾は一見して異なるが、それは風化によるものだと思っていた。
平成の大修理をまとめた『共結来縁』に、平成の鴟尾を製作する図版があった。この面を腹という。

屋根の方を眺めたついでにもう一つ、いやもう2点、気付かなかったが、興味を惹かれるものが『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』に掲載されていた。
それは隅鬼である。

西北隅鬼 奈良時代
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、隅鬼は金堂の四隅に4個用いられ、隅軒先で上方の荷重を支えている。4個のうち3個は当初材、材種はヒノキ、筋骨隆々でその姿は力強さに満ち溢れ、仕上げ痕を残さないように丁寧につくられているという。
大きな歯が並んでいるが、その下は顎なのか、お腹なのか・・・
本当に力強さがあらわれている。すごい。
西南隅鬼 江戸時代
同書は、元禄取替材で、材種はマツ、仕上げは丸のみの痕跡を強く残し、その姿は少し猫背気味で情けない表情を浮かべているという。
これはこれで面白い。深目高鼻系で、ソグド人みたいだが、江戸時代にソグド人は日本にはいなかったと思う。
こんな面白いものを見逃したとは・・・

『共結来縁』の平成の大修理、2003年の図版に隅鬼が登場していた。
 
金堂正面の灯籠はあまり古くなさそう。

                       →唐招提寺2 金堂建物の細部

関連項目
唐招提寺5 境内を巡る
唐招提寺4 鬼瓦
唐招提寺3 金堂内部

参考サイト
唐招提寺のホームページ

参考文献
「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年淡交社
「共結来縁」 2009年 唐招提寺