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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/06/10

唐招提寺5 境内を巡る


唐招提寺の境内には鑑真和上に関したものが複数残っている。それを見がてら境内を一回りした。


新宝蔵を見学した後、来た道を少し戻って右折、
階段を登っていくと、右側に外装の剥がれた塀が続いていた。
この門の向こうに鑑真和上御廟があるらしい。
門の中は木立は背が高過ぎて葉が視界に入らず、ひたすら青い苔が海のようにひろがるばかり。
墓廟の堀か池かわからないが、水はあまりきれいではいのに、葉の色を鈍く映す。
小さな橋を渡ると灯籠の向こうに小山が。あれが鑑真和上の御廟らしい。
大きく盛り上がって古墳みたいで、頂部の宝篋印塔が場違いに感じる。
『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』は、鑑真和上の廟は、没後に寺の東北に葬られその地につくられた。小高い方墳状の土壇の上に、鎌倉時代後期の宝篋印塔(ほうきょういんとう・総高2.5m、笠石上部と相輪は後補)が立っている。鑑真和上の命日(6月6日)に因んで、和上が将来した舎利を礼拝し、和上の徳を偲ぶ(開山忌・御廟法要)という。
ここが元から鑑真さんのお墓だった。古墳のように土を盛ったのではなく、境内が北にいくほど高くなっているので、このような小さな丘があったのだろう。
右手には若い木が蕾をつけていた。
アジサイのような花で、「瓊花 鑑真和上の故郷、中国揚州の名花。毎年4月下旬~5月上旬にかけて咲きます」という札があった。
同書の写真
その数日後、唐招提寺の御影堂の供華園で瓊花の白い花が咲いたというニュースを見た。

御廟の門を出て、その前の道を歩いていると、ある門の前で中をのぞいている人たちがいた。
行ってみると、これが御影堂だった。
同書は、御影堂は、建設当初は興福寺の別当の一つ一乗院の御殿であったが、 ・・略・・ 昭和39年(1964)に唐招提寺の現在地に移築され、当初の姿に復原された。建物は書院造で、「宸殿」には国宝の鑑真和上坐像が安置され、毎年6月の開山忌と9月の観月讃仏会に拝観できるという。
今年は修復中で、鑑真和上坐像は新宝蔵に安置され公開されているというニュースがあった。
その前を進んで行くと左手に新しい建物が木々の間から垣間見えた。
「開山堂 鑑真和上身代わり像 どうぞお参り下さい」という札に導かれて表側に回ってみると、真新しい鑑真和上像が安置されていた。
「御身代わり像(御影像)は、年間通して数日しか開扉しない国宝の和上像に代わって、毎日参拝していただく目的で平成25年に制作したものです。
またこの像は奈良時代の脱活乾漆技法を忠実に踏襲した大変貴重な模造です」という説明書きがあったが、石段には結界があって近寄れず、また入口にはガラスが入っているので、色彩鮮やかな新しい像というくらいにしか見えなかった。
せっかく制作当時の技法で造られたのだから、もっと近くでその技をじっくりと拝見したかった。 


白い藤の咲く藤棚を見て左の道に入り、
ショウブの葉が青々と茂る傍を辿ると、戒壇に行き着く。

戒壇 鎌倉時代(昭和53年宝塔建立)
同書は、金堂西側に位置し、東西南北各面の中央に開口部を設け、南・東面には門を開く土塀に囲まれた一画があり、その中央に石造の戒壇がある。戒壇は僧に資格を与える場所で、寺にとっては非常に神聖な一画である。戒壇は3段に積まれ、3段目中央には昭和に製作されたストゥーパが立つ。元々この戒壇は覆堂により覆われていたが、嘉永元年(1848)の火災により焼失しているという。
鎌倉時代の戒壇なので、これも鑑真和上の没後に造られたもの。
戒壇から正面に鐘楼がある。
あまり古そうな鐘ではなかった。

講堂にも入ってみたが、鎌倉時代(弘安10年、1287)の大きな弥勒如来坐像が安置されており、その東には平成の大修理の様子が写真パネルで紹介されている程度だった。
同書は、平城京の朝集殿を移築した建物で、本来柱間は殆ど仕切られていなかったが、移築時に講堂としての体裁を整えたようである。この堂は、鎌倉時代の修理により当初の形式が大きく変更されている。堂内には折上小組格天井を新設し、本来化粧屋根裏だった小屋組に野小屋を設け、屋根を高くしている。扉構えは当初の板戸から桟唐戸に変更し、柱間には補強材として木鼻付の頭貫・飛貫・腰貫を入れているという。
何となく古くは感じなかったが、改変されているとはいえ、奈良時代の建物だった。

その東正面には鼓楼(舎利殿)、右に金堂、左に講堂。

鼓楼の奥には、東室と
礼堂があり、その繋ぎ目がこんな風に屋根付き通路となっている。それぞれに巡った縁側は、お寺では珍しく拝観者が一休みできるところとなっている。

『新版古寺巡礼奈良8唐招提寺』には、鑑真在世中の寺の姿という項目があった。それは私の知りたいことでもあった。
唐招提寺は、かつては鑑真の亡くなるまでに完成したとする研究者もあったが、今ではそれは認められなくなった。金堂の解体修理に伴う調査で、部材の年輪を調べることにより、垂木の中に天応元年(781)ごろに伐採された木が見つかっている。少なくとも金堂の完成は、鑑真の没後だったことが確実である。では鑑真が天平宝字7年(763)に亡くなるまでの唐招提寺は、どのような姿だったのだろうか。
鑑真の在世中にできていたことが確かなのは講堂である。平安時代前期に唐招提寺の縁起と財産を書き上げた『招提寺流記』には、講堂が「平城の朝集殿を施入した」ものだったとある。平城宮では天平宝字の初年から、大規模な改造工事が始まっており、建て替えることになった東朝集殿の建物が、造営中の唐招提寺に払い下げられたというわけであるという。
食堂は、先の『招提寺流記』に、藤原仲麻呂家から施入されたとある。
また僧房では、東北第一房、東北第二房、西北第一房などが「用度帳に見える。『招提寺流記』では、これらの僧房は、鑑真に随行した弟子の内、年長者と見られる法載や義浄が建立したとしてあり、これも矛盾はない。西北僧房の北にあった鑑真の住房の「大和上室」(のちに開山堂となる)とともにこれらの僧房も早く整備されたと考えられよう。
羂索堂は『招提寺流記』に、藤原清河家から寄進されたとある。
唐招提寺の造営で特徴的なのは、寄進による建築が少なくないことだ。有力者、あるいは広く庶民からの寄付で、堂塔を建てたり修理したりするのは、唐の社会では当たり前のことだった。もっぱら朝廷や地方の役所、豪族などが費用を出して寺院を建立する日本の古代の方が、むしろ特殊といってよい。それは仏教信仰の広がりと深さが違っていたからで、仏教が入ってまだ200年にしかならない日本は、それだけ遅れていたのであるという。


                  唐招提寺4 鬼瓦


※参考文献
「新版古寺巡礼奈良8 唐招提寺」 西山明彦・滝田栄 2010年 淡交社