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忘れへんうちに 旅編に、ウズベキスタンの旅・トルクメニスタンの旅、キルギスの旅に続いて、タジキスタンの旅の様子を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2016/12/02

アイ・ハヌム遺跡


アイ・ハヌム遺跡について『黄金のアフガニスタン展図録』は、前323年にバビロンで病死したアレクサンドロス大王の帝国は、「後継者」を名乗る将軍たちによって分割され、西アジアや中央アジアの大部分は、セレウコス朝シリアに引き継がれた。本章で紹介するアイ・ハヌムにギリシア都市が建設されたのはこの頃である。バクトリアと呼ばれたこの地域は、アム川(古代名:オクサス川)とヒンドゥークシュ山脈に挟まれた肥沃な耕作地帯と、ラピスラズリなどの資源に恵まれており、帝国の王たちにとって、この地は統治するメリットがあったのであるという。
アムダリヤの流れでいうと、アイ・ハヌムの下流にタフティ・サンギンは位置している。

同書は、アイ・ハヌムは、北方で活動する遊牧民等からバクトリアを防衛し、周囲の工作地とラピスラズリの採掘地バダフシャンを治めるための拠点都市として建設されたと考えられる。
バクトリアのサトラップ(総督)であったディオドトス1世は、前3世紀中頃に独立を果たした。グレコ・バクトリア王国の成立である。
1961年、アム川周辺で狩猟をしていた当時のアフガニスタンの王ザーヒル・シャーは、アイ・ハヌムの農民から石灰岩でできた古代の遺物を見せられた。それはコリント式と呼ばれるギリシア様式の装飾をもつ柱頭であった。「幻のバクトリア」が、ついにベールを脱ぎ始めた瞬間であったる1965年から始まったポール・ベルナールによる本格的な発掘調査は、ソ連軍がアフガニスタンに軍事介入した1979年まで続いたという。
同書は、アイ・ハヌムはアム川とコクチャ川の合流地点を頂点に、付近の切り立った岩山を斜辺とする直角三角形の自然地形を利用して建設された。外敵の侵入を受けやすい北側の一角には、アム川と岩山の北端とをつなぐ強固な市壁が築かれた。公共建造物が建ち並ぶ都市の中枢施設はアム川沿いの「下の町」すなわち低いほうの土地にに配され、岩山を利用した高い場所の「上の町」には要塞が築かれ、守備兵が駐屯していた。町が川に沿って立地する点や、「上の町」と「下の町」で構成される点は、セレウキアやドゥラ・エウロポスといったセレウコス朝が建設した都市とも共通する。
北側の市壁に築かれた市門を抜けると、ますぐな大通りが岩山の麓に沿って北東から南西に向けて走っている。居住区は大通りに並行して区画されており、ヒッポダモス式といわれる碁盤目状の街区をもっていたようであるが、王宮等の建造物の軸線はずれているという。
アイハヌムとアムダリヤ(濁っているので土地と見分けがつかない)。その向こうにはタジキスタンの山。
2000年当時の風景

同書は、都市の内外には、灌漑システムと連動した水路が巡っていたと考えられる。西側の市壁とアム川との間には湧き水を取水する施設があり、ユニークな樋口がそのままの状態で発掘されたという。

仮面付樋口 前2世紀前半 石灰岩 21.0X40.0X19.0㎝ 市壁外側の取水施設出土
同書は、この施設は、地中にしみこんだ灌漑用の水路の水が、再び地表に湧き出る場所にあった。人面形に加工された樋口は珍しく、独特の装飾方法である。素晴らしい彫刻家の手による作品であり、この作者は劇場で使用された演劇用の仮面を熟知していたものと考えられるという。
エピダウロス遺跡の博物館では、ライオンの樋口が最も多く、イヌの樋口もあった。人頭、あるいは演劇用の仮面というのはアイ・ハヌム独特のものかも知れない。

同書は、左手に劇場を見ながら大通りを南下すると、右側に、コリント式柱頭やギリシア様式の瓦の端飾で飾られた列柱門があったという。

屋根飾の復元配置図
同書は、地中海地域のギリシア都市では、建物の屋根は切妻型の三角屋根であったのに対し、西アジアやバクトリアの建築では、片方にわずかに傾斜する平たい屋根が一般的であった。アイ・ハヌムの公共建築では、特に傷みやすい屋根のへりの部分が、テラコッタ製のコリント式平瓦で葺かれ、その先端に、アンティフィクスと呼ばれる飾がつけられた。ギリシア様式に見られる装飾であるという。
オリンピア遺跡の博物館で見たアンテフィクス(前430年頃)はこちら
瓦の端飾 前3世紀 テラコッタ 28.0X19.0㎝
パルメットと呼ばれるヤシの葉を模した装飾を特徴とするという。
エピダウロスの博物館にある前4世紀のアンテフィクスに比べると、型作りには違いないが、葉が紐状に表され、力強さがない。

同書は、この門をくぐると、宮殿へとつながる道があり、その傍らにキネアスの廟があった。都市の中枢に建立されたこの廟は、都市にとって重要な人物のための墓であったに違いない。こうしたことからキネアスは都市を創建した人物の1人であったと考えられている。
石碑断片とその台座には、アイ・ハヌムの市民が規範としたであろう古代ギリシアの格言が刻まれている。石碑を建てた人物は、キプロス島のソリ出身の哲学者クレアルコスであったと考えられているという。
碑文は最後にあります。

同書は、宮殿とその付属施設は、8.7haほどの敷地に広がっていた。第2の列柱門をくぐって敷地へ入ると四角形の王宮前広場に出る。コリント式柱頭をもつ118本の柱が立ち並んだ回廊に囲まれた空間であったという。
この図版が、王宮前広場かどうかは明記されていないのだが、コリント式柱頭の大きさが、その横に写る人物の大きさでわかる。
各円柱の四方に空いた穴は何だろう。

コリント式柱頭 前145年以前 石灰岩 81.5X81.0X74.0㎝ 
同書は、アイ・ハヌムでは宮殿の列柱などに好んで用いられた。本資料は完形に近い状態で残っていた貴重な柱頭で、4重に重なったアカンサスの葉と、そこから直接上方に突き出る渦巻装飾が特徴的である。渦巻装飾は四方に張り出しており、柱頭のこの部分の断面は四角形に近い。このような形状は、地中海のギリシア都市や、バルフで発掘されたコリント式柱頭とは異なるものであるという。
ギリシア、ペロポネス半島に位置するエピダウロス遺跡では、古い時期(前360-320年頃)のコリント式柱頭のモデルを見たが、それも上方が四角形だった。
上の柱頭は、発見された場所は、都市の南東にある岩山の上であった。アフガニスタンの内戦当時、岩山はタリバン勢力と対峙していた北部同盟の陣地となっており、この柱頭は砲台の建設作業に従事していた兵士によって彫り出されたという。
何時の写真がわからないが、遺跡から彫り出した柱頭がチャイハナに再利用されることとなった。しかも逆さ向きにして、柱頭ではなく、柱礎として梁を支える太い円柱を支えていた。

同書は、アイ・ハヌムの王宮建設は、行政区画や居住区画と中庭が複合的に連なった建築であった。実は、このような特徴は、西アジアの宮殿建築と共通したものである。
バビロンのネブカドネザル2世(前6世紀前半)の宮殿や、スーサやペルセポリスで発掘されたアケメネス朝ペルシャの宮殿建築にその原型があるとされる。
タジキスタンのサクサノフルで発掘された宮殿では、アイ・ハヌムの宮殿と同様に部屋や空間が廊下で仕切られており、この間取りがバクトリアで発展した特有の建築様式であった可能性も指摘されている。また、日干レンガを建材に壁を築き、平らな屋根をかける建築方法もまた西アジアのそれである。
西アジア様式を基本とする宮殿であっても、ギリシア様式の装飾や空間構成を多用していることは注目すべき特徴であろう。
中庭の南側中央に設けられている凸状の空間が宮殿のエントランスホールである。エントランスホールの南側は行政区画であった。
行政区画の西側には、支配者の居住区画があった。居住空間は、小さな中庭とそれに連なる複数の部屋を1つのユニットとする構成である。アイ・ハヌムの宮殿では、大小2つのユニットが確認できる。居住空間からは浴室も発掘されており、その床に施されたモザイク装飾は素晴らしいものであったという。

王宮浴室 前4-2世紀
同書は、花や海の生き物の図柄をあしらった伝統的ギリシア様式のモザイクであるという。
しかも、切り石(テッセラ)ではなく、色の異なる丸石で表したペブル・モザイク。いつの日にか現地で見られますように。

瓦の端飾 宮殿エントランス
同書は、翼と植物文様とを組み合わせた独特の装飾である。存在感の強いデザインとなっているという。

大通りに戻ると、「龕のある神殿」がある。
同書は、龕のある神殿のプランは完全に西アジアの建築様式であり、まず3段からなる基壇はペルシャに見られる特徴である。神殿からは、キュベーレ女神が表現された銀盤など興味深い遺物が発見されており、これらはアイ・ハヌムで実践されていた多様な信仰や祭礼を示唆しているかも知れない。特にキュベーレはアナトリア起源の女神であり、注目に値するという。

キュベーレ女神円盤 前3世紀 銀鍍金 径25.0㎝
同書は、様々な図像が表現された銀盤で、表面に施された金がアクセントとなる。図像の形式から前300年前後に製作されたものとされ、本来は木製品に取り付けられていたようである。
2頭の獅子が牽く車に乗る女神は、ポロスと呼ばれる城砦を模した冠を被っていることから女神キュベーレに同定されている。キュベーレはアナトリア起源の地母神で、ヘレニズム世界では都市や国家の守護神として信仰をあつめた。日傘を差しかざす人物は神官である。キュベーレの乗った車は、所々に花が咲く岩場を進む。向かい側には6段からなる祭壇が表現されており、神官が儀式を執り行っている。空には、太陽神ヘリオス、三日月、星が輝いている。
ライオンに牽かせたキュベーレは地中海やアナトリアに由来する図像であり、ニケはギリシアにおける勝利の象徴である。一方、神官たちの姿は西アジアの図像であり、車の大きめの車輪や高い手すりはアケメネス朝ペルシャの戦車に類似する。このように本作品に表現された図像は、ギリシアと西アジアの要素が混じり合った興味深い構成となっているという。
太陽神に届きそうな金の棒状のものは何だろう。
2頭並んだライオンは足が力強く表されている。同じ姿勢をとっているのに、顔だけは違っている。手前のライオンは正面を向いているのに、奥の方は下を向いている。
地面が石ころだらけで、整地されていないのに、鍍金されている。鍍金というのは重要な部分に施すものなので、アイ・ハヌムという町、あるいはバクトリアの国土を表しているのかも。
キュベーレの傍らで手綱を握り、車を御しているのは、ギリシアの有翼の女神ニケであるという。
キュベーレの目には貴石が象嵌されていたようで、それが外れて容貌がわからない。
キュベーレの衣装は、左袖から垂れた長い肩掛けの衣端が、丸みのあるギザギザで表されている。このような、西アジアでも製作され続けたギリシア風の着衣の表現が、やがてガンダーラへ、そして中国へ。遂には日本へも請来されていく。

同書は、アイ・ハヌムの市民たちの信仰や宗教については、神殿の発掘によってうかがい知ることができる。この神殿は、3段からなる20m四方の基壇上に建てられたもので、外壁に連続する壁龕(壁に設えられたくぼみ)が施されていたことから、「龕のある神殿」などと呼ばれる。
神殿の内陣には、巨大な神像を置くための石積みの基台が残っており、実際に像の一部が出土した。それらはギリシア様式のサンダルを履いた大理石製の左足と、手の断片である。サンダルの装飾から、神殿の主神はギリシアの最高神ゼウスか、東方で信仰された神-例えばゼウス神とミトラ神が習合した神であった可能性が指摘されているという。

ゼウス神像左足断片 前3世紀 大理石 28.5X21.0㎝ 龕のある神殿出土
同書は、限られた範囲の断片ながら強い迫力を持ち、複雑に隆起した指の充実感が威厳に満ちた像容を想起させる。左足以外には両手首の大理石断片のみが発見されているため、頭部や手足以外の大部分はストゥッコ(漆喰)や土といった代用材で造られていたと推定される。大理石は西方からの輸入材として極めて貴重であった。
サンダルの履き込みにはハート形の中に渦巻くパルメット装飾が見られ、左右の帯には花文に続いて、広げた鷲の翼を持つ雷霆(稲妻)がシュロの葉を束ねたような形で表されている。雷霆は全能の神ゼウスの武器であり、これによって本作はゼウス神像の断片とわかる。アレクサンドロス3世のテトラドラクマ銀貨にはサンダルを履いて椅子に腰掛けたゼウス神が、左手に杖を餅、右手に鷲を載せた姿で表されており、本作も同様の姿であったと考えられている。足の大きさからみて、像は等身の倍以上あったことがわかるという。
足の指1本1本をそれぞれみごとに彫り出されている。現代のものと異なって、サンダルの底が親指とほかの4指で分かれていた。

同書は、アイ・ハヌムで発掘された宮殿建築は、実は前2世紀に再建されたものである。これだけの規模と付属施設を備えだ宮殿は、まさに王都にあるような類の宮殿であり、当時のアイ・ハヌムが周辺地域を統治するための単なる拠点であったとは考えにくい。この大規模な宮殿施設を整備したのは、前2世紀前半のグレコ・バクトリア王国の王エウクラティデス(在位:前171-145年頃)であったとする意見がある。ローマ時代の地理学者ストラボンは、バクトリアには当時、首都バクトラの他に、王の名前を冠したエウクラティディアという都市があったことを伝えている。
ベルナールによれば、前145年頃にアイ・ハヌムのギリシア人たちは都市を放棄し、宮殿や神殿は侵入した遊牧民族によって略奪され火をかけられたとされる。
グレコ・バクトリア王国が滅亡したあとも、ヘレニズム文化が消えることはなかった。当時のギリシア人たちは北西インドにも進出しており、ヘレニズム文化はこの地に興ったクシャーン朝へと受け継がれたという。
文様の伝播も、作品だけではなく、それを好む人々や作る工人の移動もあったのだ。

ところで、2016年9月に逝去された加藤九祚氏氏の著書『シルクロードの古代都市』に「死ぬときは悔ゆることなかれ」-ヘレニズムの都市遺跡アイハヌム-という章がある。
そこには上述のキネアスの廟より出土した石碑の台座にあった銘文についての記述がある。
奉献文の大意はつぎの通りである。
「栄光あるピトイの聖所に、賢明な大理石は昔の英雄的な男子の言葉を真に残している。クレアルコスはあますところなくこれを書き写して、遠くからでも明るく輝く英雄キネアスの神殿をこの地に立てた」
ここに言う「ピトイ」とはデルフォイの神殿のことであり、「昔の英雄的な男子の言葉」とはデルフォイのアポロ神殿にある約150句の箴言をさしている。キネアスの廟にこの箴言を彫り込んだ石碑が建てられたが、箴言の最後の部分が台座の正面からはみ出て、その左右に彫られている。ベルナールの訳によるとつぎのとおりである。
少年のときは礼儀正しく、
青年のときには情熱を制御し、
中年になれば義者であり、
老年になればよき助言者であれ。
死ぬときは悔ゆることなかれ。
このテキストはつぎのことを示している。第一にアイハヌムの公用語と文字がギリシア本土のものであったこと、第二にデルフォイの箴言がデルフォイから5000㎞離れた東方のアイハヌムにおいても大切にされていたことという。
この言葉を、氏が読者に呼びかけられたものとして、これからも美術史の勉強を続け、「あー面白かった。楽しかった」と、自分の人生を振り返りたいものである。



       タフティ・サンギン遺跡オクス神殿

関連項目

ギリシア神殿5 軒飾りと唐草文
オリンピア4 博物館1 フェイディアスの仕事場からの出土物
エピダウロスのトロス1 コリント式柱頭

※参考文献
「黄金のアフガニスタン 守りぬかれたシルクロードの秘宝展図録」 九州国立博物館・東京国立博物館・産経新聞社 2016年 産経新聞社
「世界美術大全集東洋編15中央アジア」 1999年 小学館
「シルクロードの古代都市-アムダリヤ遺跡の旅」 加藤九祚 2013年 岩波書店(新書)