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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/01/31

白衣観音図


京都の住友泉屋博古館で16年秋に開催された「高麗仏画展」では、白いヴェールを被った菩薩、特に観音菩薩像が印象的だった。それらは「水月観音像」と呼ばれていて、同展図録は、水月観音の名は、すでに9世紀の敦煌仏画のかたわらに「月観音」という表記が見られるという。
水月観音図についてはこちら
しかしながら、岩陰に佇む観音といえば、白衣観音が思い浮かぶ。 日本では禅宗仏画として水墨画で白衣観音図が描かれてきた。若い頃は私もそのつもりで見てきたので、高麗仏画の華麗に彩色されたたくさんの水月観音図に「高麗仏画 香りたつ装飾美展」で出会って、まずは驚いた。

『日本の美術69初期水墨画』は、禅宗仏画の中では白衣観音図が最も多く、楊柳観音・如意輪観音などがこれにつぐ。しかし通常の白衣観音の姿は儀軌には説かれておらず、おそらく唐代以降の像容であろう。一方楊柳観音も右手に楊柳の枝をもつ古い姿はみられずに、楊柳瓶をかたわらに置くものの全体の相としては白衣観音図に近い。同様に如意輪観音も通常の六臂には描かれずやはり似た姿になる。また三十三観音の中に滝見観音という相があるが、この要素も白衣観音の図容に含まれる場合が多い。これらのことを総合して考えると禅宗では儀軌は問題にせず、観音菩薩のもつ慈悲と力を白衣観音の姿に包括して表したものと解した方がよかろう。そこで像容の近い観音図を年代順に並べて一覧すると次のようになるという。
なんと、いつものように図版を年代を遡るあるいは順に並べるという手間をかけずに済んでしまった。

如意輪観音図 1300年ごろ 絹本着色 鏡堂覚円賛 岡崎市大樹寺蔵
同書は、金泥で壮厳された豪華な宝冠、身にまとう薄衣も褐色と緑青の彩色に細かい波形文などの金泥が施される。肉身の輪郭線には朱線が重ねられるなどほぼ伝統的な仏画の手法によっている。しかし岩の描写は上面を表地のまま残し、稜線を明確に引いて立面に濃墨で彩る手法は水墨画的な技法といえる。鏡堂覚円(1244-1306)は子学祖元とともに来日した高僧で建仁寺16世。
むしろ旧来の仏画の範囲にはいる像容と金泥彩色をもつがわずかに当たりのある墨線と薄墨の隈を用いる像と墨だけで描かれた岩石は、単に宋元画を学んだ仏画という以上に水墨画的趣致が観取される。しかも岩石の皴と墨暈の技法は一山賛の達磨図のそれに近似しており、時代の近さを表しているという。
こちらは白衣観音と水月観音の中間のような描き方で、日本の仏画とは雰囲気が異なる。鏡堂覚円が来日した時に画僧も連れてきていたのかも、その画僧が日本の僧か画工に描き方を伝授して描かれた作品かも、と想像させる。
 
白衣観音図 1317年以前 絹本墨画彩色  一山一寧賛 京都光明寺蔵
同書は、彩色を伴う図で、観音の姿も小さく穏和で、樹石の表現にもさほど水墨画的趣致はみられない。左上方に濃墨で枯木を描き、胡粉で彩色された小鳥が描かれるのが珍しい。
図上方に枯木と一羽の小禽を描くのが新味といえようか。しかし像の表現はまだ線的ではないという。
破損箇所が多いので、白い小鳥と傷が見分けられない。もっとも、記載された文献が古いので、現在では修復されてよくわかる可能性はある。
この観音は大きな円光に包まれていないのでは?しかし、下の弧線は見えているような。
 
白衣観音図 1320年以前 絹本墨画 約翁徳倹賛 奈良国立博物館蔵
同書は、細身の観音が淡泊な線描で表され美しい。左端に滝を落とし、右上方に雲烟のなかに竹叢を描いて巧みに調和を保つ。墨の濃淡を主にした岩や竹、地塗りによって円光部を浮かびあがらせる描法はきわめて水墨画的なものといえよう。約翁徳倹(1244-1320)は蘭渓道隆の高弟で建仁・建長・南禅に住したという。
白衣観音図を取り巻く自然や童子など、高麗仏画の水月観音図と共通するものがほぼ網羅されて描かれている。

白衣観音図 1329-42年 絹本墨画 黙庵筆 平石如砥賛
同書は、遙か前方に一条の落瀑を見る懸崖の下、岩上に白衣の観音がゆったりと描かれる。簡単な描線のなかにかくされる観音が軽やかで、これに呼応するように岩や崖が柔らかい潤いのある筆致で描かれるのが好ましい。岩の下方に墨色が薄れるように潑墨の技法が用いられることなど、元画に負うところが多い。平石如砥は無準師範の法系に属し、わが国にも名が聞こえ、天童山で黙庵が学んだ僧であるという。
滝は残っているが、童子も、水瓶も消えてしまった。滝を見ながら頬杖をついて、観音さん、和み過ぎ!
 
白衣観音図 1344年以前 黙庵筆 了庵清欲賛
同書は、上図とほぼ同じ形の図である。少し観音の姿が近くなり、滝の替りに遠山が配される。像の筆致はさらに柔らかで丸味をおび、岩と崖は水気の多い筆で没骨風に描かれる。ここでも遠山が図の奥行きを深めていて、景観的な表現を行なっているのが黙庵の観音図の特色になっている。了庵(南堂)清欲は古林清茂の法を嗣いだ元僧で、本覚寺に住した時に黙庵が参禅しているという。
滝もなくなり、寝そべった観音の目の先には何があるのだろう。同時代の白衣観音図と違っている。
同書は、黙庵画の特徴はさらに像の扱いを景観的にして、瀟洒な図に仕上げていることである。黙庵の作品は総て彼地で描かれたものであり、そのために少し古様な可翁画などとは違って当世風の元画に近くこの意味では日本の初期水墨画の系列に入れると実際年代よりは新しい感覚で描いたような印象を与えるという。
そういうことだったのか。それにしても、この幅は、横線はあるものの、上図のような縦線が見られない。絹本ではなく、紙本だったのだろうか。
 
白衣観音図 1345年以前 絹本墨画 可翁筆
同書は、約翁本と図容・画風が非常に近い。童子が描かれず、竹叢が崖と枯木に代わっている。岩の線描が少し強調され、点苔がふえることと雲烟が希薄になって透明度がふえる点に水墨画的な発展をみることがてきようか。観音を非常に近くにおいて描き、明確にその姿を表そうとしているのは牧谿画などにも通じる趣があり、可翁の比較的早年の作であろうという。
波頭なども丁寧に表されている。あの寒山図を描いた人物の作品とは思えないが、水墨画を学び始めた頃に、手本を忠実に写したものと思えば納得できる。
  
白衣観音図 1352年 絹本墨画 徹翁義亨賛 大徳寺真珠庵蔵
同書は、端正な顔の描写と細かい毛描き、反転しながら流れる白衣のうちにすぐれた肉体描写がみられるが、景物の表現は疎い。岩や滝、樹木など景感に乏しく、骨法に欠ける点は、技法的には旧来の仏画師による作であろう。徹翁義亨(1295-1369)は大燈国師をついだ大徳寺第2世。
正平7年という時点での墨画としては旧来の仏画的要素を残した作品で、煩瑣な曲線が目立つという。
上方の岩や滝と、下方の天衣の長々と垂れる雰囲気とが合わない。
 
観音図 1361年ごろ 絹本墨画・金泥 良全筆 東京国立博物館蔵
同書は、宝冠と瓔珞に金泥の色どりがみられるほかは墨一色であるが、焦墨主体の墨色に、潤い、表情がみられない。像容も旧来の観音図そのままでけっして禅宗仏画としての特徴を示しているとはいえない。その意味では騎獅文殊図などとおなじ趣向をもつ仏画的な図といえよう。
そして小さい滝と背後に山と本格的な松樹が描かれる点は、大樹寺本と50年ばかりの間の展開と方向を如実に物語っている。
像には当たりの強い細線を用い、背景の没骨風の描写は山水図の趣致をもつ。像容ともに白衣観音図のバリエーションの一つであるという。
観音は古様な作風で、下の岩の怪異さとが目立って、蓮華座に坐しているのに気付かなかった。
 
白衣観音図 1361年以前 絹本墨画 良全筆 乾峰士曇賛 一宮市妙興寺蔵
同書は、上図に比べてこの図はまったく水墨画的な要素をもつ。像の輪郭線、柔らかい顔の描線、リズミカルな波、濃淡であらわされる岩の量感などは同一筆者によるものとは思えないほどの差がある。しかし像そのものの正面向きの端正な姿はやはり旧来の仏画に通じるものである。良全の技法のさえと幅の広さを物語るすぐれた作品であるという。
これまで見てきた作品では、観音は突き出た岩に坐っていたが、本図ではその岩の先端に右肘をつき、奥の低い岩に坐している。これではみずしぶきがかかるのではと心配。
だが、観音は左手に茶碗をのせ、右手で茶筅を振っている。着物が濡れることは構わずに、無心に抹茶を点てているのだ。しかし、その小振りな茶碗は天目形ではない。しかし、肘を台につけてお茶を点てるのは難しいと思うが・・・

白衣観音図 1364年以前 絹本墨画 古源邵元賛 正木美術館蔵
同書は、肘かけのような岩によりかかる、図容的には新しい図で、像には当たりの強い線を用い、背景は面的に墨色を生かす対比をみせる技巧性をもつ。線と面の意識が明確に持たれているのは新しい展開といえよう。古源邵元(1294-1364)は双峰宗源の法嗣で東福寺25世という。
1361年に良全が描いた上図と同じく、後方の低い岩に坐り、前方の岩に両手をついて寄りかかっている。その寛いだ姿勢は、1344年以前に、黙庵が中国で描いた観音に似ている。黙庵は帰国を果たさずに没したというが、その新しい様式が入ってきた頃の作品だろう。
でも、これは白衣とは思えないのだが。

白衣観音図 1370年ごろ 絹本墨画 愚渓筆 大和文華館蔵
同書は、漁樵山水図の中幅で、岩上に坐る最も典型的な形の図である。しもぶくれの顔が不思議な魅力をもち、非常に簡潔に描かれた描線がつくり出す雰囲気とともに素朴さが好ましい。水上に突き出すように描かれる岩坐の表現において大樹寺本にみられるような鋭角的な角の線がなくなり、丸味をおびた量感の描写が可能になった時代の進歩を考えなければならないという。
雨の当たらない岩陰で、安定した大きな岩の上に円形の敷物を敷き、坐している。その下には穏やかな流れがある。
そして水甁ではなく、鉢が置かれている。お茶を点てるには大きすぎるなと思って拡大してみると、一枝の楊柳が無造作にのせてあるのだった。

ところで、白衣観音図といえば牧谿の「観音猿鶴図」の中幅である。

観音図 南宋末元初(13世紀) 絹本墨画 京都大徳寺蔵
同書は、東洋の水墨画の極点ともいえる。完璧な構図、豊かさ、墨を重ねて表わす質量感、わが国の水墨画がつねにめざしたのがこの図のもつ形であり技法であり、内奥に極める精神性であった。牧谿は中国の画史にほとんど名をみせず、元の夏文彦が粗放にして古法なしと評したが、わが国ではとくに室町朝以降牧谿を単に和尚の絵と称するほど愛好したが、遺作をみる限りこの評価は間違っていない。そしてこの時代の黙庵や可翁が牧谿を学んだことはさらに見識があったといえよう。
深い山中の流れに臨む岩上に静かに結跏する観音の姿は華麗な線描と潤いのある淡墨を幾重にも重ねて表わす物量感によって、見事に安坐する。極端に軽やかな体軀を思わせる白衣の描写はともかく、構図的には完璧に近い安定感をもち、岩や崖や樹枝の背景描写も全く過不足がみられないという。
『世界美術大全集東洋編6』は、三連幅が牧谿によいつごろ、どんな目的によって描かれたものか明らかではないが、率意に(心に任せて)描かれたものではなく、どこかの寺院の公的な使用のために描かれたことが想像される。落款に「謹製」とみずから記したように、仕上げもきわめて綿密であるという。
水面の描写は、絹地の緯糸ではないかと見紛うばかりに穏やか。
この観音も円形の敷物の上に坐している。一見、ゆったりとした着衣に惑わされるが、観音の髪、宝冠、螺旋状の耳飾り、首飾り、下着らしい布が、赤いという僧衣の下からのぞく様子、そして僧衣の円文などが精密に描き込まれている。
あの浄瓶は注口が後方に向けられているのか、それともないタイプのものだろうか。この浄瓶が定窯の白磁であってほしいな。

牧谿以前の白衣観音図を一幅。

白衣観音像軸 南宋時代(12世紀中頃) 絹本着色 直径41.2㎝
『世界美術大全集東洋編6南宋・金』は、円相内に描かれた観音の全身は宝髻の上から全身を白衣で包まれ、蓮華座上に結跏扶坐している。画風の点では類例に乏しいものの、円相の白衣観音図は本図のほかに元時代(1271-1368)の平石如砥(1268-1357)賛「観音図軸(東京国立博物館)などがある。これらはともに北宋時代(960-1127)末の文人画家、李公麟(1049?-1106)によって描かれた白描画の白衣観音像を意識したものである。李公麟は自在観音を描き、破坐ではなく結跏扶坐に自在の精神の境地があると主張している(南宋・鄧椿『画継』巻3)。
両図は肥痩のない細墨線を駆使することで。着色画ながら白描画のような印象が強調されている。とくに絹本の本図は、施された賦彩は全体に淡彩で裏彩色が用いられており、衣文線にはそれと同様に細い白線を沿わせている。蓮華座の蓮弁の描写は、同時代の本格的な着色花鳥画のそれに通じるもので、画家の技量のたしかさと時代性を示している。つまり、本図の前提には南宋時代(1127-1279)前期の士大夫らの趣向の反映が顕著に見られ、禅余画僧とも職業画工とも異なる高い技量と洗練された感性があったとみなせようという。
蓮華座に結跏扶坐しているが、淡い背景には、観音の背後に樹木、前方に竹を思わせるものが描かれていて、他の白衣観音図と同様に自然の中で坐しているらしい。





関連項目
高麗仏画展1 高麗仏画の白いヴェール

※参考文献
「水墨美術体系第三巻 牧谿・玉澗」
「日本の美術69 初期水墨画」 金沢弘 1972年 至文堂