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忘れへんうちに 旅編に、中央アジア各地の旅に続いて、イランの旅を記載し始めました。
その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/05/19

東寺 兜跋毘沙門天像も唐時代


東寺宝物館には兜跋毘沙門天像が展示されている。久し振りに見たこの像は、千手観音像(平安、像高584.6㎝)と同じ展示室の隅に置かれていたせいか、記憶していたよりも、ずっと小さく見えた。

『もっと知りたい東寺の仏たち』は、当初は平安京の南端の羅城門に安置され、門転倒後に東寺に移されたと伝えられる毘沙門天像。
『東宝記』にはこの像が城門に安置される根拠として、中国の西域の安西城に出現して、外敵を退散されたという毘沙門天像に由来するという因縁譚が紹介されているという。

兜跋毘沙門天像 唐時代後半 木造 彩色・漆箔・練物 像高189.4㎝
同書は、中国唐時代も後半期に造られたとみられる像で、中国産の桜の一種と思われる材を用いて造られている。瞳には異材を嵌め込んでいることや、鎧の各所の飾りも練り物によって塑形されている点、あるいは両目を吊り上げた面長のいささか異様な顔立ちといった点などに中国彫刻の特色が認められるという。
冠には正面向きの鳳凰が浮彫される。
瞳に嵌め込まれた小さな黒い玉は異材と解説されるが、観智院の五大虚空蔵像のように練り物ではないらしい。
同書は、その姿は通常の毘沙門天像と大きく異なり、裾長の金鎖甲という鎧を着け、両腕に海老籠手を付けるという。
戦いに向けた服装であるのに、鎧の下に出た裳裾は柔らかな薄手の布のよう。
海老殻状の脚絆と靴を付けた毘沙門天の台座もすごい。
同書は、尼藍婆・毘藍婆の二鬼を従える地天女の両手掌の上に立っているという。
東寺のホームページによると、向かって右が尼藍婆(にらんば)、左が毘藍婆(びらんば)

そう言えば、講堂の多聞天も地天女が支えていたような。

同書は、東西方向に長大な講堂の基壇には、21体の仏像が安置されている。すなわち、中央には、五仏が鎮座する。丈六の大日如来像を中心にして、その周囲に半丈六の四仏が並ぶ。五仏の向かって右隣(東方)には、五菩薩が鎮座する。五仏の左方(西方)を見ると、五大明王像が鎮座する。この主要な15尊の周りには、等身大の梵天・帝釈天・四天王の6体の像が配置されている。
これらの群像は、承和6年(839)に開眼されたものとみられる。ただし、五仏と五菩薩中尊は、文明18年(1486)年に土一揆のために焼失し、現在は再興像に代わっており、残りの15体が当初のものであるという。

同書は、造像当初の15体はいずれもヒノキを用いた一木造りの技法で造られたものである。ただし、補修の多い帝釈天像と多聞天像を除くと、他の像はいずれも髪など、像の表面の各所に乾漆(漆に木粉や繊維などを混ぜたもの)による塑形が認められ、奈良時代の木心乾漆造りの伝統が継承されている。東寺講堂所尊像は奈良時代の伝統を受け継ぐ官営工房系の仏師の手によって製作されていると思われるが、彼らが密教僧の指導を受けながら、前代には見ることのできなかった新奇な密教彫像を造り出していったのであるという。

多聞天像 承和6年(839) 木造 彩色・切金文様 像高164.7㎝
同書は、比較的補修が多く、体部は後補の厚手の彩色に覆われている。ただし、頭部については、近年の修理で後補の彩色が除去され、当初の顔立ちが現れたという。
四天王はどれも顔が小さく造形されているが、その中で多聞天は、肉付きのよい丸顔である。

同書は、二鬼を従えた地天女に立つ姿をしており、四天王像中にこの種の多聞天像が加わるのは大変珍しい。地天女や二鬼は概ね後補のものに代わっているが、当初からこの形を取っていた可能性があり、謎の多い像であるという。
体部は塊量感がある。暗い中で、しかも講堂隅の奥に安置された多聞天像はよくは見えなかったが、前面に置かれた持国天と比べてなんとなく違和感が感じられたのは、彩色というよりも截金によるものだったのだ。いつの時代に施されたものかわからないが、文様の種類も多く、丁寧な仕上げではある。

ただし、二鬼を従えた地天女が支える台座が後補なのは残念だった。それでも造像当時もこのような台座であった可能性もあるという。その場合、兜跋毘沙門天像を参考にしたと考えてよいのだろう。

  東寺 観智院2仏像は唐時代のもの←     →東寺 五重塔内部

関連項目
東寺 観智院1武蔵の水墨画

※参考サイト
東寺の宝物館

※参考文献
「もっと知りたい東寺の仏たち」 監修東寺 根立研介・新見康子 2011年 東京美術