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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2017/08/06

アケメネス朝の王墓


アケメネス朝のを建国したキュロス大王の墓廟は、その初期の都パサルガダエにあるとされるが、以前に存在した「大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクト」というサイトの《パサルガダエ》は、6段からなる基壇のうえに高さ2.11m、幅2.11m、奥行き3.17mの大きさで、北西側に墓室の入り口を備える。6段の基壇は、チォガー・ザンビールのようにジッグラト風で,上段に登るにつれ切石は小さくなり,段の高さも低くなる。墓室の屋根は切妻形式である。アレクサンドロスの事跡を伝えるギリシア語の文献の中ではキュロス二世の墓であると書かれていること以外にこれがキュロス二世の墓であるという確証はまったくないという。
そう言われると、その後のアケメネス朝の墓廟は岩壁に造られていて、全く似ていない。
この墓廟について詳しくはこちら

ボスパルというところにもこれに似た墓廟があるという(『ペルシア建築』より)。
以前存在した「大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクト」というサイトの《ボスパルは》、ブーシェフルは古来水運の町として栄えてきたが,前イスラーム期の遺跡は少ない。そのなかで注目に値するのがボズパルのグーレ・ドフタルである。アクセスの点からいってもほぼファールス州に近い。ボスパルは、カーゼルーンの南西100㎞ほど、サル・メシュハッドから11㎞ばかり離れたところに位置する谷間の集落名。
ここには地元で「乙女の墓(グーレ・ドフタル)」と呼ばれている切妻造りの石造墓がある。三段の基壇の上に方形の墓室が置かれ,屋根は半円形の岩によって覆われている。しかし、南面と北面の上部には切妻造りを示す三角形上になっている。北面には高さ60㎝、幅80㎝の墓室があり、その上には方形の「めくら窓」のような窪みが付いている。この窪みは南面にも付いている。墓室の中には、段差がある奥部にお盆状の窪みがある。積み石は4面がきれいに磨かれた石からなる。所々隙間があるなど、技術的にはパサルガダイのタッレ・タフトよりもやや劣る。墓の形状はパサルガダイにある「キュロスの墓」を小型化したものに似ている。
この墓はキュロス2世の祖父キュロス1世のものであるとして紀元前7世紀に造られたという説、紀元前5世紀よりは早くないという説などあり、製造年次については定説がないという。
キュロス大王の墓廟よりは古そう。

その子カンビュセス2世の墓は不明だが、次の王ダリウス大王はナクシェ・ロスタムに石窟墓を築き、以後ナクシェ・ロスタム、その後はペルセポリス近くのフマット山山腹などに築かれた。
ゾロアスター教では人が死ぬと鳥葬されるが、『THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis』(以下『GUIDE』)は、アケメネス朝の王達は、ダリウス大王の時から、ミイラにされ、石窟墓に埋葬されるようになった。このような2つの墓が、ペルセポリスの「王家の丘」に開鑿されたという。

ダリウス王(アケメネス朝第3代、在位前521-486年)の墓
ダリウスは王位を簒奪してキュロス大王の血筋であると標榜していたとされる人物という。もし、パサルガダエの遺構がキュロス大王の本当の墓廟ならば、自分を正当化するためにも、似た墓廟を造ったのではないだろうか。
しかしながらダリウスは岩壁に十字形の摩崖墓を築いた。
『ペルシア建築』は、この摩崖墓は、明らかにペルセポリスやスーサの建物を模したもので、ポルティコ、円柱、キャピタルその他のディテールまで、まったく共通と言える。そして、このダリウス1世の墓所は以後、同じ岩に刻み込まれていったアケメネス朝歴代の王墓に対するプロトタイプの役割を演じたという。 
左上壁面には碑文。その右に王が基壇の上に立ち、王権神授図が表されているはずだが、水の流れた跡でよくわからない。
その下半いっぱいに大きな玉座が表され、その下には2段にわたって玉座を担ぐ人々がいる。その両端と側面に儀仗兵も3段に描かれる。
玉座の上には、王が3段の基壇の上にたち、右には王家の火が、中央上には輪を持った有翼日輪が宙に浮かび、王権神授の場面が表されているはずだがよく分からないのは風化が進んでいるからだろうか。
しかし、以前存在した「大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクト」というサイトの《ダリウス一世の十字墓》の画像では、ダリウス王の着衣が、規則的に折られた袖の襞の線が浅いことや、裳裾の折り畳み方にやや難がある点、両翼の先端付近が崩れてわからないものの、有翼日輪から半身を現したアフラマズダ、高い台で燃え盛る王家の火などもしっかりとわかる。
その場面の下は連珠が並び、端は角のあるライオンとなっていて、前肢もあり、寝そべっているように見える。
しかし、大阪大学の同ページでは、ライオンの傍から始まる3つは、扁平ながら卵鏃文ぽい文様帯だが、それが風化して連珠のように見えるが、一つ一つの間に縦の仕切りのようなものが残っていて、卵鏃文に近い文様帯だったことを示している。
その下はデンティル(軒垂木の木口、歯形装飾)と三層のフェスキアを重ねた、簡素だがギリシア風のエンタブラチュアが、4本の付け柱で支えられている。
ギリシアのイオニア式オーダー(プリエネのアテナ神殿、前350年頃)と比較すると、前6世紀後半-5世紀前半という時代では、まだ卵鏃文もなく簡素。
双頭の牡牛形柱頭もすでに現れている。こんなところにも碑文が。

右に出っ張った崖の西壁に築かれたクセルクセス1世(前486-465年)の墓は日が当たってよく見えたし、よく残っている。
上部では王権神授の場面、それを支える玉座は画面いっぱいに表され、その両端にライオンの前軀があって、双頭のライオンの柱頭の間を拡げたようにも解釈できる。
右に王家の火が燃え盛っているように表され、斜め上の有翼日輪もよく残っている。尾の左右に先が3つに分かれたものは鳥の足だろうか。
王の着衣の衣文も丁寧に浮彫され、厚みのある体に表現されているが、顔は失われている。左手で持つ弓は細い弦も見える。
また、ダリウス王の玉座にあった卵鏃文状のものは、もっと扁平で縁が玉縁のように盛り上がっている。
2段に玉座を担ぐ人々の間の仕切りにはS字の渦巻文が3本の縦線を軸に、左右反転しながら続いている。
右側は獣脚がしっかりと残っていて、長剣の鞘を右肩に吊した人物が、進行方向を向いて後ろ手に持っている。また、ライオンや獣足だけでなく、玉座を担ぐ人々の服装、髪型や持物をが各々その出身地のものをしっかりと表現している。
デンティルや3層のフェスキアから成る簡素なエンタブラチュアもダリウス王のものと同じ。軒の下の付け柱に双頭の牡牛形柱頭があるのも同じ。入口上のコーニスにエジプト風のカヴェット・パターンがあるのも同じだ。

その子アルタクセルクセス1世(在位前464-424年)の墓もダリウス王の墓を踏襲している。
その後の王ダリウス2世(在位前424-423年)の墓も代わり映えしない。

次のアルタクセルクセス2世と3世の墓はペルセポリスのラフマット山南部にある。

アルタクセルクセス2世(在位前404-343年)の墓(南の墓)
『GUIDE』は、南の墓は、それぞれ2つの石棺のある3つの部屋からなる。ミイラになった遺体は、各地の日用品、武具、衣装そして貴石などと共に棺に安置されていた。それらは全て「もう一つの世界」に住む者が使うためだった。棺は中高の蓋で閉じられ、永久に封印された。神官は墓を守り、墓の前に建てられた家で暮らした。アケメネス朝滅亡後、墓泥棒は王家の墓を破って宝物を盗み、遺体は言うまでもなく破壊したという。

アルタクセルクセス3世(在位前358-38年)の墓。
『GUIDE』は、王の墓は各翼が同じ長さの十字形で、ペルセポリスでは下部が切り出されていないという。
『GUIDE』は、上翼に宗教的な場面が表される。「ペルシア風」服装の王は3段の台に立ち、やはり3段の台に置かれた高い祭壇の上で燃え盛る王家の火と向かい合う。各王は戴冠式で火を付けた。それは統治のシンボルで、王が亡くなった時にのみ消された。王は弓(イランの国家的な武器)を片手に持ち、讃美の所作でもう一方の手を開いて聖なる火に伸ばしている。
その上に王家の栄光(有翼の王の胸像)が浮かび、片手で輪(統治の象徴)を持ち、祝福のしるしでもう一方の手を開いて王に向けている。右上方に、新たに昇った月、分厚い三日月と薄い満月で表しているという。
右上方の月は、彫りの深さは様々だが、ダリウス王の墓はその部分がよく残っておらず分からないが、ナクシェ・ロスタムの他の墓で表されている。
同書は、小さく表された「ペルシア人」と「メディア人」は王と火の側面にいる。王と王家の火は大きな玉座の上に立っている。その端はライオンの前軀で下端は花の文様になっているという。
同書は、30人の人物は、30の国の王を意味し、2段になって玉座を支えている。これらの玉座持ちは、ダリウス大王の墓と南の墓に表されているというが、ナクシェ・ロスタムの他の3墓にもある。。
墓のファサードは、アケメネス朝の宮殿に典型的な彫刻がある。ライオンはロータスを間において、9頭ずつ向かい合うという。
これはナクシェ・ロスタムの4墓にないものだ。
左右の先頭のライオンがロータスを挟んで向かい合っているところ。妙に様式化された筋肉表現のライオンだが、互いに吠えている顔はすごみがある。
それらは、4本の円柱の上にある双頭の牡牛形柱頭で支えられている。
柱頭という言い方をしているが、ギリシア建築の柱頭彫刻(ドーリス式イオニア式コリント式)のように直接人物構造(エンタブラチュア)を支えるものではなく、お寺の建物などでたとえると、肘木を支える斗のようなものだ。アケメネス朝の属州となったイオニア地方の人々が建築や浮彫装飾に関与しているとはいえ、この発想はイオニアにはないもので、デンティル(歯形装飾)と共に、木造で建物を造る地域の建築を採り入れたものではないのかな。
同書は、入口は一つだけで、当初は、一度閉めたら二度と開けられない石の扉があった。単一の扉口のある偽の宮殿は、没した王が手に入れた「もう一つの世界」である。入口は床の中に2つの棺のある部屋への玄関に導くという。 


キュロス大王以前の墓はともかく、アケメネス朝が成立してからは、カンビュセス2世(在位前529-521年)、スメルディス(在位前521年)、クセルクセス2世(在位前424-423)、ソグディアノス(在位前423年)、アルセス(在位前338年)の墓はどこにあるかわからない。
そして、アレクサンドロスの東征によってアケメネス朝が滅亡した当時の王ダリウス3世(在位前336-330年)の墓について『GUIDE』は、3番目の墓は、ペルセポリスの南に未完の摩崖墓がある。以前はアケメネス朝最後の王、ダリウス3世に捧げられたものとされてきたが、最近の研究では疑問視されているという。
ガウガメラの戦いで敗走している時に味方であるはずのベッソスに殺されたのだから、アケメネス朝の伝統にのっとった埋葬が行われたとは思えない。では、その未完の墓は他の王のものだろうか。


ナクシェ・ロスタムにエラム時代の浮彫の痕跡←  →サーサーン朝の王たちの浮彫

関連項目
ナクシェ・ロスタム アケメネス朝の摩崖墓とサーサーン朝の浮彫
ペルセポリス(Persepolis)5 博物館からアルタクセルクセス3世の墓
パサルガダエ(Pasargadae)3 キュロス2世の墓

※参考サイト
以前存在した「大阪大学 イラン祭祀信仰プロジェクト」というサイト

※参考文献
SD選書169「ペルシア建築」 A.U.ポープ 石井昭訳 1981年 鹿島出版会
「THE AUTHORITATIVE GUIDE TO Persepolis」 ALIREZA SHAPUR SHAHBAZI 2004年 SAFIRAN-MIRDASHTI PUBLICATION