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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/04/06

京都御苑に宗像神社と厳島神社


春のお彼岸過ぎ、寒い冬が終わったと思ったら急に暖かくなり、各地でソメイヨシノの開花宣言が出される中、京都ではまだだった。
地下鉄丸太町駅の北東出口から地上に出ると、御所(と呼んできたが、正しくは京都御苑)の南西端(写真は出っ張りのある南西角を北から眺めた)。そこから西の石垣に沿って歩いて、一番近い門から御苑に入ってみた。
京都御苑の中を自転車で走り抜ける人たちなど、生活の場ともなっていることを知って、いつか中に入ってみたいと思って久しいが、突然そんな機会がぼた餅のように落ちてきた。
椹木口(さわらぎぐち)から入ったところに上の案内板がある。何と御苑の中に住宅地があるという。どんな人たちが暮らしているのだろう。
それはともかく、宗像神社や厳島神社などが御苑の中にあるというので、行ってみることに。
直進するとどんつきが宗像神社。
赤い車が駐まっている手前の道を見ると、その先に閑院宮邸跡というところが開いていた。
説明に、閑院宮家は、伏見宮、桂宮、有栖川宮家と並ぶ四親王家のひとつで、東山天皇の第六皇子直仁親王を始祖として宝永7年(1710)に創立されました。当時は烏丸通と丸太町通が交差するところの東北角にL字型の屋敷地を構え、御門と塀をのぞく建物は東山院旧殿を移築した総面積498坪(1.643㎡)にも及ぶ大規模なものでしたとある。
入っていくと右の建物が展示館になっていたが、時間がないので
東の門へと通り抜けようとしたら、南側に築山と通路が見えたので、時間が許す限り、庭園を散策してみることにした。
東壁際に面白い灯籠が。ん?灯籠かな・・・ちょびっと咲いている水仙もいい感じ。
南側には池。
説明は、庭園の造営時期や当初の池の位置など詳しいことはわかっていませんが、発掘調査の結果、新旧2つの時期の池底や州浜状の礫敷きが確認され、18世紀中頃に作庭されたものが、度重なる改修を経て現在の形になったと考えられますという。
閑院宮邸の建物群
南に回る。

お寺などの庭園にある池は大抵縁に石が巡っているが、ここは緩やかな傾斜で、自然な水辺のよう。
説明は、州浜は海辺の景色を表現する手法で、京都御所、仙洞御所、桂離宮などの宮廷庭園に見られるものです。州浜が閑院宮邸跡でも見られることは注目されますという。
これが御所の南西角。外から見ると烏丸丸太町の北東角(京都風に言うと、からすままるたまちのきたひがしかど)。
木塀は曲面になっている。
振り返ると灯籠が見えたので、その方へ向かうと、
遣水と園池という説明板によると、この庭園は宮内省京都市庁長官舎の庭園として造られたものです。
本庭園の特徴のひとつに、遣水と園池の組み合わせがあげられます。遣水は庭園内に水を導き流れるようにする伝統的手法で、京都御所御常御殿庭園、同小御所庭園、旧近衛邸庭園、旧中山邸庭園、旧九條邸庭園などにも見られます。遣水の起点には矢跡の残る白川石が立てられ、流れは穏やかに屈曲して小さな滝となって池に注ぎます。
また州浜意匠や舟遊びを象徴する切石護岸など、本庭園には江戸時代の公家が好んだ庭園意匠を踏襲し、小規模ながら気品のある趣を醸し出していますということで、下図は長官舎側から見た庭園。
江戸時代の閑院宮邸の庭園の続きだと思っていた。
その背後に回ると、右に二つ目の灯籠、左には矢跡の残る白川石。
その向こうに遣水の流れ出す仕掛けがあるらしい。
こちらが園池。切石護岸も右端にやや弧を描いて見えている。
池際には雪見型灯籠、三つ目。
さて、その北側には伽藍石が。続いて2段の石段も。どうやらこれが長官舎の建物跡のよう。
建物の北が玄関のよう。
木材で建物の間取りを表していて、部屋ごとにその名称も記されている。
玄関周りの三和土と、沓脱石が残されている。
中庭

左向こうの来客棟主室
説明板は、この部屋は客座敷の主室で、八畳敷、東側に床と床脇棚を設け、床柱は栂の四方柾の角柱で、丸太長押をめぐらし、釘隠金具が打たれ、格調を整えた数寄屋風の造りでした。
部屋からは、庭園を北東から南西に流れる遣水を楽しむことができます。
流れの上流には沢飛び石があり遣水を渡ることができます。流れの上流には沢飛び石があり、遣水を楽しむことがどきますという。

私室棟の台所周り。一角に井戸があった。

右奥の座敷にはテーブルが置かれている。
説明板は、ここは来客棟より庭の方へ張り出して建てられている私室棟の先端の座敷です。来客棟の客座敷よりは簡素ですが、十畳の広さの一隅に押し入れを設け、南から東へ庭を見晴らせるように縁から庭へ開放的に構成されています。
部屋からは矢跡の残る白川石を起点に遣水が池に注ぐ庭園の全景を眺めることができます。庭園内には形の異なる5つの燈籠が配され、沓脱石から庭の近くに降りることができますという。
縁側、沓脱石、そして縁先手水鉢
庭の通っていない通路に入ると、石板が遣水の上に架けてあり、その向こうは沢飛び石が数個。そして左の日陰の中に見え隠れしているのは、
鄙びた藁屋根の家屋をかたどったような灯籠だった。
5つあるという灯籠の四つ目。後一つは見つけられずに去る。

東側の門から出て、

続いて宗像神社へ。
立て札は、本舎は宗像三女神、即ち多紀理姫命、市岐嶋姫命、多岐津姫命を主祭神として祀る。宗像三女神は別名「道主貴」といい、これは全ての道を司る神の尊称である。
この地はもと小一条殿(文徳天皇皇后明子の里、藤原忠平の邸宅)といい、平安の御代、清和天皇ご誕生の地である。
社伝によれば、平安京遷都の翌年、延暦14年(795)、桓武天皇の命により、藤原冬嗣が筑紫(現在の福岡県)より勧請(神様をお招きすること)し、創建されたと伝えられる。応仁の乱の兵火で社殿ことごとく焼失した後、再建された。現在の社殿は江戸期安政年間に再建されたものである。
明治維新までは花山院家の邸地となり、本社もその廷内にあったが邸宅が廃せられて後は社殿のみ残ったという。
小さな舞台の脇で木蓮が花を付けていた。春ですなあ。
奥の前庭では種類はわからないがサクラが満開。
その右奥に拝殿。色あせた門や苔むした屋根が好ましい。
左は吽形の狛犬だが、
右は阿形の獅子。それとも時代が下がると、どちらも狛犬と呼ばれるようになるのかな。

続いて厳島神社へ。堀があるのか端を渡った先のよう。いや大きな池の中島に神社があるのだった。

立て札は、当社は往昔平 相國清盛公 安藝の國佐伯郡に坐す厳島大神を崇敬の余り摂津の國菟原郡兵庫築島に一社を設けて この大神を勧進し給い鎮祭されたのであり後 故あって側らに清盛公の母儀祇園女御をも合祀されました 後世年を経て この九條家廷内 拾翠池の嶋中に移転遷座されたものであります この地 旧侯爵 九條家の廷内に属せしにより自ら同家の鎮守となりました 又古くより家業繁栄家内安全の守護神として一般の人々よりも深く崇敬されている ところであります
神前の鳥居(重要美術品)は破風形の鳥居として有名という。

その先は小さな出島になっている。その向こうに視線を向けると、橋脚がいくつも並ぶ大きな橋があってびっくり。
橋の先を辿っていると、出島から突き出た石の上にアオサギが。
どこにでもいる鳥だが、思わず写してしまった。どうやら向こうの魚を狙っているみたい。
どうせならカワセミを見たかったが、こんなに濁った水のところには来ないかな。
南西の建物は何かな。
池の上に藤棚もあり、ゴールデンウィーク頃には、この静かな景色の中で、にぎやかに花を垂らす姿が見られそう。

再び端を渡って神社から出ると、ずっと遠くに通年無料の一般公開になった京都御所。

先ほど見えた橋は渡ることができそう。
左の立て札は、九條邸跡 九條家は、五摂家の一つで、平安後期以降多くの人が朝廷の重要職である摂政や関白につきました。江戸末期、米総領事ハリスの通商条約締結要請に対し徳川幕府は了解する考えでしたが、朝廷側の孝明天皇は反対でした。折しも京市内では、幕府と朝廷との様々な交渉が行われ、時の関白九條尚忠の邸もその舞台の一つとなりました。広大だった屋敷も、今では池の畔の茶室の拾翠亭と、九條邸の鎮守だった厳島神社が中島に残るばかりですという。
あの二階建ての建物が九條家茶室、拾翠亭だった。
厳島神社のある中島の続きの小さな出島と思っていたところは、かなり細長く続いている。さきほどのアオサギは頭を上げているではないか。
橋の右側

堺町御門から外に出る。
京都に来る度に、学生時代に自転車で移動していた快適さを思い出し、今も自転車があったら、もっといろんな通を見て回ることができるのにと残念に思う。

写真の人のように、いつか自転車で京都御苑の中を走り抜けたい。

               →松屋常盤の紫野味噌松風と切れ端

関連項目
寺町通 2018年
山桜が散る頃