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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2018/05/01

東洋陶磁美術館 館蔵品で見る俑の歴史


大阪の東洋陶磁美術館で穆泰墓出土の『唐代胡人俑展』が開かれている時、常設室でも館蔵の俑が展示されていた。
説明は、墓に副葬される明器のうち人物像については俑と呼び習わされています。その歴史は春秋戦国時代までさかのぼります。つづく秦の始皇帝陵の「兵馬俑」はよく知られています。軍隊から身の回りの世話をする侍者や奴婢にいたるまで多種多様な俑が見られ、当時の生活ぶりを知る貴重な資料となっていますという。
穆泰墓出土の俑は開元18年(730)年、盛唐期につくられているので、まずは同時代の俑から(後ろ姿は説明板に載っていた写真を撮影した)。

加彩侍女俑 盛唐期・8世紀 高33.6幅9.8奥行7.7㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
唐時代には様々な趣向をこらした髪型が流行しました。左右の鬢髪をやや前に張り出し、頭上に双髻を結っています。切れ長の目と小さくしまった口元、そしてふっくらとした頬が印象的で、盛唐期の女性の美しさをよく表しています。男性の服装を着けている、いわゆる「男装の麗人」で、袖の中の両手は胸前で組む拱手をしています。唐時代、婦人たちの間では男装や騎馬が流行しました。こうした俑は基本的には型でつくられ、頭と体は別々につくられてから接合されています。全体に白化粧が施された上に、本来は鮮やかな彩色が見られましたがほとんど剥落してしまっていますという。
拱手する手は胸前の高い位置にある。
以下の2品よりも全身がずんぐりしているようで、盛唐期でも少し後の制作ではないだろうか。

加彩騎馬女俑 唐時代・8世紀 高37.0長30.4幅16.6㎝ 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵

唐時代、都長安(現在の西安市)の繁栄は隆盛を極め、世界各地から人やモノが集まる一大国際都市でした。そのため西アジアをはじめとしたいわゆる「胡風」の影響などから、盛唐期には女性が胡服を着たり、男装をしたり、騎馬することが流行しました。本作は騎馬女俑の優品の一つです。西安で発見された開元12年(724)の金郷県主墓出土の作例と類似しており、本作もほぼ同時期のものと考えられます。「開元の治」と呼ばれた玄宗皇帝の繁栄した治世のものです。岩崎家旧蔵品という。
髪型は穆泰墓出土の加彩俑の1点とよく似ているが、もっとボリュームがある。
顔はますますふっくらとしているが、則天武后に続く時期では、体型はさほど豊満ではない。

加彩騎馬鷹匠俑 唐時代・8世紀 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 高37.0長31.0幅15.8㎝ 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
騎馬女俑と同一の作風で、一括品の可能性が高いものです。鷹冠をかぶり、右手には鷹がとまった鷹匠です・への字に結んだ口に緊張感がうかがえます。ふっくらした顔立ちは先の騎馬女俑に通じるものがあり、盛唐開元年間(713-741)の成熟した人物造形をうかがわせます。服装の一部に貼金(金彩)の痕跡が見られ、本来鮮やかな彩色が施されていたことが分かります。岩崎家旧蔵品ですという。
貼金は、穆泰墓出土女性俑と同様に、襟の部分の装飾に使われている。
これは鷹匠に扮した女性の俑だと思っていたが男性だった。上の騎馬女俑と比べると、頬はひらたく、下顎の肉付きが良い。
右目を閉じて左目で遠くのものを鋭く見据えている。
 
三彩侍女俑 唐時代・8世紀初頭 高26.3幅6.3奥行5.4㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
唐三彩は褐釉や緑釉、白釉(透明釉)など複数の低火度鉛釉が掛け合わされた器物や俑に対する総称です。色釉の組み合わせや白斑などを効果的に用いられた華やかさが特徴です。唐三彩は女帝則天武后の治世(690-705)に都洛陽を中心に全国的に流行し、鞏義窯はその代表的な生産地でした。長いショール(披帛)をかけたこのタイプの侍女俑は8世紀初頭の洛陽地区でしばしば出土しています。カオリン質の白い胎土などから、この俑も鞏義窯の製品と考えられます。顔には三彩釉が施されていないのは、繊細な表情の描写にはやはり加彩が適していたからでしょうという。
顔はふっくらとしているが、体型はほっそりしている。唐三彩が誕生して間もない初唐末期では、まだ細身の体型が好まれたのだろう。
顔の描写は加彩とはいえ、胎土の目鼻立ちは盛唐期ほどしっかりとは行われていない。 


黄釉加彩侍女俑 初唐期・7世紀中頃 高21.2幅5.7奥行6.2㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
白いカオリン質の胎土に低火度鉛釉の淡い黄釉を掛け、その上に彩色を施した黄釉加彩俑は、唐三彩出現以前の初唐期、とくに7世紀の40-60年代に見られます。公主をはじめ高い身分の墓にも見られることから、特別につくられた付加価値の高いものであったと考えられます。産地は不明ですが、洛陽地区の出土例も多いことから、鞏義窯が有力な候補といえます。淡い黄白色の釉色が独特の質感を見せ、頭髪や眉、目などに黒、帯に朱の彩色が施されています。黄釉と加彩の組み合わせによる黄釉加彩俑は、複数の釉の組み合わせによる唐三彩が出現する以前の一時期に花開いた技法でしたという。
全体に黄釉を掛けて焼成し、髪や顔などに加彩している。 
髪型としては下の宮女俑に似ている。

黄釉加彩騎馬女俑 初唐期・7世紀 高36.4幅28.8奥行10.8㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
帷帽と呼ばれる笠に似た帽子をかぶった騎馬姿の女性俑です。左手は手綱を握り締める格好をしています。唐時代、女性の間でも乗馬が流行しました。頭から首にかけては布をまきつけており、帷帽とともに、風砂を避けるためのものでした。すっきりとした目鼻立ち、そして背筋をピンと伸ばし、颯爽と馬を駆る姿が凜々しく、黄釉加彩俑の優品の一つといえます。類例が陝西省礼泉県の昭陵に陪葬された張士貴墓(657年)と鄭仁泰墓(664年)という2人の大将軍の墓から出土しています。こうした騎馬女俑は貴人の外出(出行)にお供をする侍女であったと考えられますという。
黄釉を掛けて焼成後に加彩している。 
驚くほど似ている俑がある。

騎馬笠帽女子俑 唐、麟徳元年(664)頃 黄釉、加彩、貼金 高37.0長26.4奥行10.8㎝ 陝西省礼泉県鄭仁墓出土 陝西歴史博物館蔵
『唐の女帝・則天武后とその時代展図録』は、唐の太宗の陪塚から出土した。
淡い黄色の釉薬をほどこした上に、白・黒・緑・朱で彩色するという、新出の技法をいち早く採用し、一部に金箔も用いて、やや大味な造形を上手におぎなっているという。
こちらも黄釉加彩の俑で、その彩色がよく残っている。同范と考えてよいのでは。
馬俑の頭部を年代順にみてみると、時代が遡るほど頭部が大きく造形されていることがわかった。
 
加彩宮女俑 唐時代・7世紀 貼金 住友グループ寄贈(安宅コレクション) 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
東洋陶磁美術館の説明は、極端なまでにスリムなプロポーションは、唐時代の理想的な女性像を反映したものです。高く結い上げた髪型も唐時代の流行です。華麗な衣裳や装身具には色とりどりの彩色や貼金が施されています。両手の所作は不明ですが、気品ある面持ちは、宮中の高貴な女性を思わせます。類例が陝西省の張臣合墓(665年)から出土しているという。
何よりも彩色がよく残っている。 
極端な細身だが、顔はふっくらして目鼻立ちはしっかりとつくられている。上の三彩侍女俑の顔に加彩がはっきり残っていたとしても、こんな顔にはならないだろう。
金箔もよく残っている。結い上げた髪を金彩の布帛で覆っていたことを表しているのだろうか。
 金製の2連の腕輪、長い袖口にも金彩。

説明パネルにあった内部の写真。

似た服装の俑がある。

双環髻女子 唐・7世紀 白陶加彩 高36.5幅14.3奥行10.2㎝ 陝西省長武県棗園郷郭出土 陝西歴史博物館蔵
『則天武后とその時代展図録』は、袖が長く垂れた短衣(衫)の上に、胸元が大きく開き、肩先が張り出す形の上着をまとう。腰には、裾をひきずるほど丈の長いスカート状の裙を着けて、鰭状の飾りのついた前垂れをかけ、ベルトを巻き付けて留める。足には先端が雲形にかたどられた靴(雲頭履)をはく。
型作りではなく、手びねりで成形し、盛り上げや削りなどによって整えた痕が随所に見える。
直立して動きが少なく、肢体が細作りになることなど、隋(581-618年)の作風を継承する点が見られるものの、ふっくらと張りのある顔形や可憐な目鼻立ちには、唐ならではの造形が示されている。
朱・藍・淡緑などの彩色痕と、なお輝きをもつ金箔片から、当初の華麗な姿を想像することができようという。
髪型と表情、そして衣裳の色以外はほぼ同じで、完成度の高い作品だ。
首飾り、腕輪などに金箔が貼られていたようだ。 
唐時代の俑は、馬や駱駝を牽く人物俑はあったが、女性は華やかで、高貴な人々やそのお付きの者たちを表すものが多かった。
ところが、それ以前の時代には、高貴な人物はあまり俑にはされなかったようだ。

緑釉加彩楽女俑 隋時代(581-618年) 高24.6幅7.8奥行6.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
西アジアあるいはインド起源といわれる琵琶を弾く女性の楽人俑です。左手側の海老尾と呼ばれる部分を下向きにして演奏する方法は現在とは逆になります。細身の体型でハイウエストのスカート(長裙)をはいたこうした女性のスタイルは、隋から初唐にかけて流行しました。全体に白化粧を施してから、スカート部分には低火度鉛釉の緑釉が施されており、ドレープ(襞)の美しさを際立たせています。細く繊細な眉や目の描写や頬・唇の朱彩は、俑全体に独特の生気を与えています。赤みを帯びた胎土は都長安一帯によく見られるもので、本作も西安地区でつくられたものと推測できますという。
初唐期から微かに遡った隋時代では、一転古拙な俑となる。
初唐期の黄釉加彩俑以前に、白化粧の上に緑釉を掛けて焼成した俑があった。もっとも、緑釉は前漢あるいは後漢あたりから釉薬として焼き物に使われている。

加彩侍女俑 北魏時代・6世紀前半 高15.0幅4.8奥行5.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
この侍女俑は北魏洛陽遷都(493-494)後の6世紀前半のもので、こぶりで笑みをたたえた愛らしいものです。左手を腰まで上げ、体をやや右に傾け、右手には何かを持って作業しているようです。何気ない動作の一瞬を見事にとらえていますという。
北魏時代の俑も細身である。
加彩持箕侍女俑 北魏時代・6世紀前半 高15.0幅4.8奥行5.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
一括品と考えられます。大きな箕を両手に持っている侍女を表したもので、洛陽地区の北魏墓でしばしば見られます。髪を双髻に結い、袖口の広い上衣を左前に着て、長いスカート(長裙)をはいて、腰には帯を巻いています。朱などの彩色が一部残っています。型づくりを基本とした成形で、素焼きした後、全体に白化粧を施し下地とした上に彩色が施されていたと考えられます。当時、墓には被葬者である主人のためにこうした日常生活の作業をする様々な侍者を表した俑の一群が副葬されていましたという。
北魏時代では、釉薬は使わず素焼きだった。
死後も同じような快適な生活ができるように様々な使用人を侍らせていたのだろう。
加彩楽女俑 北魏時代・6世紀前半 高10.6幅6.6奥行8.0㎝ 海野信義氏寄贈 大阪市立東洋陶磁美術館蔵
こちらも一括品と考えられます。両手を胸前に挙げ坐す双髻の女性です。袖口の広い上衣に長いスカートをはいています。彩色はほとんど剥落しています。洛陽地区の北魏墓出土の類例から、本来は楽器を持って演奏していた楽人であったと考えられます。当時の墓にはこうした楽人俑がセットで副葬される場合があり、墓の中をにぎやかに演出しています。ややうつむき加減で温和な笑みをたたえていますという。
日常生活の用事をさせる人々だけでなく、音楽を楽しむための俑も必要だった。 

 
こんな風に時代を遡って俑を見ていると、春秋戦国時代のものも知りたくなってきた。 

    東洋陶磁美術館 唐代胡人俑展← →俑を遡る1 従者編
 
関連項目
中国の唐時代の三彩と各地で模倣された三彩
唐では袋物の形で身分を表した
唐では丸い袋を腰から下げるのが流行か
帯に下げる小物入れは中国や新羅にも
騎馬時の服装は
鐙と鉄騎 何故か戦闘に引き込まれて
東洋陶磁美術館 乾山の向付は椿だった
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白磁
東洋陶磁美術館 朝鮮半島の白っぽい陶磁
 
参考文献
「唐代胡人俑 シルクロードを駆けた夢展図録」 2018年 大阪市東洋陶磁美術館
宮廷の栄華 唐の女帝・則天武后とその時代展図録」 1998年 東京国立博物館・NHK 
「大唐王朝 女性の美展図録」 2004年 中日新聞社