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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2015/02/20

日本の瓦2 法隆寺出土の軒丸瓦と軒平瓦




『法隆寺日本仏教美術の黎明展図録』(以下『法隆寺展図録』)は、法隆寺は、初めは斑鳩寺とよばれ、聖徳太子が住まいとした斑鳩宮に隣接して建立した寺で、創建年代は推古14、5年(606、7)ごろと考えられる。その伽藍跡は法隆寺の西院伽藍の南東に位置し、若草伽藍とよばれ、現在は塔跡の上に巨大な心礎が残されているという。

若草伽藍跡出土の瓦について同展図録に詳しく紹介されている。

素弁九葉蓮華文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀第Ⅰ四半期) 軒丸瓦径15.7㎝、軒平瓦幅33.4厚5.7㎝  法隆寺若草伽藍(斑鳩寺)跡出土 金堂所用 法隆寺蔵
軒丸瓦について『仏法の初め、玆より作れり展図録』は、若草伽藍の出土瓦は、すべて7世紀第Ⅰ四半期と第Ⅱ四半期のもので、その中で最も古い瓦は、金堂に使用された素弁九弁蓮華文軒丸瓦で、飛鳥寺と同じ笵であり、それを転用したことが明らかとなった。ここから斑鳩寺の造営に、蘇我氏の関与・援助があったことは間違いないであろうという。
『法隆寺展図録』は、素弁で薄肉の九葉を配するが、弁端は角ばり、その先端には珠文を付す星組と通称される軒丸瓦であるという。
中房の蓮子は1+6。

軒平瓦について『法隆寺展図録』は、型紙を針で留めて毛描き線でトレースして彫り込むという。
型物ではなく、手彫りだった。彫りの深さや線のぎこちなさからそれが窺える。

素弁八葉蓮華文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀第1四半期) 軒丸瓦径17.0㎝、軒平瓦幅35.5、厚2.3㎝ 若草伽藍跡出土 金堂所用 法隆寺蔵
軒丸瓦について『法隆寺展図録』は、九葉の割付が不揃いなのに対して、八葉の花弁は整然としている。四天王寺から同笵の瓦(同じ木型による製品)が出土しており、瓦の配布経路や製作工人の系譜を示すという。
蓮弁は8枚のため、幅広で、ふっくらしながらも先だけ尖り、そのすぐ内側に点珠がある。これはもう花弁の反転を表すための点珠ではない。
蓮子は1+6。

軒平瓦について同書は、型紙、下書きなしで直接彫り込んでいるという。
左半分のパルメット唐草の蔓が妙に見えるのは、そのためだろう。

素弁八葉蓮華文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代、金堂草創期よりやや後出(7世紀第2四半期) 軒丸瓦径18.7㎝、軒平瓦幅26.2厚4.7㎝ 若草伽藍跡出土 金堂北方建物所用 法隆寺蔵
軒丸瓦は、八葉で弁端は丸く、点珠はない。
軒平瓦について『法隆寺展図録』は、パルメット唐草文を飾る。この忍冬唐草文は1単位の型を上下に交互に押し、唐草文に似せているという。
スタンプされているので、手彫りのものよりも浅く、蔓の線が細く、すっきりした唐草文となっている。
蓮子は1+5。

パルメット文軒丸瓦・パルメット唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀) 軒丸瓦径16.8㎝、軒平瓦幅29.5厚3.7㎝ 若草伽藍跡出土 補足瓦 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、パルメット文を施した単弁六葉蓮華文軒丸瓦と、その軒丸瓦の笵型を押圧して文様とした軒平瓦という。
補足瓦ということで、割れたり落ちたりした瓦の補修用に遅れて作られたもので、それだけの期間のうちに、新たに請来したのがパルメット文だったのだろう。

軒丸瓦はパルメットが子葉となった単弁蓮華文。これは、奈良・西安寺出土の忍冬・蓮華交飾軒丸瓦(飛鳥末期)よりも早い例と思われる。
蓮子は1+6。
パルメット文軒丸瓦についてはこちら

その型を軒平瓦にスタンプしてできたのが軒平瓦ということだが、右端の文様以外はわかりにくい。
同書は、以上の軒瓦はいずれも軒平瓦を伴っているが、これこそが、若草伽藍瓦の大きな特徴である。この時期には朝鮮半島の三国や中国でもまだ文様を飾った軒平瓦は出現せず、若草伽藍の出土瓦こそがその最初の例であるという。
なんと、おそらく最初は非常に苦労して手彫りで作っただろう軒平瓦のパルメット唐草文は、半島あるいは隋・唐からもたらされた軒平瓦の意匠だと思っていたのに、いずれの地でもまだなかったという。何かの請来品の文様を採り入れたのだろうが、それを軒平瓦に表したのは、当時の日本人の独創だったのだ。

以上の軒平瓦をまとめてみると、

また、別の文様の軒平瓦が出土している。

均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀) 法隆寺西院綱封蔵付近出土 法隆寺蔵
同書は、特徴のある宝珠形の中心飾の左右に忍冬唐草文を配し、顎(凸面)にも同様の文様を篦描きする。綱封蔵は若草伽藍の北方に位置し、斑鳩寺に関わる瓦ともみられ、また斑鳩宮出土品とも関連深い。同種の軒平瓦は中宮寺跡からも出土するという。

忍冬文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(630年代以前) 軒丸瓦復原径16.0軒平瓦幅24.0厚4.3㎝ 斑鳩宮所用 法隆寺蔵
『法隆寺展図録』は、軒丸瓦は平坦な花弁の中に先端が三葉のパルメット文を配した六葉の蓮華文を飾り、軒平瓦は特徴のある宝珠形の中心飾の左右に、三葉パルメット文を唐草文状に展開させているという。
軒丸瓦のパルメットは、若草伽藍所用補足瓦よりも細身で、3葉しかない。中房はどんなだったのだろう。
素弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(630年代以前) 軒丸瓦残長7.3軒平瓦残幅22.3厚4.1㎝ 斑鳩宮所用 法隆寺蔵
同書は、軒丸瓦は素弁六葉蓮華文を飾り、軒平瓦は上の軒平瓦とほぼ同様の文様を表しているという。
ふっくらした花弁に高い稜がつくられている。中房には大きな蓮子が一つだけある。
同書は、2種類とも軒丸瓦はとくに小形であり、また軒平瓦も通常この種の瓦の唐草文は3回転するものが、小形のために2回転に留められている。これらの小形の軒瓦は、斑鳩宮内の小仏堂の軒先などで使用されたものと推定される。斑鳩の宮は皇極2年(643)に焼失しているので、これらの瓦の年代は630年代かそれ以前とみられるという。
おそくとも630年代にはパルメット文の軒丸瓦や均整忍冬唐草文軒平瓦は作られていたことになる。

次に法隆寺で使われていた軒丸瓦は、単弁ではなく、複弁蓮華文だった。
『法隆寺展図録』は、法隆寺は天智9年(670)に若草伽藍が焼失した後に、塔と金堂が横に並ぶ法隆寺式伽藍配置の西院伽藍が建立された。ここで出土する西院伽藍の創建期の複弁八葉蓮華文軒丸瓦と均整忍冬(パルメット)唐草文軒平瓦の組合せで、西院伽藍出土瓦独特の文様を飾るので、法隆寺式瓦と称されている。西院の創建瓦は新形式の軒丸瓦と、前代の伝統を踏襲する軒平瓦との組合せからなるという。

複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀後葉) 軒丸瓦径19.0軒平瓦幅30.1厚6.3㎝ 西院伽藍金堂所用 法隆寺蔵
同書は、軒丸瓦は中房は大きく高く、中央の1個の蓮子を中心に、さらに蓮子を二重に巡らし、内区には弁端が反転する複弁の蓮弁を八葉飾り、外区には突線で表した鋸歯文を巡らしている。軒平瓦は斑鳩宮所用の軒平瓦の文様を継承し、さらに簡潔にまとめあげた形式で、特徴のある宝珠形の中心飾の左右に三葉形のパルメット文をのびやかに3回転連続させて、唐草文状に展開させているという。 
蓮子は1+7+11、凸線の鋸歯文が外区に表される。
複弁蓮華文軒丸瓦・均整忍冬唐草文軒平瓦 飛鳥時代(7世紀後葉) 軒丸瓦径18.1軒平瓦幅31.0厚5.5㎝ 西院伽藍塔所用 法隆寺蔵
同書は、西院伽藍出土の軒瓦で、文様の形式化からみて金堂所用瓦が最も古く、塔所用瓦がこれに継ぎ、さらに回廊や中門などの出土瓦が続く。これらの瓦は天武朝の金堂造営から和銅年間の中門造営まで、すなわち白鳳期(7世紀後葉から8世紀初頭)の西院伽藍の造立過程を物語っているという。
上のものよりも、デザイン的には整っている。
大きな蓮子は無数にあるように見えるが、1+7+11。周縁は線鋸歯文が巡る。

均整忍冬唐草文軒平瓦を比べてみると、
斑鳩宮所用の2点はほぼ同笵で、斑鳩寺所用ではないかとされる軒平瓦の均整忍冬唐草文の方がシャープな彫りとなっている。
西院伽藍所用の2点は、このように比較してみると、葉の反り返りや長さなど、思ったよりも異なっている。

     日本の瓦1 点珠のある軒丸瓦←   →日本の瓦3 パルメット文のある瓦

関連項目
日本の瓦4 パルメット唐草文軒平瓦
日本の瓦5 点珠のない素弁蓮華文
日本の瓦6 単弁蓮華文
日本の瓦7 複弁蓮華文、そして連珠文
韓半島の瓦および塼


※参考文献
「わかる!元興寺」 2014年 ナカニシヤ出版
「飛鳥の考古学図録⑤-古代寺院の興隆-飛鳥の寺院」 2009年 財団法人明日香村観光開発公社
「日本の美術66 古代の瓦」 稲垣晋也編 1971年 至文堂
「日本の美術391 鬼瓦」 1998年 至文堂
「仏法の初め、玆(これ)より作(おこ)れり-古墳から古代寺院へ-展図録」 2008年 滋賀県安土城考古博物館
「法隆寺 日本仏教の黎明展図録」 2004年 奈良国立博物館