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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/01/15

敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い




涅槃図について『日本の美術268涅槃図』は、釈迦は29歳のとき出家し、まず山中に入って6年間苦行生活を送ったが、その空しさを知り、ボードガヤーの菩提樹の下で静かに瞑想をこらして、ついに前人未踏の悟りを開いた。以後40余年間、インド各地を巡歴して多くの人々を教化し、ヴァイシャーリー近くのヴェーヌ村に至って重い病にかかった。一説によると、この病はパーパー村の鍛冶屋の息子純陀の捧げた食事で中毒したのだという。病は一度回復したが、再び重くなり、クシナガラの熙連河のほとり、沙羅双樹の間で入滅した。涅槃図はこの場面を描いた図なのである。
日本の涅槃図の第一形式は唐画をもとにしているが、中国中央の涅槃図はほとんどすべてが滅んでいるという。

しかし、残念ながら『中国石窟敦煌莫高窟3』には、唐代(618-907)の涅槃図は掲載されていなかった。

第332窟 初唐(618-712)
南壁後部には「涅槃経変」が表されているので、涅槃図も描かれていたはずだが、図版がない。同書は、図上部東段にクシナガラの沙羅双樹の間で釈迦が涅槃に入ったのち ・・略・・という。
確かに涅槃図は描かれているはずだが、足もと側(右側面)が見える構図だったかどうか確認できない。
なお、釈迦入滅の知らせを聞いて忉利天からやってきた母の摩耶夫人に説法する場面の図版はある。
その図はこちら

涅槃図 280窟 隋(581-618) 人字披頂西坡 (綴じ目部分が不鮮明です)
『中国石窟敦煌莫高窟2』は、人字披西坡中央に釈迦涅槃図が描かれる。白粉を地に塗り、周囲は土紅色の地に千仏が表されているので、十分に目を惹く。沙羅双樹の下に、釈迦は赤い袈裟を着け、横臥している。釈迦の前後には、諸菩薩、弟子、天人眷属が集い、悲しみ死を悼んでいる。枕元には母方の養母が坐り、前には金剛力士が悶絶している。足下には自分に自分の体に火を付けたスバドラと諸国を伝導して戻ってきた大迦葉がいるという。
この図は、足下側(右側面)が見える構図なのか、頭側(左側面)が見える構図なのか。どちらでもなく、横たわる釈迦を真正面から捉えているように見える。沙羅の木は3本。
それよりも、日本の涅槃図と異なって、頭光・身光をつけ、蓮華座に乗る仏像をそのまま横にしたような釈迦の姿だ。それなのに、衣から右手首だけを出して、頭の下に挟んでいる。左腕は体に沿って長く伸ばしている。
釈迦の左腰あたりで髪を掴んで泣き伏しているのは誰だろう。釈迦に食事を捧げた純陀だろうか。
涅槃図 295窟 隋 人字披頂西坡 
右腕を枕にして横たわる釈迦と、その死を悼む弟子や菩薩の姿が表されるという。 
280窟の涅槃図とよく似ているが、変色しているためか、人物の仕種がよくわかる。
釈迦の身光と左腕の間の寝台部分に、何かがごちごちゃと描かれている。それは上の280窟も同じだが、何かわからなかった。しかし、この図で、釈迦の背後に立つ比丘たちを見ていくと、左の4人は頭部に何も付けていないが、右には飾り物を付けた比丘が2人いる。それを見分けて気づいた。身光の中にあるのは、左の4比丘たちがはずして身光の中に投げ込んだ頭飾だったのだ。
だから、頭飾をつけた2比丘の間で髪を左手で引っ張っている比丘は、その頭飾を外しているというのだとわかってきた。従って、髪を掴んで泣き伏しているようにみえる比丘も。頭飾を外してるだけだったのだ。
沙羅の木は2本。枝は画面いっぱいに分かれて広がっている。そこに飛天が一人?ずつ描かれている。
ここでは迦葉が足に触れているためか、蓮華座は描かれない。迦葉の前ではスバドラが焼身自殺している。
釈迦は頭光・身光をつけていて、頭側(左側面)の見える構図になっている。
この釈迦も、衣から右手首だけを出して頭と枕の間に挟み、左腕は体に沿って長く伸ばしている。
上の2つの図に登場する髪を掴んだ比丘に似た人物が、東魏時代(534-550)の浮彫には、髪を掴まずに、両腕と髪を垂らした姿で登場している。この人物は紛れもなく釈迦の死を悲しんでいる。
それについてはこちら

涅槃図 420窟 隋 窟頂北坡中部
沙羅双樹の間で、釈迦は右肘をついて臥す。顔は金彩が施される。天人・眷属、菩薩・弟子及び善男信女が釈迦を囲み、哀しみ慟哭する。釈迦の枕もとには蓮台に坐っているのは、養母のマハプラジャパーティで、涙をハンカチで拭いている。
沙羅の木は2本。
頭側(左側面)の見える構図で、やはり頭光・身光・蓮華座がある。
枕も描かれているが、衣から出した右腕で頭部を支え、左腕は体に沿って長く伸びている。
隋代には金彩が施されるようになる。404窟の菩薩のように、装身具や頭光の外縁に金彩が用いられることが多いが、ここでは釈迦の体を金で荘厳している。
隋代の涅槃図は、正面向きのものと、頭部側(左側面)の見えるものがあり、釈迦は左腕は体に沿って伸ばすが、右腕あるいは右手は顔につけている。
日本の涅槃図が唐画をもとにしたものということなので、隋代に頭部側から見た構図だったものが、唐代になると足下側から見た構図へと変化したことになる。

唐画の影響と思われるものが、日本に残っている。

涅槃石 奈良頭塔西側 奈良時代後期(767~)
『日本の美術268涅槃図』は、天平時代の涅槃美術のもう一つの作品として、奈良頭塔にある浮彫の石仏に混じって、涅槃図を線彫した涅槃石がある。釈迦の姿は見えず、寝台をあらわす三重の線彫による平行四辺形があり、後世の涅槃図とは違う床座形式のもので、前面の二脚が見え、上の床は向かって右側面を見せる。右側面を見せる寝台の表現法は古い涅槃図の特色の一つでうる。寝台の周囲には数人の会衆が見えるが、風化のためよくわからない。『東大寺要録』に、神護景雲元年(767)東大寺の実忠和尚が新薬師寺の西野に建てたと伝える石塔が、頭塔にあたるのではないかと考えられているという。
隋代の涅槃図では寝台あるいは寝床の前辺は見えているが、後辺は釈迦の体で隠れている。ところが、この涅槃石は寝台の後辺も途切れることなく残っているので、釈迦の姿は表されていなかったのだろう。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
日本の仏涅槃図
法隆寺金堂天蓋から6 内側も
頭塔を見に行ったら
再び頭塔を見に行ったら

※参考文献

「中国石窟 敦煌莫高窟1」 敦煌文物研究所 1982年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟2」 敦煌文物研究所 1984年 文物出版社
「中国石窟 敦煌莫高窟4」 敦煌文物研究所 1999年 文物出版社
「中国石窟 安西楡林窟」 敦煌研究院 1997年 文物出版社
「涅槃図の名作展図録」 1978年 京都国立博物館
「日本の美術268 涅槃図」 中野玄三 1988年 至文堂
「絵は語る2 大いなる死の造形 高野山仏涅槃図」 泉武夫 1994年 平凡社
「敦煌石窟 精選50ガイド」 樊錦詩・劉永増 2003年 文化出版局