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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/01/22

キジル石窟は後壁に涅槃図がある



敦煌莫高窟では前期窟にしか見られなかった中心柱窟だが、新疆ウイグル自治区、天山南路の中央部に位置するクチャ郊外のキジル石窟では、一般的な窟の形だ。
『キジル大紀行』は、中心柱の手前の大きな部屋は「主室」、後ろ側には「後室」と呼ばれる小さな部屋があり、この二つの空間は「側廊」と呼ばれるトンネル状の通路で結ばれている。このような主室と後室をトンネルで結ぶ石窟形式はキジルで生まれ、後に敦煌や雲崗、龍門など中国の主要な石窟寺院に受け継がれていった。
古代キジルの僧たちは、石窟の最も奥深くにある暗い後室に、決まって一つの姿を描かせた。涅槃図、つまり釈迦の死を描いた絵であるという。
そして、中心柱の奥には、窟の幅いっぱいに涅槃図が描かれ、左側の通路から右繞して涅槃図へと到達する。ただ、キジル石窟は窟の一つ一つが小さいので、体が擦れそうなほど通路も狭いため、涅槃図の前で全体を見るということはできない。通路を進みながら、涅槃図を部分的に見ていくことになる。
涅槃図 80窟後甬道後、左、右壁 6-7世紀(キジル石窟の最盛期)
『中国新疆壁画全集克孜爾2』は、仏は七宝の床に右脇を下にして臥し、右手で顎を支え、身体は長く平たい。足は露出する。弟子の迦葉が足側に、頭側には下部が損傷しているが、金剛力士がいる。仏の身光は上側に描かれ、背後にはクシナガラの力士が4人並ぶという。
釈迦には頭光と身光が表されるのは敦煌の涅槃図と共通する。しかし、それらの光背には火焔文は描かれず、身光の内側で、釈迦の体から火焔が出ている。
キジル石窟では、涅槃と荼毘が一つの図で表されています
そう石窟ガイドの馬さんは説明してくれたが、同書にはそのようには書かれていない。
涅槃図 17窟後甬道後壁 6-7世紀
仏は七宝床に臥し、通肩の袈裟を身に着け、右手で顎を支え、体の上方に七條の光焰が出る。仏の左側に梵天、クシナガラの力士、最も外側に弟子の阿難が並び、足下に迦葉が跪くという。
この図も釈迦の体から火焔が出ている。
涅槃図 161窟前壁上方 6-7世紀
比較的完成した様式の涅槃図。仏は臥して右手で顎を支え、頭側に諸弟子、上方に梵天・帝釈天・クシナガラの力士、足下側で大迦葉が足を撫でているという。
うっすらと釈迦の体から火焔が出ているのがわかる。
焚棺図 205窟後甬道前壁 6~7世紀 ベルリン、インド芸術博物館蔵
仏が涅槃に入った後、龍頭の金棺に納め、荼毘に付した。図中、棺の蓋の上に火焔がもうもうと上がり、棺の下には牛頭に似せた栴檀を燃やしている。棺前で棺の蓋をあげているのは弟子の阿難という。
荼毘の炎は、涅槃図で釈迦の体から出ている火焔とは全く異なっている。涅槃図では剥落していたりして、よくわからなかったが、この図では確かに頭部側(左側面)が見えている。
馬さんの説明を聞いて以来、キジル石窟の涅槃図は荼毘と同一場面だと思ってきたが、『中国新疆壁画全集克孜爾2』には、どの涅槃図にもそのような説明がないので、疑問に思うようになった。

涅槃図 第2小渓谷第2洞 8世紀
『日本の美術268涅槃図』は、釈迦は右手枕し、頭光と身光を付けて横たわり、その体から数条の荼毘の火焔が立ち昇る。会衆は釈迦の両足を触れる大迦葉一人のみ。寝台は向かって左側面が見えるという。
他の窟では剥落していたりしてよくわからなかったが、当窟では、左側面から見た構図になっている。
キジル石窟では窟名には1960年代に通し番号が付けられた(『キジル大紀行』より)という。第2小渓谷第2洞がどの窟に当たるのかわからない。8世紀ともなれば衰退期に入っている(『中国新疆壁画全集克孜爾3』より)。当図だけで、他の窟の涅槃図も左側面が見える構図になっていたとは言えない。
『キジル大紀行』は、第二期で最も一般的なのは、後廊の奧壁に涅槃図を描いたり、あるいは台座を設けて塑造の涅槃像を安置するものである。
横臥する釈迦の双足を礼拝する長老大迦葉が決まって表されるのも興味深い。大迦葉が釈迦の双足を礼拝したとき、はじめて荼毘の火が燃え上がったというエピソードを表している(しばしば釈迦の体軀から荼毘の火が燃え上がる表現が見られる)が、同時に大迦葉は釈迦の衣鉢を継ぐ仏弟子とされ、弥勒菩薩の出世までの橋渡しの役割を負っているのである。第二期の中心柱窟には主室の入り口を入った上部、つまり前室上部の半円形区画には「兜率天上の弥勒菩薩」が表されることが多く、釈迦の入滅-大迦葉-弥勒菩薩という関連が暗示されているという。
キジル石窟の涅槃図は、迦葉が釈迦の足に触れて、やっと荼毘の炎が上がった瞬間を表したものだったのだ。

ところで、キジル石窟には涅槃図だけではなく、涅槃像が残っている。

涅槃像 新1窟後壁 6-7世紀 長約5m
上半身は崩壊している。
『キジル大紀行』は、キジル大石窟群の高さ80mの断崖の最下部には、瓦礫の山がスカート状に連なっている。上から崩れ落ちた土砂が10数mの高さにまでも積もっているのである。
1975年、堆積した土砂の下から、新しい石窟が発見されたのである。調査に当たった研究者たちは、石窟を埋め尽くす土砂を、指とヘラで少しずつ慎重に掘り進んだ。やがて彼らは最奥部の後室で、粘土の塑像に突き当たった。大きさはおよそ5m。それは、釈迦の死のときを描いた粘土による涅槃像だった。しかも、造られた当時の原形をほぼ完全にとどめている。キジルの涅槃像はほとんどすべてがイスラム教徒によって破壊し尽くされているのだが、この石窟は、14世紀にこの地域がイスラム化する前に洪水で埋もれたため、異教徒による破壊を免れたのだった。
亀茲石窟研究所のトゥルスングリさんはその発見直後、クチャの町から文化財管理官として駆けつけたという。
「実に優しい顔をしていました。涅槃像のあまりの荘厳さに息をのみました」
しかし、当時は文化大革命の混乱が続いており、彼女はその後数年間ここを訪れる機会を持てなかった。80年代になって再び新1窟を訪れたとき、粘土でできた涅槃像の仏陀の顔は崩れ落ちていたという。
流れるような衣文は、緩やかに釈迦の体を表し優美だが、顔も肩も崩壊した姿は痛々しかった。 
『中国新疆壁画全集克孜爾2』は、本窟の後室は広く、後壁前に台を穿ち、その上に塑造の涅槃像がある。その衣文は襞が隆起した線状で表され、繊細につくられている。涅槃像の上方には巨大な頭光と身光が描かれている。続くヴォールト天井には3体の飛天が色鮮やかに舞っているという。
残った部分から、光背の外縁は涅槃図と同様に、数本の色の帯で構成されていて、そこには火焔文などの文様はない。その内側には涅槃図同様、火焔が描かれていたのだろうか。

つづく

関連項目
クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
弥勒の大仏像は
五弦琵琶は敦煌莫高窟にもあった

※参考文献
「中国新疆壁画全集 克孜爾2」 主編段文傑 1995年 天津人民美術出版・新疆美術撮影出版社
「中国新疆壁画全集 克孜爾3」 主編段文傑 1995年 天津人民美術出版・新疆美術撮影出版社
「シルクロード キジル大紀行」 宮地治 2000年 NHK出版
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健・山田樹人 1990年 里文出版