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忘れへんうちに 旅編では、イスタンブールで訪れたところを長々と記事にしています。その中で興味のある事柄については、詳しくこちらに記事にします。

2013/02/01

クシャーン朝、ガンダーラの涅槃図浮彫



紀元前より仏教美術はあったが釈迦が人の姿に表されることはなかった。釈迦の造像はクシャーン朝において、マトゥラーとガンダーラ両地方で同時期に始まったのだろうと言われてる。ガンダーラでは仏伝図の浮彫は多く残っている。

『世界美術大全集東洋編15中央アジア』は、従兄弟で弟子のアーナンダ(阿難)とともにラージャグリハからヴァイシャーリーに旅した釈迦如来に魔王マーラが近づき入滅を願うと、すでに80歳になっていた釈迦如来は「3か月後に入滅する」と魔王マーラに約束し、さらに旅を続けた。そしてパーヴァー村にやって来ると鍛冶屋のチュンダに食事に招待されたのでそれを受けた。出された食事のなかに「スーカラマッダヴァ」という珍味(野猪の肉か有毒の茸か)があり、釈迦如来だけが食した。それにあたって赤痢になり、痛みをこらえてクシナガラまで旅をしたという。

涅槃図浮彫 ガンダーラ出土 2-3世紀 片岩 タキシラ博物館蔵
『シルクロードの仏たち』は、釈尊は故郷をめざしたが、途中、クシナガラで衰弱が激しくなり伏せてしまった。そのとき、老いた修行者のスバドラが釈尊を訪ねて来た。アーナンダが三度まで断ったが、釈尊は「アーナンダよ、スバドラを断るな、質問に答えてあげよう」といわれた。釈尊は質問に答えてから、「八正道」を説かれた。スバドラは「世尊よ、もし改宗者には4ヵ月というきまりがあるのなら、私には4年の修行期間を与えて下さい」と願い出た。この言葉を聞いた釈尊はただちにスバドラを剃髪させ、釈尊寂滅の日に最後の弟子としたという。
この浮彫では、寝台前右に後ろ向きに坐しているのがスバドラ、左で横を向いて枕元の人物に腕を掴まれているのは誰だろう。
釈迦の足元に立ち右手を挙げる人物は迦葉だろうか。
涅槃図浮彫 ガンダーラ出土 2-3世紀
『古美術103ガンダーラ美術・ブッダの生涯』は、釈迦が亡くなったとき、沙羅双樹は時ならざるに花開き、如来を供養するために降り注いだと伝えられている。横たわる釈尊の上にパジュラパーニとクシナーラーのマッラ族の貴族2人、左右に弟子2人が立ち、いずれも嘆きの仕種をとっている。左は最後まで釈尊につき従ったアーナンダであろうかという。
釈迦は頭光のみを付け、右手枕で左腕は体に沿って伸ばし横になっている。両足は立っている時のように少し開き、通肩の大衣は立像と同じような襞の垂れ方に表される。
足元に立つ人物は特定されていないが、迦葉ではないのだろうか。
ここでも寝台の前に2人いる。どちらも前向きで座禅を組んでいる。右はスバドラ、左は誰だろう。上図の人物と同じだろうか。
涅槃図浮彫 ガンダーラ、タキシラ  片岩 高22㎝ 2-3世紀 パキスタン、タキシラ考古博物館蔵
『ブッダ展図録』は、釈迦は寝台に右脇を下にして足を重ね、右手を枕にし、左手を体に沿って伸ばして横臥する姿で入滅する。画面右端には、釈迦入滅直前にやって来て面会を求める托鉢遊行者須跋(スバドラ)とそれを制止しようとする阿難(アーナンダ)。寝台の前で禅定に入るのは、釈迦に聴るされて最後の説法を聞き、先に入滅を決意する須跋。その左で転倒するのは、釈迦に長年従った悲しみの阿難。画面左端に、長老の大迦葉(マハーカーシャパ)が裸形の異教徒から釈迦入滅を知らされる。釈迦の頭光の背後に執金剛神(ヴァジュラパーニ)、そのほかクシナガラの人々や神々が手を高く挙げ、また胸に手を当てて嘆き悲しむ。沙羅の木が2本両端に表されているという。
スバドラが2度も登場し、異時同図になっている。
釈迦はやはり頭光を付けている。大衣の襞は少なく、やや下に偏っている。
上の2図でもみられた寝台前の左の人物は阿難だった。
遠方の迦葉に釈迦の入滅が知らされることが、入滅した釈迦のすぐ傍に表されるが、迦葉は釈迦の足元には登場しない。
全体を見ると、横になった釈迦の両側に2人の立った人物を置き、寝台前に2人を配してほぼ左右対称の構成になっている。
涅槃図浮彫 ガンダーラ、ロリヤンタンガイ出土 2-3世紀 片岩 カルカッタ博物館蔵
『シルクロードの仏たち』は、左端にマハ・カーシャパとアージヴァカ教の裸の修行者、枕元にいるのもマハ・カーシャバ(二度描かれている)、ベッドの下には執金剛神が釈尊寂滅のショックで立ち上がれない。その右に座しているのは最後の弟子スバトラ、釈尊の足元で腰が抜けて立てないアーナンダと手を差しのべるアヌルッダ。
マハ・カーシャパは500人の比丘を連れてパーヴァからクシナガラに向かう途中、異教の修行者に出会った。その修行者は「世尊が入滅されてもう7日目になる」と知らせた。マハー・カーシャパ一行は足を早め、その日のうちにクシナガラに到着することが出来たという。
ここでも迦葉は遠方で釈迦の入滅を知らされる場面が表され、その後釈迦の枕元に駆けつけた場面もあって異時同図となっとているが、釈迦の足に触れる場面までは表されない。
傾斜のある木棺3でも述べたが、寝台は頭部が高く足もとが低くなっているのは、たまたま水平に仕上げられなかったというだけのことだろう。
この図では、寝台前には右に前向きのスバドラがいて、左の方は執金剛神になっている。
上の3図に登場する寝台前の左の人物は、執金剛神ではなく阿難だろう。
涅槃図浮彫 ガンダーラ出土 クシャーン朝 2世紀前期 ペシャワール博物館
「図説ブッダ」は、枕辺に仏弟子やマッラ族の信者たちが悲嘆懊悩するという。
釈迦だけでなく、人物の衣は非常に衣褶の多い表現になっている。
寝台前は3人に増えている。右の後ろ向きの人物がスバドラ、左の左向きに踞って悲嘆にくれているのがアーナンダとすると、中央の右向きの人物は誰だろう。
足元に立つ人物は、釈迦の足に手を触れているように見える。迦葉が釈迦の足に触れる場面は、ガンダーラでは珍しいのかも。
ガンダーラの仏伝図は、仏塔の基壇部分を飾るため、仏塔の大きさによって1場面の大きさも違ってくるので、小さなものは簡略化されてしまう。

涅槃と荼毘図浮彫 ガンダーラ出土 クシャーン朝 2-3世紀 ペシャワール博物館蔵
涅槃の場面は登場人物は枕元の執金剛神だけだ。
荼毘について「図説ブッダ」は、マハー・カーシャパの到着を待って燃え上がった荼毘の火は虚空から下った水流と、マッラ族が注いだ香水によって消されたという。図では二人の男が長柄の先に壺をつけ、香水を注ぐようすをあらわしているという。
その右の涅槃図では足元側が壊れているので人物がわからないが、枕元に立つのは金剛杵を持った執金剛神だろうか。
涅槃 ガンダーラ出土 2-3世紀 片岩 東京・善養密寺蔵
『シルクロードの仏たち』は、枕元にいるのが執金剛神、その上後部に並んでいるのがアーナンダとアルヌッダ(推定)、足に触れているのは遅れてきたマハ・カーシャパ、下で後ろ向きに座しているのはスバドラという。
ここでは寝台前にはスバドラ一人だけが座っている。
ここでははっきりと釈迦の足に触れる姿勢をとっているが、身を屈める程度だ。キジル石窟や敦煌莫高窟で描かれているように、踞ったり、座り込んで表されることは、ガンダーラではなかったようだ。
キジル石窟の涅槃図についてはこちら
敦煌の涅槃図についてはこちら
ガンダーラでは、ほぼ同時期に制作された涅槃図浮彫でも、それぞれに登場人物が異なっている。それはガンダーラにも制作地が多数あり、その土地での涅槃の場面の言い伝えや、寄進者の好みなどが反映されているからだろう。
また、顔も少しずつ異なっているのは、ガンダーラの中でも土地によって住民の顔が異なっているからではないだろうか。
以前ガンダーラを旅行した人が、インダス川に流れ込む小さな流れのある谷ごとに、人の顔が違っていた。民族も言葉も違うらしいと言っていたが、ガンダーラの浮彫や仏像を見ているとそれが実感できる。
出土地の明記されている作品と比較していくと、涅槃図浮彫がどこで制作されたかがもう少しはっきりするかも知れないが、それは何時の日にか。

関連項目
クシャーン朝、マトゥラーの涅槃図浮彫
敦煌莫高窟17 大涅槃像が2体
中国の涅槃像には頭が右のものがある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
キジル石窟は後壁に涅槃図がある
敦煌莫高窟16 最古の涅槃図は北周
敦煌莫高窟15 涅槃図は隋代が多い
日本の仏涅槃図
傾斜のある木棺3

※参考文献
「世界美術大全集東洋編15 中央アジア」 田辺勝美・前田耕作 1999年 小学館
「古美術103 ガンダーラ美術・ブッダの生涯」 1992年 三彩社
「ブッダ展-大いなる旅路図録」  1998年 NHK
「図説釈尊伝 シルクロードの仏たち」 久野健・山田樹人 1990年 里文出版
「図説ブッダ」 安田治樹・大村次郷 1996年 河出書房新社
「インド・マトゥラー彫刻展図録」 東京国立博物館・NHK 2002年 NHK